僧侶の本分(かなり私的) 【朝戸 臣統】

まず最初に。
これは、特定の誰かを云々、ということではなく、私自身の問題としてコラムに投稿します。

つい最近、SNSで、こういうやりとりがありました。
「今年はなぜか葬儀が多い。たまたまなんだろうけど・・・。」
「それは羨ましい話ですね。」
「え? 羨ましいですか?」

私は、小学生時代の、同級生とのたわいないやりとりを思い出しました。たわいないやりとりですが、私にとっては大きな意味を持つやりとりです。
「おまえんち、お寺やろ。」
「そうや。お寺や。」
「じゃあ、誰か死んだら、儲かるんやな。誰か死んだら、うれしいんやろ?」
「・・・・・。」

その後、私は紆余曲折を経て(?)、お寺の住職をしているのですが、小学生時代に浴びせられたあのやりとりは、ずっと心の中に引っかかっていたのかも知れません。
最近のSNSのやりとりを目の当たりにして、私の過去が鮮明によみがえりました。

実は、私が抱えていた過去のジレンマを、明確に言い当てながら、僧侶としての立ち位置を示唆してくださった先輩がおられました。
「葬儀は、なくなった方を『貴方のことは絶対に忘れませんよ』と追悼する場です。その上で、み教えを通して、私の生き様を問い聞いていく。僧侶がそのお手伝いをしていくんです。」

私はその先輩の言葉を受け継ぎ、「本当の葬儀を執行できる僧侶でありたい」という思いを強くしました。ただ、残念ながら、その先輩は、突然の病により、あっという間にお浄土へ駆け足で往ってしまわれましたが・・・。

大切な方が亡くなるということは、「悲しみ」に違いありません。私事で恐縮ですが、私自身も、ここ数ヶ月で、叔父と義父を相次いで亡くしました。
ただ、それは悲しみであると同時に、「厳しい催促」なのだろうと受け止めています。厳しいけれども、み教えに出遇ってくれよという、尊い催促なのです。

だから、ご縁をいただいた葬儀には、全身全力で「追悼」のお参りをしたいと思います。同時に、み教えのあたたかさ、尊さを共有できる場にしていきたいと思います。
誰かが亡くなったら儲かるから(経済的に潤うから)、僧侶の道を選んだのではありません。
誰かが亡くなったときに、全力で追悼し、み教えを共有するために、この道を選んだのだと、先にお浄土に往かれた先輩に、報告できる人生を歩みたいと思います。