「みんな」になるな「一人」になれ (by 玉光 順正)
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「みんな」とはいいことだと教えられてきたような気がする。
そして「みんな」になれない人が「一人」なのだ、なんて思うことがある。
そのくせ、「一人」を楽しんでいる人は、どことなくカッコよく見えたりもする。
誰も主体的に「みんな」ではない。そう、主体が無いから「みんな」なのだ。
でも「みんな」は「一人」が集まればそれで「みんな」なんだと思っていた。
本当の「みんな」の正体は「みんな」の中に放り込まれた「一人」なのだ。
だから、誰も本当の意味での「みんな」を知らない。
知らないから、誰も自分からは「みんな」になれない。
「みんな」とは「世間」であり、「組織」であると言ってもいい。
私には「みんな」とは違う「一人」であると主張するところがある。
でも、私は「みんな」になろうともする。
「みんな」は「空気」とか「常識」とかと呼ばれる枠組みを有している。
私は「みんな」の枠組みから漏れないかと不安を抱え、苦しむ。
私は「みんな」の中にいる「一人」であり、「みんな」からの評価が気にかかる。
得体の知れない「みんな」
評価なんか分からない。でも、不安だから自分で想定する。
これが「みんな」ということなのだろうか、と。
想定した「みんな」の「空気」に確かさを感じると、その答えを手放せない。
自由な思考や生き方と引き換えに「こういうものだ」と決めて安心したいのだ。
ひとたび安心すると、想定した「みんな」の「空気」と異なる存在は嫌がる。
「みんな」という、曖昧だが確かに感じる「枠」に収まらないモノは異物として排除する。
―――それが昨日までの友人、同僚であっても。時には家族までも。
その基準は、私という「一人」の想定する「みんな」である。
時には別の「一人」と似通う部分があることもあるだろう。
でも、本当は誰ひとりとして完全に一致することはないのだ。
それでも、「みんな」に染まろうと死ぬまで努力する。似通う「一人」たちと「みんな」を作ろうとする。
時には、私以外の「一人」を私の想定する「みんな」に無理やり染めようする。
それは、得体の知れない「みんな」や「世間」に完全に支配されてしまった姿だ。
そうして「みんな」を主(あるじ)とする。
得体の知れない主(あるじ)の為に、「一人」の心の叫び声に耳をふさぎ続ける。
そして、気ぜわしくはからい続ける、終わることのない歩みがはじまる。
なぜなら、「みんな」は気まぐれだからだ。曖昧な「空気」ひとつで見事に変わる。
ついには「一人」が「みんな」の為に、モノのように扱われるようになる。
私は「みんな」に支配され、私は「みんな」に裁かれる。
「みんな」に従わない「一人」のことも裁き続ける。
「みんな」を主(あるじ)とすると、正しさは暴走する。
―――想定外の事故が起きるまでは。
本当は「みんな」がわからない。でも、わからないところに眼を閉ざす。
「こういうものだ」と分かったことにする。そうしないと不安なのだ。
私は「みんな」の評価がこわい。「みんな」から漏れ、孤立することに怯える。
存在が生き残るために、お互いにけん制し、正しさを主張する。
存在が護られるために、お互いに探り合い、正しさを確認し続ける。
本当には誰も何も信頼していないのだ。
そんな私の「いのちの存在を軽んじる生き方」が「もっと」「ちゃんと」と私自身を駆り立てる。
「みんな」を主(あるじ)とし、「一人」を閉ざすとき、私のいのちもまた「みんな」より軽くなる。
私は私という「一人」なのか、それとも「みんな」の為の私なのかわからなくなる。
そして、私の心は支配され、暗く、生きづらい世の中を作りだしていく。
まさに「火の車 作る大工はあらねども 己が作りて 己が乗りゆく」
そんな人生は悲しすぎる。求め、目指す方向が違うのではないか。
今一度、「一人」にかえろう。身勝手にふるまうという意味ではなく。
和を以て貴しと為すことは美しい。
でも、それは「同じ」が貴いのではではない。「共に」が貴いのである。
ばらばらでいっしょである。
今一度、「一人」と「一人」にかえろう。
自分の価値観、世間を、「みんな」を絶対化し、はからい続ける私だけれど、お浄土の教えによって、すべての物事が相対化される世界を生きよう。
それはまた、人間として本当の意味で自立することに繋がる。
無理に考え方を変えたり、自分に嘘をついたりしなくてもよくなる。
自分の人生に責任をもって、自らが考えて生きていくことになる。
その歩みは私の人生を私「一人」が大切に歩む第一歩になり、「みんな」と共に生きる第一歩になるに違いない。
はからい已(や)まぬ私だけれども
「なんまんだぶつ」と、はからえない「いのち」の世界に還ろう。
南無阿弥陀仏
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