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『あみださま』は、えらばない。 【一二三 智生】

 阿弥陀さまのはたらきは「えらばず」と言われます。

「えらばず」という事は、「比較をしない」という事でしょう。

2011年に発刊された、みうらじゅんさんの《マイ仏教》という本があります。この方は、多才な方ですが、この本の中、後半に“非核三原則”ならぬ“比較三原則”という項目がありました。我々は、日々の生活の中で色々な事を比べて生きているというのです。

10250684_1492718890951152_1510747884_n「他人と自分」「過去と現在」「親と自分」これら3つを比較して、自分自身の人生を狭いものに閉じこめていると言うのです。まさしく、我々は比較するという煩悩で優劣をつけ、自分自身を狭いものに閉じ込めています

このような比較する私に対して、阿弥陀さまは「えらばない、比べない」とはたらいていて下さるのです。

 ところが、現代社会を生きていく上で、色々な事を自らの都合によって選び、比べ、それによって生じる苦しみ悩みを抱えているのが私達です。 この苦しみ悩みを無くすことは容易ではありませんが、これらを無くすことができない、そういう私という存在を既に見抜いておられる方が「えらばない、比べない」とはたらいて下さっている『阿弥陀さま』なのです。

 『仏法は聴聞にきわまる』

これからも、阿弥陀さまのお言葉をお聞かせいただききながら、阿弥陀さまの誓いを信じ、「南無阿弥陀仏」をとなえながら力強い人生の歩みをさせていただきましょう。

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おもかる石が想い?! 【太田 幸典】

持ち上げてみて、軽いと思えば願いがかない、重いと思えば願いがかなわない…

10156913_599848460111848_1926585298_nそんな石が神社さんに置かれていることがありますね。
”信心深い”?僕は必ず持ち上げてみます。でも、この石、大きさのわりに意外と重いんですよね。
毎回、”重い”と感じる僕は決まって周囲の人たちに「これ、意外と軽いなぁ。」と言います。
それで、毎回、変な汗をかくことになるんですが、神社さんの片隅に置かれているのを発見すれば持ち上げてみたくなるのです。
そこで、今回、この”おもかる石”について考えてみました。
持ち上げてみて”重い””軽い”と感じるのは持ち上げる前の覚悟が大切なんですね。
見た目はこぶりな石だけど「これはかなり重くて手ごわい石だ!」と思って持ち上げると、きっと軽く感じるでしょう。
「これは軽そうだな。」と思って持ち上げてみると「意外に重いなぁ!」となるのでしょうね。

この”おもかる石”は人生に似ているのかもしれませんね。
「人生は明るくて楽しくて…」と思っていると様々な困難にぶつかるたびに「生きることは、なんでこんなに辛くて悲しいの?」と思うでしょうし、「この世はつらいものだ」と思って毎日を過ごしていると、ちょっとしたことがとてもありがたく、またうれしく思えるのかもしれません。

えっ?今頃気付いたの?って言わない言わない…

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日々のご給仕 【吉峯 教範】

10250955_683681128360050_1249638353_n某所で御葬儀の手伝いをしていた時に、ある方が仰った。
「どうして、ご葬儀のお道具は皆銀箔が押してあるのかわかりますか?」
お東の寺院の葬儀では、蝋燭や供笥、四方といったお道具や、根菓餅の柱や四華(紙華)に銀濃といって銀箔や銀粉を押したものを使うのですが、どうしてだと思います?というご質問でした。

「銀箔はね、すぐに酸化して真っ黒になっちゃうんですよ」
それが、答えでした。

葬儀に使うお道具やお供えは、その都度その都度一から作り直すなり、誂え直したりして使うもの。そういうご教示だったと思います。
「手間暇をかけて勤めるもの、それがお葬式だと思います」ともお聞きしたように覚えています。

10169028_683681135026716_154939493_nご葬儀に限らず、行事の際にはその都度打敷をかけ 瓔珞を吊り 五具足とし、終われば打敷や瓔珞を外し三具足とするのも、杉盛や須彌盛、仏花等法要の度に使い回しのできないお供えを用意するのも、真鍮の仏具を毎回磨くのも大切な意味があることなのだと教えていただきました。

さすがに本山や別院以外で瓔珞までかけたり外したりするお寺さんは数ヶ寺程しか存じ上げませんが、少しでも手をかけるところを残しておかないと、見た目は美しく綺麗でも中身のない上辺だけのものになってしまうのではないかと思います。

