慈悲に聖道・浄土のかわりめあり【朝戸臣統】

熊本で、大きな地震が起きました。何十人もの命が失われたばかりでなく、未だに余震が続いていて、多くの人たちが不安な日々を過ごしておられるようです。家が崩れ、道路が寸断され、命が失われていく中で、当たり前のようにあった目の前のものが、ガラガラと音を立てて崩れていくかのようです。
自然は、時に豊かな恵みを与えてくれるけれども、時には残酷な災害ももたらしてしまいます。

ここ数十年で、私たちは様々な大災害に見舞われ、その度に力を合わせて復興の道を歩んできました。同時に、人間の力の無力さを知らされ、自分の力の限界もイヤと言うほど知らされました。
住む家も、道路も、水や食料も、そして家族や知人がいてくれることを「当たり前」だと思い込んでいた私から、その当たり前が奪い取られてしまう。「どうしてこんな目に遭わないといけないのか!」と叫びたくなるばかりです。
どんなにお念仏申したからといっても、お念仏で災害に遭わなくなるわけではありません。お念仏で経済的な支援をいただけるわけでもありません。
あらためて、私たちにとってのお念仏とは、いかなる意味を持つのでしょうか。

歎異抄 第四条には、「お慈悲」には二通りあるのだという、親鸞聖人のお言葉が示されます。

 あるとき、親鸞さまはこう言われた。
「慈悲」というものについて、私たち他力門と、自力をたのむ聖道門とでは、考え方がちがう。
 聖道門の慈悲とは、他人やすべてのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、自力のちからでたすけようとする気持ちと、その行為のことである。
 しかし、はたしていったい、ほんとうに自分のちからで他の人びとを根底から救うことなどできるものなのだろうか。
 我々の信じる他力の慈悲というのは、すべての人は念仏によってまず浄土に生うまれ、そこで仏となる。その結果、新たな力を得えて人びとを救うことができるという考えかたである。
 この世において、どんなに他人があわれで可哀相に思われても、自力で思うがままにそれを救済することなどできないことなのだ。そのことを思えば、自力の慈悲にたよることだけでは十分ではない。だからこそ、ただひたすら念仏することに徹底することが、ほんとうの慈悲の心と言うべきだろう。
(五木寛之氏『私訳歎異抄』より)

多くの命が失われ、避難所でつらい思いをしておられる方々の映像をテレビで見ながら、「かわいそうだなあ、何とかしてあげたいなあ。」と思う自分がいるのも事実です。
でも、そう思いながら、いつもと同じようにごはんを食べれば、ちゃんとのどを通ります。いつものように晩酌をし、ぐっすり眠っている自分がここにいます。
私の中からわき上がってくる、何とかしてあげたいという「お慈悲」の思いは、あまりにいいかげんで、頼りないものでしかありません。

目の前にある「当たり前」が崩れ去っていくのは、災害ばかりではありません。突然の事故や、大病を患うなど、様々な人生の苦難に遭わねばならないのが、私の現実でもあります。
私自身は、四年前の交通事故で、今までの当たり前が私の手から奪われていきました。与えられていた仕事もすることができず、家族や周りに心配をかけ、ただベッドに横たわるしかない現実の中で、「どうしてこんな目に遭わないといけないのか!」と強く思いました。
その一方で、「当たり前」を失ったことで、何が本当に大切なことなのかを知ることができたように思います。家族をはじめとして、多くの仲間たちに支えられ、今まで暮らしていたことに、あらためて気付いたのです。「当たり前」ではなく、実は「有難がたい」ものに支えられている私でありました。
「有り難い」ということは、ずっと有り続けることが難しい、ということでもあります。私が普段から大切にしているものは、いつまでもアテにはならない、ということです。家族も、健康も、お金も、地位も、場合によっては家や食べ物さえも奪い取られていく私である、ということです。
アテにならないものをよりどころとして生きているのが、私の姿なのです。自分の中にあると思っていた慈悲の心も、全くアテになりませんでした。
 「他人やすべてのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、自力のちからでたすけようとする気持ち」さえも末通ることなく、平気で食べ物がのどを通るのが、私の姿なのです。

親鸞聖人は、そのような私が自分の力で行おうとする慈悲は、どうしても末通らないものなのですよ、と示されました。
同時に、本当に末通ったはたらきは、阿弥陀様のお慈悲の心であると示されます。
「必ず救うぞ。我われにまかせよ。」
という阿弥陀様の願いが、私のよりどころとなるのです。
災害に遭わないのが当たり前、事故に遭わないのが当たり前、平穏無事に暮らしているのが当たり前だと思い込んでいた私から、その当たり前が奪い取られたときにこそ、
「どんなことがあっても、汝を必ず救いとるぞ。」
という、どんな条件も付けることのない阿弥陀様の救いが、私のためであったと確かに頷けるのです。
残念ながら私の中には、末通ったお慈悲はありませんが、その私を必ず救い、仏と成らせていくという大きなお慈悲の中にあるのだと知らされます。それは、どんなことがあっても私を捨てることがないという、摂取不捨のお誓いです。
そのお慈悲のはたらきの中にあればこそ、私の中にある慈悲の思いが末通らないものであることを自覚することができるのです。阿弥陀様のお慈悲の心こそがホンモノの善であるならば、私の中にある慈悲は全くのニセモノですから、「偽善」でありましょう。
だから、私が行うことは全て偽善であると自覚しながら、今回の震災にも関わっていきます。ボランティアも、義援金も、災害支援の活動や思いは、私の中にある偽善でしかないけれども、できることを積み重ねていきたいと思っています。
阿弥陀様のお慈悲のぬくもりに、少しでもかなう生き方をめざしていきたい。お念仏を申しつつ、偽善を積み重ねながら、「困ったときはお互い様」の支援を共にしていけたらと思います。

神通寺報2016年4月号より(朝戸臣統)

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