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苦しむからこそ【藤枝宏壽】

 私こと藤枝宏壽は、リレーコラムには新入りですが、もう米寿に近い老耄の愚僧です。11歳で父を比島で失い(戦死)、以後、母と弟妹3人らと共に福井県越前市の片田舎にある小坊・真宗出雲路派了慶寺を守ってきて、今住職64年となります。小寺維持のため英語教師と住職という二足草鞋を履いてきましたが、叔父から「二足草鞋は両方をしっかり履け」と諭され、出来るかぎりその理想に向かってきたつもりですが、その成果たるや?・・・汗顔の至り! ただ、51歳で胃がん手術を受け命拾いさせてもらった時、我が余生は仏縁弘める「ご縁さん」(御院主の訛り)に徹しようと決意し、いろんなメディアにチャレンジしてきました。自坊での定例聞光会法話、他寺依頼の法話・講演出張、弊派での聖典講座(過去9年間)、日曜学校(今春51周年で閉校)、同人教化誌『群萌』(季刊:55年継続)や福井新聞「心のしおり」(毎月)への寄稿23年、ホームページ(http://ryokeiji.net/)(英語コーナーもあり)の毎月更新、法話テープ友の会(貸出用)、除夜の鐘百八法句編集(34回)などがその例です。(10年ほど前までは法縁バス旅行に人気があり20年ほど続けました)。

 さて6年前に設立したのが、「安らぎ法話ダーナの会」です。会の活動として出版した法話集『老いて聞く安らぎへの法話』(2015年、自照社出版;好評頒布2刷り:絶版)の冒頭に、私は次のようにその願いを書いております。

《「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつのまにかは年老(ねんろう)のつもるらんともおぼえずしらざりき」と書き出しておられる蓮如上人の御文章(四帖目四通)がありますが、「いつのまにか、知らぬまに老年になってしまった」というところ、私にもぴったりです。しかし、それは上人が七十歳になられたときのお言葉、それより十歳余りも老いてしまったわが身をかえりみてただ恥ずかしいばかりです。宗教の社会性が問われてきているのに、何一つ世の中にご恩返しもできずに今日まできてしまいました。そこで、まことに遅まきですが、老齢になられた方、老人施設や病院におられる方、在宅で病床におられる方など、多くの老境進んでおられる方々とともに、自らの人生最後のしめくくりとして、仏法を真剣に聞いていき、やさしい法話をダーナ(布施)したいと思うようになりました。老いると、もうむずかしい教理のことなどは聞きわけできなくなります。やさしい言葉で、仏法のかなめを聞きたいと思うようになりました。それも、あまり長いと疲れます。そういう趣旨で、平易に、なるべく具体的に、ほどほどの長さで、『老いて聞く安らぎ法話』を12篇書いてみました。私自身が聞かせてもらいながら、お話している口調で書きました》……。

 そのひとつ、「苦しむからこそ」をここでご紹介したいと思います。

「苦しむからこそ」
 皆さん、ようこそ法話をお聞きくださいますね。ご苦労さまです。私も高齢者ですから、皆さんといっしょに仏さまのみ教えを聞かせていただきます。
 皆さんは、今、苦しいこと、悩んでいること、不安なこと、気がかりなこと、 
 困っていることがありませんか? なければそれに越したことはありませんが、人間、心の底には、言いようのない苦悩があるようです。
 相田みつをさんという仏教詩人にこういう詩があります。
   だれにだってあるんだよ
   ひとにはいえないくるしみが
   だれにだってあるんだよ
   ひとにはいえないかなしみが
   ただだまっているだけなんだよ
   いえば
   ぐちになるから
 特に、歳がいくとこういう悲しみ、苦しみが多くなるようですね。身体にいろいろ故障が出てくる。耳はきこえず、目はうとくなる、足腰が痛む。そして持病が進んでくる。それに物忘れが多くなる、若い者から相手にされなくなる・・・など。愚痴をいえば切りがありませんね。
 これが「老い」の苦しみです。加えて「死」の苦しみ、不安が待っています。やがて死なねばならないが、死ぬときは辛いのだろうか、死んだらどうなるのだろうか、死んだ後残していくものはどうなるのだろうか・・・などと、いろいろ心配し出すと切りがありません。
 お釈迦様は、まだ若いころ、お城の門から出てみられたら、こういう老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみの姿を見られて、これが人間のいつわらぬ姿かと、大きなショックを受けられます。そして、こういう苦を離れようと修行していく人をみて、自分もこの人生の無常を乗り越える道を求めようと、二十九歳でお城を捨てて山に入り、六年修行された後、に尼れん連ぜん禅という河で苦行の垢を落とし、菩提樹の下で瞑想に入られ、遂に三十五歳十二月八日の暁、明けの明星の輝くのを見てお覚りになられたのでした。(後略)》  

 おかげさまで本は二刷りとなりましたが現在は絶版です。ですが「安らぎ法話ダーナの会」では、実演を希望する老人施設等へ定期/不定期に出張して、入所者等に法話(希望により映像投写も)のダーナ(法施=奉仕)を実施(昨年からはコロナ警戒で休止中。)し、また、了慶寺で朗読・録音構成、専門編集した「老いて聞く安らぎへの法話CD」も頒布しております。
 「老いて聞く安らぎへの法話CD」
 ●内容:10分前後の「分かりやすく、臨場感ある法話12篇」
…法話タイトルの例としては、「苦しむからこそ」「死ぬのがこわい?」「死にたくない」「光といのち」「飛ぶ鳥還る」「ともに会う世界」「人間と生まれたら」「さいごの仕事」などがあり、  
12話全体で「死の不安解消」―「すくいの確かさ」―「人生の充実」という流れになっています。
 このCDはこれまで、希望する老人施設等、および個人に実費(市価の半額1000円)で頒布しました。おかげさまで大変好評で、「分かりやすい語り口に引き込まれ、夢中で聞きいりました」「胸うたれて、思わず涙がでました」「何度もなんども聞いて、暗記できるくらいになりました」「毎晩寝る前に一話ずつ聞いて、安らいで眠ります」 「念仏すれば自分で浄土にいくのだと思っていたのは間違い、仏さまに救われていくのだと知らされ、勉強しました」などの声をいただいております。

 こういう聞法の喜びをまだご存知ないお方にも伝えたい、聞いていただきたいとの思いから、現在、「老いて聞く安らぎへの法話CD」を『報恩超特価』(=500円+送料実費180円)とし、「仏法弘まれー老安CDキャンペーン」を始めています。
●その一環として「老いて聞く安らぎへの法話CD 第7話」をYouTubeにアップしています。(「YouTube了慶寺」で検索、ご試聴ください。)

 コロナ禍で「心塞意閉・しんそくいへい」(心ふさがりおもい意とじ)《大経下巻》となりやすいこの頃ですが、『老いて聞く安らぎへの法話CD』を聞いて「心得開明・しんとくかいみょう」(心 開明することを得たり)《大経下巻》になれたら幸いです。人間、誰しも落ち込むこと、行き詰まること、不安になることがあります。歳がいくと、なおその傾向になりやすいです。そういうとき、上記のCDを一度お聞きになってみてください。
 自分で聞く、友人に贈る、法話会など仲間で聞く、法事の供養品にするなど、いろいろな方途に利用されています。
 ご注文は下記にご連絡ください。代金(1セット500円+送料180円)は現品到着後、同封の郵便振替でご送金願います。
宛先 915-0083 福井県押田2丁目8-31 了慶寺 藤枝宏壽     
℡&Fax 0778-22-1254
Email kojufjda@mitene.or.jp
URL http://ryokeiji.net/