最近は、御仏飯や杉盛、須彌盛の精巧なレプリカ、見事な立花の造花、金箔を推したりセラミックでコーティングされた仏具、そして山型(お東)・箱型(お西)の灯芯の炎の形まで再現したような輪灯や菊灯の電飾まで発売されていると聞きます。
そのすべてがすべて悪いとは言いませんが、どこか一つか二つくらいは手間暇をかけることのできる場所を遺しておいて、お荘厳の本当の意味を思い出させていただく機縁とさせていただきたいものです。

見た目だけご本山の両堂と同じに見えるようにしても、それはお荘厳でも何でもなくただの自己満足にすぎないと思います。

10248795_683681131693383_589665077_n毎朝、油を差し火を灯し灯芯の形を整える。突出や盛相でなくともまず炊きたてのご飯をお供えさせていただく。
杉盛や須彌盛の形にはならなくとも、レプリカを廃して本物のお餅をお供えしてみる。
蝋燭を立てる時は朱のいかり型が用意できず白い棒状の蝋燭しかなかったとしても、まず電飾を外してマッチを擦ってみる。
何もあれもこれも一度に全部しようと思わなくても良いのです。
一つでも二つでも自分の手でやってみれば、ただ本山通りの形の電飾を飾って悦にいっているよりは、よほど得られるものが多いのではなかろうかと思います。

どんな一張羅の着物でも365日着たままでは、よそ行きにはなりません。
打敷やお供物を載せる供笥もまた、普段はしまっておいて出しっ放しにはせず、ご命日や報恩講にのみ荘るからお荘厳になるのです。

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「なかま」ということ 【朝戸 臣統】

スタッフネタですが、けっこう大切なことかも。(*^_^*)

bannerこの、リレーコラムのサイト、最近少しだけ変わりました。右上にある説明が、
「浄土真宗のなかまによる連載コラム」
になったんです。そうなる前までは、
「浄土真宗のお坊さんによる連載コラム」
だったんですよ。気が付きましたか??

ご法話でなくても、浄土真宗に関わる身近なことをリレーコラム形式で掲載しては、という企画からスタートしました。当初は、執筆陣がお坊さんばかりだったのであの表記になっていたのですが、お坊さんじゃない方もコラム執筆に加わって下さるようになりました。そうなると「お坊さん」という括りでは合わなくなったんです。
「お坊さんでダメなら、門徒にしてみたらどう?お坊さんも門徒だし。」
「いや、門徒というのはお寺に所属する人だから、それ以外の人を除外しちゃうんじゃないの?」
「そうか、じゃあ、なかまという表現にしようか?」
というようなやりとりの中で、新しい説明へと変更になりました。

今回のことを通して知らされたのは、ひとつのカテゴリーを作るということは、その外側にカテゴリーから疎外される者を作り出している、ということでした。内側にある者はそのことに気付きにくいのですが、疎外された者は傷みと共に感じてしまうのです。仲間作りという行為そのものが、実は仲間はずれを作る行為につながってしまう危険性をはらんでいるのですね。
Jリーグのサポーターによる「○○○ONLY」という横断幕が差別的だと処分されたのも、同じ理由なのでしょう。

コラムを執筆して下さる方はもちろん、このコラムを読んでくださっている皆さんも、お念仏のみ教えをよりどころとして生きている「なかま」です。だから私は、ここに「なかまはずれ」と感じる人がいなくなるようなサイトでありたいと願っています。
だって、如来の願船に乗せていただいた、お互いですからね。

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お寺ネコ 【蕚 慶典】

お寺にはネコが4匹います。全ては「ノラ」出身。

IMG_1625隣接する大阪市の墓地で、お参りの方々のお供えがたっぷりいただけるので、捨て猫などが育ったとみえます。15年ほど前からその数が目立つようになり、恋の季節にはお寺の塀近辺でも、「あまーい」声がひびきます。
気が付きますと、小さなネコちゃんがうろうろ。「可愛い」といってエサだけを与えに来る人もできたのですが、そうなると今度はお墓詣りの方々から「お供えを荒らし、糞便が汚い」と苦情も増えます。中には、ネコ嫌いの人もいますから暴力を受けて、傷を負うネコも目立ってきました。
そんなこんなで坊守や娘たちが、賛否両論はあるかもしれませんが、費用を払って去勢手術をした上で放つということを始めました。そうしますと、手術後に保護しているネコちゃんが懐いてしまい、勢い飼いネコになるということになり。それで4匹おります。
その中に1匹、歯の抜けた子猫がいまして、獣医さんに見ていただく中で先天的な糖尿病であることがわかりました。十年前のことです。なにせ元はノラですから、なかなか人に身体をさわらせません。診察にも餌付けでボックスに誘い込んで連れて行くぐらいですから、すばしこくって慣れないのです。
IMG_1626引っかかれたり噛まれたりしながらとっつかまえてインシュリン注射。朝晩二回です。大変な作業となります。ところがしばらくしますと、このネコ、我々夫婦のお布団の上で寝るようになってきた。また、注射の際にはじっとうずくまってくれつので、二人がかりで押さえつけての注射が、一人で十分となります。ネコ自身が、あんなに嫌がりにげていた注射が、むしろ自分の命を支えるものであることがわかったのでしょうか。不思議な思いでした。そして、一日のウチ半分は外にいたネコは、今、おひざの上で居眠りをしています。

