このコラムの読者の皆さんは、「仏教婦人会」というのをご存知ですか?
うちのお寺にもあるわ、私も会員です、というお方もいらっしゃるでしょうし、ご存じない方もいらっしゃるでしょう。
特に本願寺派では、仏教婦人会の活動が大変盛んです。聞法に、奉仕に、キッズサンガ(子ども会活動)、おとき作りにと、お寺の活動は略称「仏婦(ブップ)」さんなくては行き詰ってしまいます。でもこの仏婦、自称仏教ジェンダー論者の私としては、いろいろ問題があると考えています。
私の所属する西順寺の仏教婦人会は、大変熱心で、お寺の者がいなくてもどんどん進みます。みなさん何をすればよいか十分心得ていらっしゃるので、指示する必要がないのです。
では、問題がないか、といえば、あります。
一つは、「婦人」という名称です。この言葉には既婚女性というイメージがあります。実は、西順寺の中でも、私は結婚もしていないし子どももいないので、居心地が悪い、と仏婦を辞められた方がいらっしゃいます。
反対に、お連れ合いに先立たれた男性が、順番なので、と役員を引き受けて下さることもあります。
仏教婦人会の大会などでは、「仏教婦人会綱領」というのを、読み上げるのですが、この「綱領」は、
「私たち仏教婦人は、真実を求めて生きぬかれた親鸞聖人のみあとをしたい、人間に生まれた尊さにめざめ、深く如来の本願を聞きひらき、み法の母として念仏生活にいそしみます。 」
<唱和>
一、ひたすら聞法につとめ、慈光に照らされた日々をおくります。
一、念仏にかおる家庭をきずき、仏の子どもを育てます。
一、「世界はみな同朋」の教えにしたがい、み法の友の輪をひろげます。
というものです。特に二番目の「念仏にかおる家庭をきずき、仏の子どもを育てます。」というのは、前述のシングルの女性には、疎外感を感じさせることでしょう。
どうすれば、ジェンダー、つまり、男は仕事、女は家庭などの、性差による決めつけを固定しない会にできないだろうか、とずっと考えていました。
ところが、ある先生のお話を聞いていて、思わず「あっ」と声を出しそうになりました。
それは、決して初めて聞くお話ではありません。「真宗仏教と祈り」という題でした。「祈り」ということは、浄土真宗ではあまり用いませんが、真宗の祈りは、如来が一切衆生のために祈る、ということがテーマでした。祈りというと、衆生が仏に祈ることというのが一般的だが、真実の祈りとは、如来が私を祈っていてくださることだ、というお話でした。こういう方向性の逆転は、決して初めて聞く話ではありません。
その時突然「仏の子どもを育てる」ということは「自己一人(いちにん)を仏の子どもとして育てる」ということだ、という声が聞こえたのです。
「子ども」と聞いて、自分の産んだ子どもだと思い込んでいたので、結婚していない子どももいない女性には疎外感を感じる、と思っていました。育児を女性の仕事と決めつけている、とも感じていました。
「子ども」とは、自分以外の小さい人のことではありません。他ならない自分自身なのです。このわが身一人を「仏の子ども」として育てることが、私自身の大仕事なのです。ほかの誰でもない、自分自身の責任なのです。
私の居場所が家庭です。私の居るこの場所を念仏の香る場所にする責任は自分にあります。
そう考えると、この「綱領」は、「婦人」だけのものではありません。
男性であるあなた、あなた自身を「仏の子」に育ててくれるのは、お母さんでもお連れ合いでもありません、あなた自身です。
このことがはっきりしたので、私のもやもやしていた「仏教婦人会」に対する思いは、明確に見えてきました。もちろん住職の独断では決められませんが、一つの形が見えてきました。
女子会流行の昨今、女性たちだけで話したいこともあるでしょう。男性だけで盛り上がりたいこともあるかもしれません。その場は尊重しつつ、女性も男性も、「御同朋・御同行」として、共に歩める同朋会に発展させていきたいと考えています。
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