◎ご連絡をお待ちしています。
 令和3年(2021)5月下旬
 安らぎ法話ダーナの会
            藤枝宏壽

お寺のインターネット動画配信について(その2)【根来暁】

今回は西福寺でのインターネットで動画をリアルタイムに配信するときに使っている機材、ソフトについてです。

映像については、USBウェブカメラ3台とビデオカメラ1台で撮影をしています。ウェブカメラは撮影した動画を直接パソコンに取り込めますが、ビデオカメラはキャプチャーボードという、HDMIをUSBに変換する装置が必要です。パソコンには、HDMIの取り込み端子がついている物もありますが、外付けのキャプチャーボードのほうが配信にはむいているようです。これは、USBで取り込まないと配信用ソフトが認識しない可能性があるからです。

映像は、ご法話に関してはとくに、視聴者と目線があいやすくなるように、なるべく講師を正面から写したほうがようでしょう。そうなりますと、一般的に本堂は横に広い造りになっていますので、配信用パソコンの位置によってはかなり長いコードが必要になる場合があります。畳の上を這わしても良いのですが、参詣者が躓く場合があるので、なるべく壁や鴨居を這わしたいものです。USBコードの距離が長くなるとそれに比例して、映像の取り込みが不安定になることがあります。そのようなときは、途中にACアダプター付きUSBバブを挟むと安定します。映像の取り込みが安定しないときは、試してみてください。

以前から音声は、有線ハンドマイク2本、ワイヤレスハンドマイク1本、ワイヤレスピンマイク1本、仏教讃歌再生用のipodをミキサー・アンプにつないで本堂内のスピーカーから出していました。そこで配信用の音声は、ミキサー・アンプにあるREC端子からパソコンに取り込むことにしました。しかし、ライン入力ではノイズがひどいので、USBで取り込めるウェブキャスティングミキサーを導入しました。

そしてもうひとつ、広範囲に音声をひろえるバウンダリーマイクをウェブキャスティングミキサーに繋ぐことにしました。これは本堂内のお同行の声をひろうものです。本堂に多くの人が集まるといろんな音が聞こえます。隣の人とささやき合う音、おもいがけない言葉に出あったときの感嘆の声、そしてお念仏の声。これらは、講師の声からだけでは受け取ることのできない、法座の空気感を伝えることができます。少しでもお寺という場所に身を置いているというライブ感を伝えるために、「本堂内のざわめき」をあえて配信しています。

音声をパソコンに取り込む際には、パソコン側のサウンド設定を確認しましょう。入力はUSBウェブキャスティングミキサーを指定しますが、デフォルトでは出力もウェブキャスティングミキサーになっている場合があります。これではパソコン内でハウリングをおこしてしまいます。出力は必ず、スピーカーに切り替えます。また入力もパソコンに着いているマイクなどが有効になっていると、ハウリングの原因になります。デバイスマネージャなどでウェブキャスティングミキサー以外は無効にしておくのがよいでしょう。

ここまで繋げると配信用エンコーダーソフトを立ち上げます。西福寺ではWirecastというソフトを使っています。ソフトの設定でパソコンにつながってい映像や音声を取り込みます。取り込みができたら、いよいよ配信です。

(次回は実際の配信方法を説明します)

お寺のインターネット動画配信について(その1)【根来暁】

私がお預かりさせていただいています西福寺では、入院中や病気療養中でお寺参りが困難な方にもご法話をお届けしたいと思い、2012年から法座のインターネット配信をおこなっています。法座が始まる前から、お同行が集まってこられ、一緒にお勤めをして、ご法話をお聴聞し、帰っていかれるまでを、毎席、YouTubeLiveでリアルタイム配信をしています。

そんななか、このたびの新型コロナウイルス感染拡大で、健康な方であっても、なかなか一同に集うことのできない事態となってしまい、全国で多くの法座、法話会、講演会が、中止もしくは延期されるようになりました。
そこでこれを機に、お寺の行事などを動画にしてインターネットで配信したいと考えられている方も多いようです。でも実際に始めるとなると、どうやったらいいのか、どんな物が必要なのか、躊躇されている方もいらっしゃると思います。

そこで、これまでの経験をふまえて、お寺でのインターネット動画配信を考えてみたいと思います。今回は「どうやって配信したらいいのか」、そして「何を配信したらいいのか」についてです。

Ⅰ.どうやって配信したらいいの?
ⅰ.SNSで配信
いまからでもすぐに始められるのが、SNSでの動画配信です。いまでは有名アーティストも、InstagramLiveやLINELive、FacebookLiveなどを使ってさまざまな動画を配信をしています。普段、SNSを使っているスマートフォンやタブレットで配信できるので、新たに機材を揃える必要がありません。とくに近年スマートフォンのカメラは高性能になっていますので、動画もとても綺麗に配信することができます。
また、フォロワーのタイムラインにアップされ見てもらいやすく、「いいね!」などの反応も返ってきますので、続けていく励みにもなるかもしれません。
配信時間には制限があります(インスタとLINEは60分、Facebookは4時間、だと思います)が、手軽に配信できるには十分な時間だと思います。

一方で、配信した動画の保存期間が限られていたり、タイムラインの中に投稿が埋もれていったりして、リアルタイムで見ることができなかった人が見つけにくいという点は注意が必要です。事前に配信時間などを投稿し告知をしたほうがいいでしょう。
あと、スマホなどのマイクでは、雑音が多いというときは、Bluetooth対応のマイクを使ってみてはどうでしょう。片耳につける通話用のヘッドセットなどは、目立たないので法衣をつけての配信の際にはおすすめです。
とにかく、無料で手軽に始められるのがSNSでの動画配信のいいところです。

ⅱ.インターネット会議システムを使っての動画配信
テレワークの推奨などで注目されているのは、インターネットを使っての会議システムです。Zoomなどが有名ですが、SkypeやLINEのビデオ通話、Googleハングアウトなどがあります。こうしたインターネット会議システムを使って動画配信をすることができます。配信する側と視聴する側が同じソフトやアプリを使わないといけませんが、グループ内だけでやり取りができますので、動画を一般に公開するのは少し抵抗がある方にはおすすめです。

配信側は登録や設定が必要になります。スマホやタブレットでもできますが、パソコンでするほうが簡単です。ノートパソコンでしたら内蔵カメラで始められますが、デスクトップパソコンの場合はUSB接続のウェブカメラが必要です。現在、あらゆる種類のウェブカメラが在庫不足の状態ですので、早めに注文しておきましょう。視聴する側もソフトやアプリのインストールが必要な場合がありますので、事前に双方で、ビデオが映るのか、マイクが使えるのかなどの準備を整えておくのがよいでしょう。

SNSに比べるとすこし手間がかかりますが、限られたメンバーでやり取りができるので安心して始められるのがいいところです。法話会や座談会の配信にはむいているかもしれません。
ちなみにZoomには配信している内容をそのままYouTubeLiveにアップするという機能もあります。