ネコさえも、知りたくないしたくないと思えることであっても、真実自分を救うてくれることならば順う。今、大悲のお心でどのように背こうとも、「必ず共にあって浄土へすくうぞ」と、はたらきつづけの如来さまに遇いながら、私たちはどうだろうかと思うのです。
満開の桜の下、さっきから子ネコが1匹、またお寺の庭でミーミーと鳴いています。

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星とたんぽぽ 【藤堂 尚夫】

星とたんぽぽ

春のくるまでかくれてる、tanpopo

つよいその根は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

この詩「星とたんぽぽ」の作者である金子みすゞさんは、「若き童謡詩人の巨星」と言われながら二十六歳でこの世を去った薄幸の人でした。しかし、その優れた感性は、通常では見えないところにまで及んでいます。

私たちの命は、実に多くの人やものによって支えられています。しかし、そのことを私たちは、いつも意識してるわけではありません。では、私たちは自分の命を支える根について、忘れたままでいいのでしょうか。

みすゞさんに深い理解を示しておられる矢崎節夫さんは稲の根について書いています。(『金子みすずこころの宇宙』)それによれば、八十センチほどにのびた稲は三十メートルもの根を張るのだそうです。そして稲の根は地面の中で様々なものに出合い、その出合いを糧として稲が育っていったと矢崎さんは言います。

私たちも多くの出会いを糧として、地面の中にしっかりと命の根を張っていきたいものです。

阿弥陀様のお働きは、直接目にできるものではありませんが、「見えぬけれどもあるんだよ/見えぬものでもあるんだよ」というとき、私たちは、阿弥陀様のお働きの実在を信じることができるのですね。

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華やかさのかげで 【菅原 昭生】

あの水戸の黄門さま(徳川光圀)が、こんな歌を詠んでいます。

      ただ見れば     何の苦もなき水鳥の
      足に閑(ひま)なき     わが思ひかな

swan

湖面を滑るように泳ぎながら優雅な姿を見せる白鳥も、水面の下では、休むことなく足ひれを動かしている…。

つまり、外(側)からみれば、楽(簡単)そうに見えることでも、その影(裏) には他人の知らない苦労(努力)があるという意味でしょう。

米国野球で活躍しているイチロー選手は、他の選手ならとても追い着きそうもない打球をさり気なく、いとも簡単そうに捕球すると聞いたことがあります。それは、抜群に素早いスタート、的確な判断、鍛え抜かれた瞬発力に裏付けられたものです。

しかし、それを得るためにイチロー選手が平生から積み重ねている不断の努力を私たちは目にすることはありません。影の努力(苦労)が、大きければ大きいほど、表舞台はかえって 平然と見えるのかもしれませんね。(その反対もあると思いますが…。)

ところが、私たちは どうしても他人を自分の見える範囲で判断してしまいます。そのくせ、反対に他人が自分のことを、上辺だけで決めつけようとすれば、「何も知らないくせに…」と腹が立ちます。

思えば、葬儀の会葬者が故人の人生に対して、「幸せだった」とか「気の毒だった」と無責任に評することも要らぬお世話でしょう。人はだれも、他人に知られることのない苦しみ・悲しみを抱えて生きています。ただ、それを言わないだけ。聞かれたくないだけ。

仏さまは、人知れず苦しみ悩む私を知りぬいた上で、「何も言わなくていい。わかっているよ」と、ただ、黙って寄り添っていて下さいます。だから、こんな自分でも前を向いて歩いていけます。強くなくてもいい、立派でなくてもいい…そのままでいいと抱いていて下さるのですから。

笑顔の下に隠された涙…。さりげない言葉・仕草の中に込められた 優しさ。華やかさのかげにつつまれた悲しみ・苦しみは、その人生に深みと愛おしさを感じさせてくれるのかもしれません。

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