人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、
いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの
生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、
至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。
この真ん中の三行、「自ら~」の部分は全員で読み、冒頭と最後の方は講師の方が読まれます。
最初、私はこの「人身受け難し」というところを『なかなか人間には生まれないんだから、人間に生まれて良かったね。牛や豚、犬や猫に生まれたら仏法を聴けないからね』
というふうに解釈していました。
しかし、それは大きな間違いではないかと、ふと思いました。
【人知は病んでいる】というお話を聴いたことがあります。
「人知」というのは人間の知識、智恵です。つまり「人間の考えが及ぶところ」です。
この人間の知識や知恵というのは「病んでいる」、つまり健全ではないということなのです。
「病む」という字には「ヤマイダレ」という部首があります。「丙」の上のやつですね。
「知」という字にこの「ヤマイダレ」をかぶせたらどうなるでしょう。
『痴』という字になります。そうです。[愚痴]の「痴」です。
[愚痴]とは「モノの道理が分かっていない、正しいことが分かっていない」という意味で、仏教でいう所の三毒(さんどく)の一つです。
三毒とは「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つを表し、人間のもっとも解決すべき煩悩として仏教では説かれています。
私達は何かを「したい」と欲し(貪欲)、思い通りにならないと怒り(瞋恚)、うまくいかないものだから結局また同じことばかり繰り返す(愚痴)。
このスパイラルというか連鎖を堂々巡りしながら人生を送っています。このことを「空過」(くうか)といいます。
どうやったら「空しく過ぎ」ない人生になるか?が仏教、そして浄土真宗においても根本命題ですね。
話を戻しますが、私は「人身~」を上記のように解釈していました。
でもそれって、「牛や豚、犬や猫には仏法が届かない。人間こそ仏法が聴けるのだ」と思い上がっていただけなのです。
仏様の慈悲と智慧はそんなケチなもんだろうか、いや、そんなはずがない。生きとし生けるあらゆるものに届いてこそ仏法じゃないのか?
最近はそんな風に思っています。
聴聞してたって「俺は聴いてるぞ」みたいな顔ではそもそも聴けていないのかも。
逆に居眠りばかりしてたって、仏法聴聞の場に脚を運び、その身を投じていくほうがホントの意味での聴聞なのかもしれません、
極端ですが、ネコや蠅がお御堂をウロウロしているのも聴聞と言えるのかもしれません。
高僧和讃に
曠劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし
とあります。
親鸞聖人は法然上人に出遇っていなければ「空しく過ぎ」る人生だったと言われています。
もかしたら人でなくても、動物でも虫でも石ころでも「お師匠さん」になりうるのかもしれません。
「そういう自覚を持ちにくい人間なんだぞ」 「知識や知恵がある人間てのはやっかいな生き物だぞ」
と三帰依文は私達に教えて下さっているような気がします。
南無阿弥陀仏。
畜生に生まれなくてよかったというのはユニークと思いました。何をかの縁あって、この世におぎゃーと独生独死のわたしが生まれてくること自体が、有り難しというのだと思っていました。法華経を紐解けば山川草木悉有仏性といわれますから、すべてのものに仏法は及ぶはず。仏の目からはすべてのものは平等でも、私たちにはそれが理解できないのでしょうね。だから「人知は病んでいる」としか言いようがないのですね。南無阿弥陀仏、合掌。