ⅲ.動画投稿サイトへの動画配信
YouTubeやニコニコ動画などの動画投稿サイトには、リアルタイムやアップロードをして動画を配信する機能があります。配信された動画は、広く一般にも公開されるので、だれでも視聴することができます(設定によっては、限定した人にだけ視聴できるようにしたり、コメントがつけらないようにして配信することも可能です)。また、配信後の動画を自分のチャンネルで管理できるので、動画一覧から過去の動画を探すのも簡単です。

※以降の記事はYouTubeしか使ったことがないので、YouTubeLiveについての感想です

ただし、リアルタイム配信は少し手間がかかります。YouTubeLiveでは、スマートフォンやタブレットのカメラを使ってリアルタイム配信ができますが、チャンネル登録者数が1000人以上必要という制限があります。開設したばかりではなかなか難しいかもしれません。
そこで、開設直後はエンコーダーとよばれる配信ソフトを使って、エンコーダー配信するという方法が一般的です。この場合はチャンネル登録者数は関係ありません。このエンコーダー配信は少しコツがいりますが、慣れるとソフトの機能を使って簡単に、多彩な内容で配信をすることができます。西福寺ではこの方法で法座を配信しています。
一般に公開されることには抵抗がある方もいらしゃるでしょうが、やはり多数の人が視聴してくださるという可能性があるのはメリットだと思います。

Ⅱ何を配信したらいいの?
ここまで読んでいただいて、「やり方ももちろんだけど、何を配信したらいいのか?」「せっかく配信するのだから、みんなに視聴してほしい」「仏教に興味を持ってもらうにはどんな内容を配信しなといけないのですか」などと感想を持たれた方もいらっしゃるでしょう。
私は、「自分が伝えたと思うことなら、何を配信しったって構わない」と思います。(もちろんそれを配信したことによって、他人が傷つくことがあるのではないか、という想像力は必要です。しかしそれは、動画配信だけに限らず、すべての人間関係において必要なことです)
そもそも私たちは、他人が興味を持っていることをすべて把握することはできません。ましてや、すべての人に同じように興味をもってもらうのは不可能なことです。また配信をした瞬間に、興味を持ってくれる人が視聴してくれるなどということはほとんどありません。多くはその他の多数の情報に埋もれていってしまうことでしょう。
しかし、配信しておきさえすれば、そのときは見ることができなかった人も、なにかのきっかけで配信した動画にたどり着くことがあるかもしれません。そうして浄土真宗に興味をもってくれるようになるかもしれません。そんな人がたった一人でもいらっしゃるのだとしたら、「自分を伝えたいことを配信をする意味」はあるのではないでしょうか。
確かにインターネットでの動画配信は新しい手段ですが、何も新しいことを伝える必要はないのです。
「いままでやっていたことや伝えたいと思っていたことが、伝え方を変えるだけで、いままで届くことがなかった人に届くかもしれない」
これが、インターネットによる動画配信の可能性だと思います。

みなさまも、「お念仏って有り難いんだよ」という思いを、自分なりの動画にしてインターネットで配信してみてはいかがでしょう。世界のどこかにその動画を待っている人がいるかもしれませんよ。

(次回は実践編として、西福寺でどのように配信しているのかをご紹介させていただきます)

ご法座ネット動画配信のススメ。(試行錯誤しながら)【朝戸 臣統】

昨今の新型コロナウィルス対策の中で、ご法座をどう開催したら良いのか、お悩みの方も多いことと思います。

ほんの1ヶ月前にはそこまで深刻ではなかったのに、今になっては近所のご門徒さんに集まっていただくことさえもはばかられる、そんな状況に陥ってしまいました。

では、お寺のご法座は、不要不急で、キャンセル、休止すればそれで良いのだろうか。

私は、そうは思いません。

恐怖と不安が渦巻くこのときに、お念仏のみ教えが何よりも大切なのではないだろうか。そう思っています。

で、一つの方法論として参考にしていただきたいのは、ネット動画配信です。

もちろん、リアルでお参りに来ていただき、対面でお聴聞いただくことが何よりも大切だとはわかっていながらも、

それがままならない現実の中では、ネット配信の動画でお聴聞いただくことも、一つの選択肢だと思うのです。

ここからは、私が考える、ネット動画配信の手順について、ご説明致します。

一口に動画配信といっても、いろんな方法、アプリがあります。

思いつくだけでも、LINE、SKYPE、Facebook、インスタグラム、ZOOM、Google、CiscoWebEX、youtube・・・。

会議なのか、個人連絡なのか、知り合い限定なのか、誰でもOKなのか。

それぞれの指向によって、選ぶべきツールは変わってくると思います。

今回は、一つの設定として、

・誰でもお参り、お聴聞OKな環境

・多くの方が利用しているアプリである

ということを前提にした場合、一番ベターなのは、youtubeの動画配信ではないか、と考えました。

配信する側として、どんな準備をして、どんな形で配信したら良いのだろうか。

私の立場を一例として、ご紹介します。

参考になれば幸いです。

1,環境について

ライブ配信する際に必要なのは、

・ノートパソコン

・カメラ・マイク(ノートパソコンに付いていれば、無くてもOK)

・wifi環境(有線でも、無線でも可)

・youtubeアカウント

ですね。

youtubeアカウントは、基本的にGoogleアカウントと連携しています。

なので、Googleアカウントを持っておられる方であれば、youtubeアカウントも自動で作られている可能性が高いです。

マイアカウントでyoutubeにログインすると、右上にカメラのアイコンが出てきます。

そこから「ライブ配信を開始」をクリックすると、「24時間お待ちください」というメッセージが流れます。

つまり、youtubeアカウントで、動画配信を行うためには、申請から24時間経たないとできないので、

前日までに申請を行い、動画配信ができるようにしておく必要があります。

配信可能になれば、PC付属のカメラとマイクで、ライブ配信が可能になります。

 

 

 

 

 

ただ、PC付属のカメラとマイクは、それなりの性能ではありますが、

高画質の動画視聴に対応するには、外付けのカメラとマイクを用意できればベターです。

外付けのカメラとマイクを利用するには、「Webカメラ」での配信ではなく、

「エンコーダ配信」へと変更する必要がありますが、

これは、もう少しアドバンス的な内容になるので、今回は割愛します。

ただ、外付けのマイクは、それなりにメリットが明確ではないかと考えます。

ご法話のときに、ある程度動き回ることを想定すると、ピンマイクが良いと思います。

wifiや、bluetoothのピンマイクは、音声を確保するのにとても大切だと感じました。

以上、現時点で思いつくままに書いてみました。

新型コロナウィルス対策の一環として、ご法座、ご法話のネット配信を考えておられる方に、参考になれば幸いです。

追記

ご門徒さんや有縁の方々に、ご法座のネット配信をお知らせする場合、youtubeチャンネルのQRコードを作成して配布する、という方法があります。

スマホに不慣れなご門徒さんにとっては、指定の時間になって、スマホのカメラでスキャンすれば自動的にyoutubeチャンネルが表示されるのは、とてもシンプルで、わかりやすい操作だからです。

