高校の時、音楽大学を卒業したばかりの浄土真宗のお寺の息子さんが講師に来られました。その高校の卒業生で、教職の採用が決まるまでの2年間教えていただきました。
特別親しかったわけではありませんが、同じ宗派の方でしたし、私も音楽系のクラブだったので、それなりに話はしました。そういえば音楽準備室でコーヒーをご馳走になったこともありましたね。年賀状の交換も。でも私が三年生になったときには、もうどこか他の学校に移られていました。
先日、その先生をネット上で再発見しました。全然別の用件で検索をかけていたら、たまたまその人のブログがヒットしたのですから、ほんとうに再発見という感じです。そこに書かれていたのは、「浄土真宗の僧侶だった私が日蓮正宗の信者になったわけ」。驚いたことに、先生は家族ともども日蓮正宗の信者となってお寺を出られたようです。
何となく思い当たることはあります。その先生は音楽だけでなく野球もやっていたという熱血漢で、理性よりも感情に重きをおくタイプ。不正や間違ったことが嫌いで、はっきり結論を出すことを好みました。ブラスバンドの顧問をされていましたが、生徒からの好みは分かれていたようです。私も何かで指導されたことがありますが、こんな言葉をおぼえています。「俺は、ボールが飛んできたら自分の力でそれをつかんで、赤なのか白なのか確かめてみないと気が済まない性格なんだ」。
三十年間浄土真宗の僧侶だったというその人のブログには、浄土真宗の悪口が書き連ねてあります。「非僧非俗」「往生浄土」「菩提心」といった言葉が出てきますが、そのどれもが誤解・曲解にみちたものです。おそらく、移った先の教義で、強く再教育された成果でしょう。文章の端々には家族のことで悩んでいたことも垣間見えます。私は「浄土真宗が合わなかったのかもしれないな。でも、今この人が満足ならそれで良かったのだろう」と思うことにしました。
しかし、よく考えてみたら後の行き先が破壊的なカルトである場合もありうるわけです。去る者は追わずと、格好をつけている場合ではないのかもしれません。それに、三十年の間、お坊さんをしてきたわけですから、その間にちゃんとした浄土真宗の話を聞く機会は、いくらでもあったはずです。それがこの人の心に響くことがなくて、別の宗教がぴったりきた。これはもちろん、本人の性格とか好みもあるわけですが、それにしてももうちょっと何か方法はなかったのだろうかと思うのは、私だけでしょうか。何か今の真宗に欠けているものがあるのではないか、ということです。
ストイックな仏教の修行に、漠然としたあこがれをもっている人というのは一定の割合でおられるようです。こういう表現が適切かどうかわかりませんが、真面目な求道タイプの人、自分を変えたい、向上させたいという思いを強く持っている人です。ひょっとすると、この先生もそういうタイプだったのかもしれません。そういう人が、自分の思いを真宗の僧侶に投げかけると、こんな答えが返ってくるのではないでしょうか。「そういう自力修行はやりません。浄土真宗は他力の教えですから」。別に間違ったことを言っているわけではありません。しかし、いくつか問題が隠れています。まず、この返答を聞けばたいていの人は「浄土真宗には行はない」と思ってしまうでしょう。それは違います。もう一つは自力修行を格下に見る悪い傾向です。さらにこんな言葉が付け加えられるかもしれません。「念仏ひとつで救われるのが浄土真宗です。自分で何かやろうというのは「はからい心」ですよ」。これまた間違いではありませんが、言われた人は目の前でシャッターを閉められたような感覚をおぼえるでしょう。まったく親切心に欠けますね。
この先生とは別人ですが、「何かやりたい」とお寺に来た人にお聴聞を勧めたけれども、結局今は別の新宗教で戸別訪問を熱心にやっているという人を知っています。この人も真面目な人でした。しかし考えてみると、私たちはそういう「真面目な人」とちゃんと向き合える準備ができているでしょうか。むしろ、厳しい修行がないことを誇りのように思い、世間や常識に流されるばかりで、一所懸命に何かをやろうとしているのを冷笑するような雰囲気がありませんか。口では念仏ひとつと言いながら、念仏を大事にしない生活。そういう不真面目さに、真面目な人は敏感なものです。
