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ともだち100人できるかな? 【平井 裕善】

「一年生になったら」という歌をご存知でしょうか。

”一年生になったら
 一年生になったら
ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな
富士山の上で おにぎりを
パックン パックン パックンと”

幼稚園の時や、小学生になってからでも良く耳にすることがある歌でした。

幼少期の僕は人見知りが激しく、どちかというと一人で遊んでいるのが大好きな子どもでした。
ですので、友達というものがほとんどおりませんでした。
だから僕はこの歌が大嫌いでした(笑)

歌詞の意図は新しい毎日への希望にあふれた歌かもしれません。また友達を100人作りなさいという歌でもありません。
しかしながら僕にとっては「ともだち100人できるかな」と迫られているような気がしたので「余計なお世話なので放っておいてください」と感じていました。
実に偏屈な幼児ですね。そんな幼児もそろそろ不惑を迎える年になりましたが、この社会は「余計なお世話」が沢山あるような気がします。

「大人の男性なら高級時計をするべし!」という踊り文句を書いた雑誌の中吊り広告が、G-shockを巻いた腕で吊り革を持つ僕へ訴えかけてきます。
「アラフォー男性のモテる髪型」とスキンヘッドの僕へ訴えかけてきます。

いつもいつも心のなかで「放っておいてください」と思うことであります。ま、こういうのは冗談事で済みますが。
しかしながらたまには冗談で済まないような余計なお世話が「こうあるべし!」と迫ってくる場合があります。
たとえその「こうあるべし!」がその人なりの善意などに基づいたものでもあっても、僕にとっての「ともだち100人できるかな」と同じ圧迫感を持つことがあります。

「こういう人でなければならない」
「こういう考えでなければならない」
「こういう事をしなくてはならない」
逆に、
「こういう人であってはならない」
「こういう考えをしてはならない」
「こういう事をしてはならない」

このような強制と矯正の中で生きるということが、この娑婆で生きるということなのかもしれません。
時折「あーーーーー」っと叫んで何もかも放り出したい気分になることであります。
なんと人の世は生きづらいことなのでしょうか。
そんな世の中ですから「自己啓発」とかが流行るのかもしれません。
「笑顔でラッキーを引き寄せる」、「自分探しで毎日が変わる」等々の綺麗な言葉がアチラコチラで踊ります。
でも、それは本当の意味での解決手段なのでしょうか。
結局は自分を誤魔化しているのでは無いでしょうか。
見たく無いものを見ないように目を逸らして、聞きたく無いことには耳を塞いで、綺麗な物ばかりを見て、ここちの良い言葉ばかりを聞いている。そんな気がします。

お釈迦様はこのような虚仮不実の覚りがたき人の世で覚りを得られました。
しかしこの僕がお釈迦様のように覚りを得ることは、自分の日頃の生活を見ていてもどだい無理な事です。
だからこそ、そんな僕のためにお念佛をお伝えくださったのだと味わうことであります。

色々と理屈云々を述べる前に「あーーーーー」と叫びだす声を「なんまんだぶ」に変えてまいります。

image「なんまんだぶ」と称えてみても、この娑婆はあいも変わらずに強制と矯正で迫ってくるかもしれません。ちっとも住みやすい世の中にならないことでしょう。
しかし、僕が称える「なんまんだぶ」には阿弥陀様が「そのままでいいよ、真っ直ぐにおいで」と声の佛さまとして現われ出てくださることであります。
佛さまの智慧を借りることで、世間の事をキレイ事へと誤魔化しをすることなく、お念佛とともに生きていく人生。
それは実に有り難い人生なのではないでしょうか。

友達は100人できない人生でしたが、そのままで良いと呼んでくださる声の佛さまにお会いすることができました。
それは十二分に「虚しく過ぎる」ことの無い人生であります。

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お寺にお参りください! 【平井 裕善】

ochoumonn 「どうぞ、お寺にお参りください」

とお誘いしても、お寺にご縁の無い方にはわかりにくかもしれません。もう少し具体的に
 「お寺にお参りして、◯◯しましょう!」
とお誘いする方がわかりやすいですよね。では、この◯◯に何を入れましょう?

 「お寺に参って、仏に成りましょう!」
とお誘いするのが正解のような気がしますが、ちょっと壮大すぎますね。初めて聞く人なら引いてしまわれるでしょう。

浄土真宗のお寺は「お念仏のみ教えを伝える」ための道場です。読経も、本堂のお飾りもすべてそのためです。その中で聞くお話が「法話」です。
法話は仏さまの話です。仏様のお話を聞くと、「心あたたまる、深い話で、癒やされるんですよね!」と思われる方がおられることでしょう。心あたたまる話もたくさんありますが、なかには自分の身の浅ましさ、醜さ、愚かさを突きつけられ、思わず息が止まるような思いをする話もあります。そういった自分の身のどうしようもない愚かさと同時に、それを目当てとして救う阿弥陀さまの「お心」や「おはたらき」、そしてそういった事すべてが南無阿弥陀仏のお念仏としてこの私の身に届いていることをお聞かせいただくのです。それを【聴聞(ちょうもん)】といいます。

浄土真宗ではその聴聞こそが大切なことですから、
「お寺にお参りして、お聴聞しましょう!」
というお誘いが良いかなぁと思います。さらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すことも強調したいことです。ですので、
「お寺にお参りして、お聴聞され、『南無阿弥陀仏』と申しましょう!」
という誘い文句はいかがでしょう。ちょっと長すぎるでしょうか。それなら、
「お寺に参って、お念仏しましょう」
とする方がすっきりします。

確かに「なんまんだぶ」のお念仏は、どこでも、いつでもできます。私の所へ「なんまんだぶ」と声の仏さまになって届き、はたらいてくださっているのですから。
一人でお念仏することもできます。しかし、お寺にお参りいただき、荘厳な雰囲気の中でおつとめをし、お念仏のいわれのお話を聞いて「なんまんだぶ」とお念仏することのよろこびを共に味わいたいのです。日常の生活の中では「なんまんだぶ」となかなか口に出すことができない人にこそ、そういう雰囲気の中でお念仏することをお誘いしたいのです。

そんなことを思いながら、しばらくの間のお誘いの文句は、
「お寺に参って、お念仏しましょう!」
でいきたいと思っているのです。なんまんだぶつ。

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