こんな感じで、ご案内してみてはいかがでしょうか。

合掌

法話研鑽に「話し込み法話」を【瓜生崇】

この投稿では「話し込み法話」のやり方を紹介します。これは滋賀県の南学会という僧侶の集まりが毎年行っている「法話研鑽合宿」で2015年に始まり、真宗十派問わず各地で少しずつ普及してきている法話研鑽の方法です。この度、やり方をWebに公開してほしいというご要望を多数頂きましたので、ここに公開します。

法話はしようと思ってもなかなかできるものではありません。一般的にはなるべく多く法話に立つことで、お育てを頂いて次第にできるようになっていくと言われていますが、全く出来ないところからいきなり話すのは大変なことで、言わばスタートラインに立つことが最も難しいと言えるかも知れません。
話し込み法話は、まだ生まれて一度も法話をしたことがない人から、何百回と繰り返してきた人に至るまでが、混じって平等に研鑽することが出来ます。また、通夜や法事でされるような短い法話から、寺院の法要や聞法会でされる一時間以上の法話など、このやり方はほぼすべての形式に有効な研鑽方法です。一時間くらいのスキマ時間があれば、どこでもできるのも特徴です。
各地で法話研鑽の講習会や研修会などが盛んに開かれていますが、そうした研修会の中で講義の合間に、研修のスケジュールを圧迫することなく確実な実習方法として取り入れることが出来ます。

話し込み法話の概要

話し込み法話は二人が基本のユニットとなります。二人が「話者」と「聞き手」に別れ、20分位の法話を一対一で行います。それが終わりましたら聞き手が話者の法話を講評し、その後、「話者」と「聞き手」が入れ替わって同様のことを行います。その後、それぞれが相手からの助言をもとにして自分の法話原稿に手を入れます。参加人数が二人以上いる場合はペアを複数作って、お互いの法話と講評が終わったら別の人とペアを組んで同じことをします。

話し込み法話のメリット

話し込み法話にはいくつかのメリットがあります。まずは、短い時間の間に何度も法話することができるということです。そして一対一の法話なので、話す方も聞く方も逃げ場がない真剣勝負です。講評においても多人数の前では気を使って言えないことも、一対一なら言うことが出来ます。
熟練者と初心者がペアになった場合でも、通常熟練者に初心者が意見することはなかなか出来ませんが、一対一なら率直な感想を伝えることが出来ます。これは普段人から教えられることが少ない熟練者にとっては聞く人の率直な意見を聴ける貴重な機会ですし、初心者にとっては熟練者に一対一で指導をしてもらえるので同様に貴重な機会になります。
何度もペアを変えてローテーションで話をすることで話者としてはいろいろな人の率直な講評を聞くことが出来ますし、聞き手として様々な人の法話を聞くことも同じように大きな刺激になるでしょう。
なお、「話し込み法話」は20分くらいの法話を基本としています。これはやってみるとわかりますが、一人の人間の話を真剣に聞くのは20分位が無理のない時間です。この20分の話をベースにして、様々な話題を付け加えていけば90分の法話に出来ますし、縮めれば10分や15分くらいの家庭の法事での法話にもなります。本当に伝えたい内容を凝縮すれば20分程度の内容が基本になるいうことが、この「話し込み法話」を何度もやることで分かってきます。

具体的なやり方

  • 事前の準備として、研修が始まる前に、20分程度の法話原稿を作っておきます。
  • 二人一組のペアを作り散開します。
  • 話者にあたったほうが聞き手にあたった方に話をします。その場合、図のように横並びで話をするのがやりやすいです。正面から向き合うと、話者も聞き手もしんどくなります。

  • 机の上にある「話し込み用紙」といのは、A4くらいの大きさの紙です。これを板書の代わりとします。話すときは、普通に板書するつもりより多めに、話の内容をなぞるようにして、この紙に要点を書きながら話すのがコツです。この板書は後で講評のときの大きな道標になります。
  • 20分の法話が終わったら話の内容を講評します。目上、目下という立場があってもここでは関係ありません。思っていることをできる限り率直に伝えるようにしてください。つまりは「この場限りは空気を読まないで言いたいことを言う」のが大事です。その際に話し込みシートに「板書」したものをなぞっていけば、順序立てて話の内容を確認することが出来ます。
  • 講評が終わったら「話者」と「聞き手」を交代して、同じことをします。
  • お互いに法話と講評が終わったら、自分の原稿に手を入れたり、話の内容をどう改善するかを考える時間を作りましょう。これで終了です、この一連の過程で一時間~一時間半くらいです。研修や合宿などでは、この後ペアを変えて同様のことを繰り返します。

講評の仕方

  • 法話の態度はどうでしたか?(上から目線ではなかったか、言葉遣いは適切か、原稿ばかり見ていないか)
  • 発声はどうでしたか?(早口でないか、語尾ははっきりしているか、聞き取りにくくなかったか)
  • 板書はどうでしたか?(あとから見てわかるように要点を書けているか、伝わるような板書になっているか)
  • 法話の内容はどうでしたか?(伝えたいことは明確か、親鸞聖人の言葉は入っているか、教えを伝えているか、「私」が抜けてただの説明になっていないか)

講評用のPDFを用意しました。印刷してお使いください。裏面は話し込み用の板書として使ってください。
話しこみ法話研鑽シート

「話し込み法話」についてのお問い合わせ

不明な点がありましたら、玄照寺 瓜生までお願いします。(真宗大谷派京都教区・滋賀県東近江市)

「お坊さん便」と信用 【小林 智光】

14012250_1079810748741131_255445557_n.png昨年12月にAmazonでサービスの始まった『お坊さん便』。

もう、この話題については色々な方が言及しておられるので、私なぞが出る幕でもないのですが、少し雑記的に書いてみます。

※参照までに→「お坊さん便とは?」

以前から僧侶派遣をされている「みんれび」という会社が始めたサービスです。
これに関して、全日仏が抗議を出したり、お寺さん側から色々な意見が出たり。

そんな中で、僧侶派遣の仕事をされたことのある瓜生さんという方がこんな記事を書いておられます。

浄土真宗の法話案内・リレーコラム「新たな搾取の構造」

確かに価格の不明瞭なお布施というものに対して定額をハッキリと明示したのは頼む側である喪主・施主にとっては望ましいことでしょう。何をどうすれば良いかがすぐわかるのですから。いわゆる「ユーザビリティーの向上」というやつですかね。

少し話は逸れますが、私は以前呉服業界にいました。着物の問屋で営業マンをしていました。
問屋というのは「中間業者」です。モノの流通を川になぞらえて「川中」ともいいます。
それに対して町の呉服屋さんを「川下」といいます。皆様の地元にも「○○呉服店」という着物屋さんは一つはおありかと思います。
そして製造元やメーカーを「川上」といいます。
分かりやすく言えば着物という「モノ」が流通という川をメーカー→問屋→地方の呉服店と流れて皆様のもとに辿り着きます。
当然、中間業者があればマージンは積まれていくので、価格は高くなっていきます。
オフレコですが(書いている以上オフレコでもないのですが…)、私の勤めていた当時は呉服屋さんの価格は製造原価の10倍ともいわれていました。分かりやすく言えば10000円のものが100,000円で販売されているのです。
そんな状況からか、中間をすっ飛ばして消費者に直接販売する問屋やメーカーもありました。
しかし世の中そんなに甘くはありません。販売するには様々な広報費や人件費がかかります。販売した後のアフターフォローもしなければなりません。安く売って利益は上げたものの、アフターフォローが後手後手になり、倒産していった会社もありました。
最終的に消費者が信用したのは「町の着物屋さんの女将」でした。そして着物屋の女将は問屋の担当「○○君」を信用して注文をしてくれます。問屋の○○君は 時々呑み相手にもなるメーカーのオッちゃんにいつも無理を聞いてもらって助けてもらってます。メーカーのおっちゃんは職人に納期を急かしてばかりですが、 職人とは祖父の代からの付き合いです。
こうして流通というものは出来上がっていきました。
つまり高い価格は「儲け」ではなく「信用」という付加価値がついているのです。それが流通の論理です。
必ずしも全ての業者がそうでもありません。中には儲けたい一心で値段を跳ね上げる業者も当然います。
しかし、新参者や勇み足の経営陣がその流通の論理をすっ飛ばして走ると痛い目を見ました。そういう業者をいくつも見てきました。

