我が一人子として 【平野 正信】

前回、もうすぐ生れてくる子供に名前をつけたというお話を掲載していただきました。
あれから少しして、つれあいが出産してくれて、明法(あきのり)が生れてくれました。

私は大阪で仕事、つれあいは長野の実家で出産、ということもあり、出産に立ち会えるか立ち会えないかは微妙なところでしたが、運良く休み中に陣痛がはじまり立ち会うことが出来ました。
立ち会えて良かったと思います。

男性の中には、立ち会いは「こわい」「あまり立ち会いたくはない」と言う人がいますし、そういう気持ちもわからなくは無いです。いや、実はとても良くわかります。

なにせ修羅場です。今から激痛に耐えるつれあいを見なければならない。励ますこと以外は何も出来ない、というのは確かにこわいのです。

でも、是非これからという人は、パートナーが望む場合は立ち会ってほしいと思います。
私達男性はこわいだけ、女性はこわいどころの騒ぎじゃなく、今から実際に体験するのですから。

陣痛のタイミングに合わせ、つれあいが苦悶の表情でいきみます。何度も何度も何度も、朦朧と激痛を繰り返す姿はとても痛々しいものでした。

そんな中、最後に産声が聞こえ、明法(あきのり)が誕生しました。
はじめて明法の泣き声を聞いた時はとても感動しました。

翌日は何故か僕も色々なところが筋肉痛になっていました。
それだけ力んでいたということなんでしょう。
しかしまたここからが大変でした。

出産から数日間、つれあいは生れたばかりの赤ちゃんと一緒に過ごすことが出来たのですが、数日後つれあいは40度を超える高熱を出して倒れてしまったのです。
産褥熱(さんじょくねつ)という病気で、出産後の感染症でした。
即入院でした。

明法はつれあいの実家で世話することになりました。
入院翌日、熱はあるものの少し楽になったとのことで、私はつれあいの身の回りのものを持って病院に見舞いに行きました。

「少し楽になったようだし、育児のつかれもあるだろうから、今は育児から離れてゆっくり休めばいい」
と声をかけると、つれあいはポツリと

「あっくんに会いたい」

と言ったのです。
そして今まで見たことの無い寂しい表情をしました。

10329274_544263962348595_1977373831888232437_n十月十日、おなかの中に一緒にいた明法、生れてからは寝かしつけおむつをかえ、乳も飲ましてひと時も離れることがありませんでした。
飲まれなくても胸は張ります。入院当初、検査結果が出るまでは、せっかくの母乳を捨てなければなりませんでした。

私がつれあいにかけた
「今は育児から離れてゆっくり休めばいい」
という言葉は、私は優しさのつもりでしたが、つれあいにとっては残酷な言葉であったかもしれません。

つれあいは休みたいのではなく、この手に抱いて、世話をして、乳をやりたかった、明法に触れていたかったのです。
私はこの時、ある御和讃(ごわさん)を思い出しました。
浄土和讃(じょうどわさん)の

平等心(びょうどうしん)をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり
一子地は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし

という御和讃です。

一子地とは、菩薩(ぼさつ)が一切の衆生(しゅじょう)を我が一人の子として慈しんで見ることが出来るという境地です。

つれあいは明法を一人子として見ています。
そして、慈しみと同時に、今つれあいは悲しみ、寂しさの中にいるのだな、と思いました。

 

つれあいが
「一子地って何?」
と聞きました

「あなたが明法をおもうのと同じ気持ちで、全ての生きとし生けるものを見ることが出来る、菩薩様の心のことだよ」
と答えました。

つれあいは少し押し黙って
「そっか、…それは私には無理やなあ」
と言いました。

私も同じように思いました。
一人子と離れることの辛さに打ちひしがれ、一人子を心配してたまらない気持ちになっているつれあいを見ていると、全ての生きとし生けるものを、これ以上無いほど大切な仏の子と思いやってくださっている仏様は、一体今までどれほど悲しんでこられたのかと思ったのです。
仏様の慈悲はやさしさ、ただただ嬉しい気持ち、と思っていた私は、ハッと気付かされた気がしました。
離れ離れにされた母子のように、救いたいと必死によびかけてきた数知れない衆生が、また命つきては輪廻の中に埋もれていく。
それを阿弥陀様はどれほどの悲しみで見てこられたのか。

「あなたを救いたい」とずっとよびかけてきた呼び声が、そのものの生涯の間にとどかなかった虚しさは、どれほどに寂しいお気持ちであったのでしょうか。
数日経ち、血液検査の結果も出て熱も下がり、つれあいは退院することが出来ました。
そして、少しの間離れていた我が子を、また抱くことが出来ました。

この時の「よかった」という気持ちは、私がお念仏申すとき、阿弥陀様が私に向けてくださる気持ちと似ているのかもしれないな、と思いました。

「ずっとよんでいたよ
よかった
南無阿弥陀仏をやっとうけとってくれたね
よかった」
私をおもって悲しみ続けてきてくれた阿弥陀様が、今やっと私を一人子として抱きしめて、よろこんでくださっています。

お念仏をいただくとは、仏様に抱きしめられることなんだ。
そのように味あわせていただくご縁でした。

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