少なくとも真面目は悪いことではありません。もちろん、人間の真面目さだけで悟りを開けるわけでも、信心がいただけるわけでもないでしょう。真面目さでがんじがらめになって仏教から遠ざかることもよくあることだと思います。でも間違ってはいけないのは、真面目というのは人間の側の性格・個性にすぎないということです。本願において人間の性格は問題にならないのです。
真面目な人に向き合うために、真宗のお寺で座禅や瞑想をしようと言っているのではありません。足りないのは、真宗を仏教全体の中でどのように位置づけるかという認識かもしれません。たとえば、前に書いたように、行のない仏教はありません。親鸞聖人が「大行とはすなわち無碍光如来の名を称するなり」と書いておられるように、真宗にも行はあるのです。
この部分の解釈は、教義の上ではいろいろと細かい議論もあるのでしょうが、さしあたっては称名念仏が真宗の行であると理解していいと思います。ところがそうすると「口で南無阿弥陀仏と言うだけでいいんですね?」「言えばいいんでしょ?」という人が出てきます。そういう人は、自分が自分の意思で南無阿弥陀仏と言っていると思っているのでしょう。しかし、称名は私の行いであって私の行いではないというのが真宗の立場です。
私から声が出ているという点では、称名はまちがいなく私の上で起こっている行いです。でもそれは、阿弥陀如来のはたらきが私に届いて私に念仏させているわけですから、源泉は私の内にはなく、阿弥陀さまにあります。如来が私に作用して、私に行をさせているのです。そのことを知らされていくのがお聴聞、法話を聞くという過程なのでしょう。
修行というと、思い出すことがあります。私がある先生の講義を聞いたときのことです。以前、オウム事件の時にある放送局から取材を受け、終わりがけに記者から「修行とは何か」と質問された、と前置きしてこんな話をされました。
「修行には二種類あります。賢くなる修行と、愚かになる修行です。賢くなる修行が、仏教で一般に言われている修行です。しかし法然聖人は、自分の愚かさを自覚するのが浄土門の修行であると考えられました。「愚癡にかえって極楽に生まる」です。浄土教の修行というのは愚癡にかえること、自分の愚かさを思い知ることです。しかし、自分の愚かさを思い知ろうと思ったら山にこもって修行してもだめです。一人で静かなところで心が静かになっても、そんなものは大したことはない。むしろ毎日の生活で、親子兄弟夫婦が様々な葛藤を繰り広げるその中で、人間の愚かさというものを思い知ってゆく、これが修行だろうな。ただの世俗の生活ではない。浄土教の在家の生活というのは、自分の愚かさを思い知らされる修行の場なのです。」
私の口から南無阿弥陀仏が出るのは、阿弥陀さまの力が私にはたらいているからです。しかしその私は、一日中お念仏しているわけではありません。むしろ、念仏も阿弥陀さまも忘れている時間の方が長いかもしれません。けれども、私が忘れていても如来は私を忘れません。私が煩悩の中で焼かれたり流されたりしているその時も、如来の慈悲ははたらき続けているはずです。そのはたらきがあるから、私が自分の愚かさに気づくことができるのでしょう。世俗の生活が修行なのだと言うことができるのです。ボランティアも瞑想も、自由にやればいいと思います。それと同時に、真宗の修行ということをはっきりさせておかなければなりません。求められているのは、自力他力の線引きではなく、ふさわしい伝え方なのだろうと思うのです。
執筆者:寺澤真琴(てらさわまこと)
1962年生まれ。
東京工業大学(修)卒、化学会社、教学研究所講師を経て、現在は本願寺派清徳寺住職(滋賀県)。近畿大学非常勤講師。
気象予報士。大阪の某放送局で気象キャスターをするも、一年でお役御免に。柏原市在住。
私は「不真面目人間」ですから、浄土真宗の言っている「他力本願」の方が受け入れやすいんですよね。白黒つけるのは簡単だし楽になるけれど、敵を作ってしまってせっかくの学ぶチャンスを逃してしまう事も多いです。最近それに近い経験したから私は「この人達は本当に幸せなんだろうか・・・」と感じました。これからは自分なりに楽に生きようと思います。