話を戻せば、今回の僧侶派遣はどうでしょう。もし地域に根差して何代も僧侶派遣を営み、休日深夜でも喜んで対応してきた業者さんならいうまでもありません。まさに社会から求めに応じていると言えるでしょう。
問屋では新規の取引先に関しては必ず信用調査会社から審査してもらいます。そしてその審査ををもとに「与信管理」を設け、取引金額の安全危険のボーダーラ インを慎重に引きます。ちなみにこの信用調査会社の社長さんとは平素もチョコチョコお会いして相談したり会社を見てもらったりしています。年間契約料もお 支払いしているので、コストもかかっています。
一方で僧侶派遣の登録はどうでしょう。大抵はネットで必要項目を入力して送信ボタンをポチっで終わりではないでしょうか。管理コストはどれほどかかっているのでしょう。

私は僧侶です。ですからこういうことを書くと「坊主が保身で書いている」と思われるかもしれません。
確かに保身の面もあります。しかし、大小様々ありますが、何代も続いて「村のお寺」を護持しているところは相当の人的・物的コストがかかっています(コストというと語弊はありますが)。

行事の度にお斎のご飯を盛ってくれるおバアちゃん。合間を見て草取りや木の伐採をしてくれる近所のジイちゃん。農地解放の時に「国に取られるなら、いっその事お寺に」といって土地や資産を寄進してくださった奇特な方。
そういう目に見えない人的・物的コストは「懇志」(こんし)と呼ばれ、大事にされてきました。

そしてこのサービスを使われる方が支払ったお金は、瓜生さんも上記のコラムで書かれているように、

>コツコツと本堂を修繕したり、法話会を開いて仏教を伝えたり、子ども会を開いて仏様の心を伝えたりといった、全国のお寺が地道に進めている活動には一円も使われることはありません。

です。
このサービスが広まって窮地に立たされるのは「檀家制度に胡坐をかいた生臭坊主」よりも、むしろ「村人に好かれる住職さん」ではないかと私は思うのです。

僧侶派遣の必要性は私も感じています。なので頭から否定というわけではありません。
ではどうすれば良いか。

宗派が同様の事業を始めるのも一つの手かもしれません。
しかしそれにはそれ相応の時間と手間がかかります。
教区レベルでは教区会、企画委員会、教化委員会、組会。本山レベルでは宗議会や参議会、様々な委員会(すいません、本山関係は詳しくないので…)。
もしくは有志でやるか。
しかし、これには基本となる企業体や法人格が無いので難しいかもしれません。
いずれにせよ、安易にサービスを始めて飛びつくよりも、長い歴史の中で培ってきた信用に敬意を払いつつ、「ゼロベース」で発想していく必要があるのかもしれません。
厳しい時代に、ただただ襟を正していこうと思うばかりです。

【執筆者はこちら】

「お坊さん便」と新たな搾取の構造【瓜生 崇】

僧侶を定額のお布施で派遣する「お坊さん便」が、お盆になってまた取り上げられるようになってきました。

アマゾン「お坊さん便」、反発する仏教会に想定外の批判(朝日新聞デジタル)

私もこの事については自分の経験から当コラムで以前に書きました。(私はAMAZONで「注文」される僧侶)その後、テレビや宗教誌などの取材を随分受けてきましたが、最近になってまた何件か取材が来たので驚いています。

この話題、大体が上記の朝日新聞の記事に見られるような、全日仏の対応に代表される硬直化した仏教界と、一般の人のニーズに応えた新しいサービスとの対立が先にあって、そこに「高額なお布施を請求してきた僧侶」に反発する人たちと、「経済的に成り立たない過疎寺院」の問題が加わるという構図が加わるというのがいわゆるこの手の記事の「既定路線」という事になります。

私自身も、「こうしたネットでの僧侶派遣サービスというのは、寺院間の固定化された経済格差をある程度解消し、お寺の仕事で生計を立てて仏法を弘めたいと思っていてもなかなか叶わなかった人に、突破口を与える機会になるのではないか、という期待もあるのです。」と以前コラムで書いたこともあります。ある意味、僧侶が救われるサービスであるという認識は今も変わりません。

さて、上の朝日新聞の記事のインタビューによると、「みんれび」の秋田将志副社長自身も、このサービスを「経済的に困っている僧侶の方のお手伝いをさせていただいているつもりです。」と語っています。

前述のようにそういう一面もあることを認めつつも、実情として果たして手放しにそう言えるのかどうかという事も、このコラムでは考えてみたいと思います。

お布施の4割は紹介料

「月刊住職」の2016年8月号に「アマゾン僧侶派遣の紹介料4割はお布施の搾取ではないのか」という記事が載っています。この取材には自分も協力しましたが、記者は多くの関係者にあたって丁寧にこのサービスの実態を解明しています。

実にストレートなタイトルの通り、お坊さん便の紹介料は4割。これはつまり、僧侶に渡した(と思っていた)お布施の大体4割を「みんれび」がバックマージンとして徴収している、ということです。

具体的には35000円で法事を依頼したら、うち15000円は「みんれび」に入り、僧侶に入るのは20000円。僧侶はその中から交通費等も出すので実際には半分以下くらいしか「お布施」にはならないということです。そしてこれは戒名(法名)なども同じです。記事では一例として、院居士・大姉号の戒名のお布施20万のうち、5割にあたる10万円が「みんれび」の取り分になると書かれています。

実は「みんれび」にかぎらず多くの先行業者も同様の割合のバックマージンを設定していました。中には5割を超える要求をされたという話も聞いています。

さらに記事では、《弊社規定額以上のお布施を納められたいというお客様のご対応の際は、全体費用の40%の手数料を頂く形となります》との「みんれび」内部資料をあかし、規定されたお布施額の他に、「お気持ち」で僧侶に渡される志についても、40%のバックマージンを収めるように定めていたとあります。つまり決まった額の他に別途お志を包んだり、少し多めにお布施を出しても、それすら4割は業者が持っていくというのです。

また、法要後新たな依頼を受けてもすべて「みんれび」を経由する必要があるともあります。「いいお坊さんを紹介してもらった」と信頼関係を構築し、お葬式の後に四十九日、一周忌と同じ僧侶がお参りしても、すべて都度4~5割のバックマージンを間接的に支払うことになるわけです。

新たな搾取構造

さて、こうした業務にはバックオフィスでのサポート業務が不可欠ですし、広告宣伝費、葬儀社との提携に関わる営業活動等経費もかかるわけですから、バックマージンがなくていいとは思っていません。

ただ、少なくともこのサービスを申し込む人は、例えば人材派遣会社に払った費用の半分くらいしか実際の労働者にわたらないのと同じように、支払った「お布施」の4~5割は業者に抜かれるという事実は知っておいていいでしょう。

在庫も倉庫も持たず、僧侶の教育コストは各教団に丸投げで、保険や交通費の負担もなく、ネットで注文を受けて僧侶に指示をだすだけでこのマージンが適正かどうかは、実際にサービスを使う人が判断したらいいと思います。

そしてそれらは、コツコツと本堂を修繕したり、法話会を開いて仏教を伝えたり、子ども会を開いて仏様の心を伝えたりといった、全国のお寺が地道に進めている活動には一円も使われることはありません。

私は前回の「お坊さん便」を扱ったコラムで、こうしたサービスの勃興には寺院間の格差問題が背景としてあると論じました。

かつては多くの末端の寺院は格上の大寺院の下請けとして、葬儀や法事、月参りの仕事を受けて生計を立てていました。現在はそうした慣習は一部地域を除いてありませんが、代わりに都市部と過疎地の寺院の間に深刻な格差が生じています。そして全日仏はもちろん、各寺院が所属する教団や宗派が、貧窮寺院に経済的な支援をしたという話を私は聞いたことがありません。

有り余るほどの財を成す寺院が存在する一方で、今まで何百年と教団を支えてきた困窮寺院は経済的に破綻するに任せているのが今の仏教界であり、経済的に成り立たなくなった寺院が新宗教に譲渡されるという事件まで起こっているのが現状です。

私はなんとか仏教を伝えるご縁を維持し、お寺の仕事で生計をたてたいと思う住職が、こうしたサービスに活路を見出すのは当然の流れであり、留めることは出来ないと思っています。

その一方で、かつての寺院間の搾取構造が復活し、その頂点に位置していた大寺院がこうした営利企業に取って代わられつつあるのではないかという危惧も感じます。今は多くの業者が入り乱れてサービスを展開していますが、いずれ淘汰されて寡占が始まれば、真っ先に搾取されるのは「こうしたサービスに頼るしかない」僧侶なのでしょう。

「お坊さん便」のHPを見ると、「お布施料金は定額35000円」というタイトルの下に、「一般的にはお布施の他に、お車代・お膳料・心づけなどが必要になり、合計50万円程度が相場です。」とあります。

「みんれび」が35,000円と提示するのは法事のお布施ですが、私は自分に関しても他の僧侶に関しても「法事で50万円」というお布施を聞いたことも頂いたこともありません。この「相場」っていったい何処の星の話なのでしょうか。

ネットでは「今まで散々高額なお布施をせしめておいて、こういうサービスが出来ると反対するなんて」といった感想がよく見られるのですが、あなた方がこういうサービスを申し込んで来る僧侶の多くは、人口の減少し続ける地方で、地域と共に必死になって生活とお寺を守っている人です。そして、その僧侶が普段檀家(門徒)さんから頂いているお布施は、あなたが「お坊さん便」に支払う額よりきっと少ないはずです。さらに、あなたがそうしてやってきた僧侶に渡したお布施で、実際に僧侶に渡るのは半分程度なのです。

言うまでもなく、この流れを作ってしまったのは、私達僧侶の責任です。ここを真剣に考えなければ、仏教界に未来なんてありえません。

伝えていますか【上野ちひろ】

在家生まれの私が、宗派を超えた寺院住職様向け報道誌『月刊住職』の記者として働くようになったのは14年前でした。本誌は寺院運営や布教活動に役立つ実務情報から、仏教界やお寺で起きている様々な出来事をジャーナリズムの視点で取り上げる日本唯一の雑誌です。以後、全国津々浦々のお寺を取材する日々が始まりました。

取材を重ねて実感したのは、「『お寺』と一口にいうけれど、実に多種多様だな」ということです。宗派の違いはもちろん、地域性、さらに住職の人柄によってお寺のあり方は千差万別。また情報社会かつ多様化が進む今の時代、どの地域のお寺でも工夫次第で可能性は広がっていることも感じました。事実、「里山資本主義」のように発想の逆転から過疎地を「資源の宝庫」として見直し、地域おこしを成功されたお寺の事例はいくつもあります。

しかし、どんな活動であれ、その根底に住職がミッションとして携えておられるのは、「生老病死の苦にいかに向き合うか」「安心をどう伝えるか」でしょう。一般の者にとってもまた、その救いへの道に出会える場だと期待するからこそ、お寺に行く意義、僧侶の必要性を感じるでしょう。あるお寺の写経会で出会ったおじいさんが、しみじみといわれました。「お迎えが近いこの歳になるとな、せめてお坊さんの衣の裾、いや、パンツの紐でもいいからつかんで、なんとか心の安心を得たい」。若い僧侶が開いた座談会に何度か来ていた女の子はこう話していました。「直接会わなくてもネットでコミュニケーションできる今の時代は楽だけどホンネはさびしい。人間関係に向き合うのは苦しいが、それが生きることだと仏教で学べるような気がする」。誰もが、この解決のない苦しみを抱えながら生きています。けれども、その苦しみに向き合うお寺への道(教えに出遇う道)を私たち一般のものが、日常生活でどう見出せるかとなると、けっこうハードルが高いように感じるのです。

一つに、お寺(宗派)と一般の人のあいだに「ズレ」が生じているのかなと思います。

というのも、もし、この誰もが抱える問いや悩みとお寺がストレートに結びついていたら、「寺離れ」などの言葉はないからです。実際に、どのお寺も真面目に法務をつとめておられます。しかし「法座も開いている。行事も行っている。でも人が来ない」という住職の嘆きの声を聞きます。法事も少人数化、減少化傾向にあり、真宗大谷派の『教勢調査』結果を見ても報恩講などの参詣人数が年々、減っています。つまりは人々の中で、お寺を支える意欲が減っているのでしょう。では、その「ズレ」はどこから生まれるのでしょうか。

たとえば、取材の中でお寺を取り巻く人々や、あるいは団塊世代に接してよく感じるのは、「寂しさ」です。リタイアして悠々自適、けれども老いは確実にやって来る、親しい人も亡くなっていく、お金も底をついてくる。けれども、その苦に「お寺」が関わってこない寂しさです。「お寺とは、葬儀や法事くらいしか接点がないんですよ。でも本当はお寺ってそれだけじゃないんじゃないですかね」「お寺って、本当は辛い時に光を見せてくれるようなところじゃないのかね」という言葉には、お寺への期待があるからこそなのだろうなと感じます(今や積極的に関わってくるのはお寺ではなく、「終活セミナー」くらいでしょうか。しかしその「活動」では本当の安心は得られないことは誰もが分かっているでしょう)。

また、昨今は若手僧侶による意欲的なイベントが各地で行われ、お寺に縁のなかった若者やOLたちで盛況です。日常にこうした場が開かれるのは大変喜ばしいことですが、OLが多いということは、それなりに社会経験を積んだ人たちが集まっているというわけです。美味しい場所、楽しい場所をたくさん知っている彼女たちが貴重な時間とお金を使って、わざわざお坊さんのイベントに来るのは、やはり内心期待があるからでしょう。働かなければ明日の衣食住が保障されず、なおかつストレスフルな時代を生きる「この私」に仏教は「生きていく安心」を感じさせてくれますか、と。

イベントが目的ではないのです。だからこそ、イベントは、主宰側が彼女たちの求めているものが見えているかが問われる場でもあるかもしれません。果たして仏教入門の「さわり」程度で彼女らが満足できるかどうか。そこをはき違えると、「参加してみた私」と写真をフェイスブックにあげられて終わり、になるかもしれません。実際、ある精進料理のイベントで「この金額出してこの程度の内容なら別に来る必要なかったね」と友達にボソッと呟くOLの声を耳にしてヒヤッとしました。逆にいえば、さほど美味しいものが出るわけでもないのに(失礼)、連夜盛況の東京・坊主バーはそれ以上の「ここに来る満足」を得られるのでしょう。いわば「私にとって必要な場所」になれるかどうかなのです。

ズレないためには、と考えた時、二人の住職が思い出されます。一人は東京・亀有の真宗大谷派蓮光寺(http://www.renkoji.jp/)の本多雅人住職です。同寺は毎月様々な行事を催し、法座が開かれる日は自坊の門徒だけでなく、他寺の門徒さんや近所の人まで集まり満堂です。「なぜ活発に行事を続け、またそこに人が来ると思うか」という私の問いに、当時40代の本多住職は「私自身が悩んでいるし、寂しいからだ」と率直にいわれました。「もし親鸞聖人の教えが普遍的なものであるならば、個々人の問題を縁としてお寺は開かれなければならない。出会いのきっかけとなるのは、住職の私自身も病んで、ぐらぐらしているところから始まるのではないか。お互いが悩んだり病んだりするところを縁に仏法を聞いていく。そうして支える人みんなでお寺をお寺にしていくのです」と。

もう一人は、大阪・豊中の浄土真宗本願寺派法雲寺の辻本純昭住職(40代)です。辻本住職は自ら「イベント坊主」と名乗り、お寺を多世代が関わる場として開いています。HP(http://www.tcct.zaq.ne.jp/bpdhn205/)。その辻本住職が今のように活動するきっかけに、30代の時、周囲から「突き刺さるような言葉」をかけられたからだそうです。ある日、地元の人から「お前、この不景気に坊さんはなぜ、何もしてくれんのやっ⁉」と胸倉をつかまれたこと。もう一つは、お寺で幼馴染とラジコンで遊んでいた時、幼馴染の彼からふとこういわれたこと。「お前とこの玄関の土間あるやろ。その敷地、うちの家の一軒と同じや。お前、この広い土地預かって、何しとんねん」。辻本住職は「いわれた時は腹が立ったがそのとおりやと思った。気づかせていただいたのです」と述懐されておられました。

何をするにしても、住職自身が、悩んでいるのか、求めているのか、世の中の苦に出会っているのか、が肝心なのだなと活況するお寺の住職からそれを教えてもらいました。また、そうでないと、人々が「求めているもの」など見えないでしょう。広島のある本願寺派の住職は、教師の資格を得て自坊に戻る時、故・梯実圓師(本願寺派元勧学)にこう声をかけられたそうです。「お寺に戻ったら一つだけできる住職になりなさい。存在をかけた問いに応えられる住職になりなさい」と。存在をかけた問いへの道が全国津々浦々に、日常的に開かれたらよいなと私は願っています。もちろん、その道づくりが、一般の私たちにも問われていることはいうまでもありません。

執筆者:上野ちひろ
龍谷大学文学部真宗学科卒業。宗派を超えた寺院住職向け報道誌『月刊住職』(http://www.kohzansha.com/index.html)記者。趣味は読書と登山。「ビールの写真ばっかり」といわれるフェイスブックはhttps://www.facebook.com/ueno.chihiro.3

初心者と熟練者が混ざりにくい浄土真宗の教えの特性【堀内克彦】

宿坊研究会の堀内克彦と申します。寺社旅研究家として各地のお寺や神社をお参りしたり、文筆やイベント企画、寺院コンサルタントなどをしています。

そうした日々を送る中、私は浄土真宗のお寺には、他宗より極端に入りづらい壁を感じています。この要因は明確で、浄土真宗では初心者を対象にしたプログラムがほとんど開発されていません。そんなことないと思われる方もいるでしょうが、いろんな宗派を俯瞰して見ると、その差は歴然としています。しかしこれは真宗のお坊さんの怠慢というよりは、単純に教えの特性の問題です。

例えば坐禅であれば初心者と熟練者が混ざっても、ある程度場が成り立ちます。しかし法話会でそれをするのは難しいでしょう。どちらかのレベルに合わせれば片方の満足度が下がります。大げさに言えば小学生と大学生が、一緒に数学の授業を受けるようなものです。

そしてこれまでであれば地域コミュニティで誘い合って、初心者でもお寺に行く文化がありました。知り合いが先導してくれれば、不慣れな場にも安心して足を運ぶことができます。しかし今はそうした関係も途切れがちです。

初心者との接点を失ったことで、外部がお寺に持つ不安や期待も見えづらくなる。それがますます初心者との距離を生み出しているのが、今の浄土真宗だと感じています。

そこで提案ですが、浄土真宗のお寺はもっと宿坊を開いてみてはいかがでしょうか。宿坊はお寺であり、宿でもあります。この良さは一見さんが入りやすいこと、常連だけでコミュニティが固まりにくいことです。宿泊した人に法話の時間を設ければ誰でも教えにふれることができますし、期待されるレベルも自然と初心者向けになります。お坊さん達もきっと初めての方に響く法話を、これまでとは異なる形で磨くようになるでしょう。

私の手元にある宿坊リストから集計すると、浄土真宗のお寺は日本に8軒しかありません。真言宗(100軒)、天台宗(39軒)、浄土宗(26軒)、日蓮宗(25軒)、臨済宗(16軒)、曹洞宗(10軒)と、主要宗派の中では最少です。日本で一番お寺の多い宗派であることを考えれば、浄土真宗は数字以上に宿坊に対して消極的です。

しかしそうした状況にも変化が見られます。私は以前、東本願寺にある同朋会館で講演させて頂いたことがありました。同朋会館は真宗大谷派に属する方の宿泊研修施設で宿坊とは異なりますが、こちらを一般の人にも開く取り組みをしたいと、検討委員会の立ち上げ時に私が呼ばれました。

そして企画された『東本願寺に泊まって学ぶ親鸞講座』は定員を超えるお申込みがありました。宿泊した側ももちろんですが、受け入れた僧侶にとっても学びの深い企画になったと、後日ご報告を頂いています。こうした取り組みは浄土真宗寺院が宿坊を作る上でも、参考になる事例です。

また、宿坊を作りたいという相談も私のもとには増えていて、2015年に開催した宿坊スタートアップミーティング(宿坊を開きたい方を対象にした勉強会)にも浄土真宗の方は参加されました。宿坊に対する潮目は変わってきており、これからきっと浄土真宗の宿坊は増えていくと感じています。

先日、自民党の観光立国調査会で、宿坊をテーマに講演させて頂く機会がありました。私のようなフリーの寺社旅研究家が呼ばれてしまうほど、宿坊は国策としても注目されています。もちろんそれは経済的な視点が中心ですが、私はここに流れる莫大な投資を活用して、経済的に成り立ちにくい地方のお寺の存続策を生み出せないかと模索しています。

寺院にお金が入る形を作り、仏教との新たな接点も作る。宿坊でお坊さんの話を聞けば、そこから阿弥陀様の教えに興味を持たれる方も出るでしょう。宿坊の弱点は一夜限りで継続的に仏教を説けないことですが、全国レベルで法話情報を掲載している『浄土真宗の法話案内』があれば、興味を持たれた方に改めて地元のお寺を紹介することもできます。

入り口の少ない浄土真宗に、宿坊は相性の良いパーツです。また宿坊はすべてのお寺で作れるものではないので一つの例ですが、「初心者」と「熟練者」を切り分けるだけでも、ずっと入りやすくなります。

初心者コースは単純に内容を平易にすれば良いというものではありませんが、お寺とまったくご縁のなかった人と向き合うと、そこも含めて相手の求めるものが見えてきます。それを汲み取りながら自分たちの教えと結びつけることで、阿弥陀様の教えも広まっていくのではないでしょうか。

執筆者:堀内克彦(ほりうちかつひこ)

宿坊研究会代表。「人生を変える寺社巡り」がテーマの寺社旅研究家。

宿坊研究会・縁結び神社研究会・お守り研究会を運営し、参加者1000人を越える寺社旅サークルの主宰や宿坊創生プロジェクトアドバイザー、仏前結婚式盛り上げ企画、お寺の漫画図書館、寺社好き男女の縁結び企画「寺社コン」などをプロデュース。
日蓮宗のお寺活用アイディアコンペでは、様々な寺社を活性化させた実績を買われて審査員を務め、各地で寺社活性化・地域活性化の講演なども実施。寺院のコンサルタントとしても活動中。
著書に『宿坊に泊まる(小学館)』『こころ美しく京のお寺で修行体験(淡交社)』『恋に効く! えんむすびお守りと名所(山と溪谷社)』など。
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親子という迷いのカタチ。【小林智光】

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【母が重くてたまらない〜墓守娘の嘆き〜】

というタイトルの本を読みました。

ざっくり言うと

 

・母と娘の間には切っても切れないものがある
・そのつながりは時として「縛り」になる
・「あなたの為にやったのよ」は母を殉教者にする。どんな宗教であれ殉教者は崇められなければならない。逆に考えれば先の言葉は計算の上である。
・母親というのは先天的なものでなく後天的に「なる」もの。
・子供との関係を良くするには、まず夫婦の関係を優先的に良くすること
・母親は絶対、という暗黙の意識がある以上、母から離れることは不可能に思える。関係を絶つ事すら許されないと思った時、子どもは殺意を覚える。
・母は娘との間に境界など無いと思っている。しかし、境界が無いという事は、川の流れがそうであるように不純物はどんどん下流に流れていくばかりである。つまり、娘と繋がればつながるほど押し付けたくないものが娘の方にいく。
・「あなたのお腹の中に私は居た。そしてあなたの身体から苦しみとともに私は生まれた」
「私のお腹の中にあなたは居た。そして私の身体から痛みとともにあなたは生まれた」
「あなたが知っているのは産みの痛みであって、私の苦しみではない」

という感じでしょうか。
この本は臨床心理士の著者が母親と娘の関係性を実際の親子のケースを元に書きまとめたものです。それ故、中には生々しい話もあり、実に示唆に富んだ一冊です。

私にも保育園に通う息子がいます。
実はこの息子は20時間以上の陣痛を経て生まれてきました。
入院前夜から出産の瞬間まで付き添ったのですが、簡易ベッドで背中は痛いし、意識は朦朧とするし…
とはいえ、出産した妻が一番苦しかったのは言うまでもありません。いや、息子も苦しかったでしょう(当然本人には記憶はありませんが)。
ウチはお寺という職業柄、平日に割と時間の余裕があります。それは逆に言えば土日に余裕が無いということにもなるのですが…
とにかく平日に時間を取れることがあるので、保育園の送り迎えもよくやります。
ここまで書くとヒマな人に見えますがw、決してヒマなわけでもなく、保育園送った後に月参りや法事に行き、お迎えの後に教区や組の会議に行くこともしばしば。
一番メンタルに来るのは保育園の送り迎えの前後に枕勤めの連絡を頂くことです。
保育園では笑顔一杯、『行ってらっしゃーい!』と声をかけた後に深い悲しみのご遺族と対面します。
竹○直人さんじゃあるまいし、人間は笑いながら怒ったり泣いたりできません。だから笑った後に深い悲しみの場に行くと、自分の感情が何処にあるのか分からなくなります。つまり、子育てと法務のミックスの日々はメンタルの針がブレまくって、定まらないのです。
まぁ、それはともかくとして、普通のサラリーマンのお父さんに比べれば子供と過ごす時間は遥かに多いのは事実です。
そんな日々ですから、時には「母親役」もする事があります。ご飯食べさせたり寝かしつけたり抱っこしたり。
私は男なので母親にはなれません。だから息子が「ママがいいのに〜」とグズった時には『やっぱ母親にはかなわないよな〜』などと思いました。だけど、ふと『母性というのは母親だけでなく、誰しもが持っている』と思った瞬間に気が楽になりました。
父親もジイちゃんもバアちゃんも兄妹も誰にも母性はある。だって、そうでなければ母親のいない子供は一生母性を享受出来ないことになりますから。
本当の母性ってそんな狭いことではなく、誰かにしてもらう「無条件の受け入れ」ではないでしょうか。それなら父親の僕にもできる。「俺は父親だから」とカタクならずに「今はジッと受け入れの時間だ」とスイッチを切り替える。
逆に言えば、世のお母さん方が
『母である私が受け止めなきゃ!』
と背負い込む事は苦しい事なのかもしれません。ずーっと母親スイッチを入れ続けるのは不可能です。母親だって人間なのですから、やさぐれたい時や一人で趣味に没頭したい瞬間だってありますもんね。

『母親絶対論』は子供の為どころか誰の為にもならない。だってママだって不完全な人間なのですから。そこにフタをして存在し得ない『神格化した母』を追い続けるのは迷いでしかないと思うのです。
それはそのまま、『強い父親』もある種の妄想上のイキモノとして位置付けることになります。

観無量寿経というお経では韋提希というお妃様が登場します。
息子の王子が様々なスッタモンダ(王舎城の悲劇の)の後に原因不明の腫物に苦しみます。
韋提希は薬を塗ろうとしますが、息子である王子・阿闍世より
『この腫物は心の問題なのです』
となだめられます。
薬では治らないのです。
阿闍世を救うのは母である韋提希ではなかったのです。
人を救うのは人ではなく、ましてや薬でもない。我々は真理の法(仏法)のよってしか救われません。それは親子であっても例外ではありません。
『我が子を救いたい』というのは親としては当然の感情ですが、その「当然ぶり」ゆえに迷いを生みます。親子ほど強烈な迷いは無い、とも言えます。
「救いたい」という想いから「ともに救われたい」という想いへの『変わりめ』が大切なのではないでしょうか。

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