煩悩の酒に酔いて 【高蔵 大樹】



さてさて、、私は今、勤式という所で儀礼に関する事を学んでおります。なんとも有り難い雰囲気の声明や、自然と背筋がピンとしてしまうような、そんな儀礼の役割だとかについて学ばせて頂いているのですが。その辺の話はまたいつか。

いや、実は私は、元々バンドマンでして。大学の時、軽音楽部に所属していたんです。しかも、今学ばせて頂いている、仏様から賜る背筋が自然とピンと伸びる有り難い儀礼空間。とはあまりにもかけ離れている、ハードコアといわれる音楽のジャンルでボーカルをしてました。

ハードコアのライヴは凄惨です。

地下深く、暗く、、集った人々がその狭いなかで体をぶつけ合い、鬼のように拳を振り回し、飛んだり跳ねたり暴力的に奇声をあげる。(ヴォーカルだったので奇声をあげる側でした)阿鼻叫喚まさに地獄絵図。

そんな場所で日頃の鬱憤を爆発させてました。あぁ、そろそろライヴしたいなぁ、、笑
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文化の歴史というのは娯楽の歴史であったりもするのかもしれませんが、今でもライヴハウスやクラヴ、居酒屋など、そういう所に行くのは嫌いではありません。もう一度言います。嫌いではありません。笑

そういった場所にはだいたい決まってこのような貼り紙があったりします。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

ハメをはずしすぎて、なにかトラブルに巻き込まれたとしてもそれはあなたのせいですよ。そんな意味だと思います。

そういった場所では恐ろしいトラブルに巻き込まれてしまう事も、ニュースをみてると、あるみたいです。

 

さて、仏教では私の中にあるトラブルの種の事を煩悩と呼んでいます。

煩悩の数、諸説ありますが、その中の代表的な三つの煩悩の、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)をまとめて、三毒の煩悩と呼んでいます。

貪欲(とんよく)とは、貪りの心です。あれがほしい。これもほしい。もっとほしい。もっともっとほしい。

瞋恚(しんに)とは怒りの心です。なんで俺だけ。腹立つわー。きにいらん。このやろう。

愚痴(ぐち)とは自分の都合に囚われて真実を見ようとしない心です。

困ったことに煩悩の三毒はとても美味しく、迷いの私にとって、これらを完全に断つ事はかなり、難しいです。

10836480_729122890507510_1656777299_nさらに水のようにぐびぐび飲めるのでそれが毒である事は、なかなか、なかなか、きづけません。

わしゃダイジョブよ、これは毒でしょ、分かっとんじゃけ、大丈夫。自覚しとんじゃけ大丈夫。もういっぱいだけなら大丈夫。ほら大丈夫じゃった。まだ飲んでも大丈夫なんじゃけ。

そんな風に、いつのまにやらグビグビのんで失敗。気づけば欲に溺れて溺れて、トラブルに、、

薬があるからといって毒を進んで飲むような事はしなさんなよ。と、昔からたしなめられておる事ではございますが、

あぁ、、あぁ。なんてこった。こんなはずじゃ。なんて事にも。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

阿弥陀仏という仏様は、ほっとけば地獄行きまちがい無しのこの私に、この張り紙のように「あなたのせいよ。わしゃしらん。勝手につぶれなさい。」なんてそんな仏様ではありません。

地獄に惹かれてしまうこの私の弱さ、不完全さに気づいているからこそ、

我が名を呼ぶ者を必ず浄土に生まれさせ、煩悩から離れた悟りの世界に導くぞ。それができぬなら私は仏にならないぞ。と

私の弱さ醜さを一身に背負い、手を変え、品を変え、お念仏となって、足元おぼつかない私をトラブルのない浄土にわたすぞ、と、はたらきつづけてくださっています。

元来またやってしまった。なんて事すら思えぬ私ですし、毒と薬の区別もつかぬ私ですし、わかっちゃいるけど止められない、そんなスーダラな私です。

そんな私が、迷いや過ちに気づかせて貰う時。そこには私を必ず救うぞ。という仏様の願いの光が絶えず照してくださっておったのでした。これからもお酒片手の迷いの私と共に歩んでくださるのでした。

南無阿弥陀仏。

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真っ暗闇でシアワセ 【小林 智光】

こんにちは。この原稿を書いているのは12月の初頭。初雪が降るか降らないかのまさに「冬本番」です。
毎日色々なことがありますが、私たちの人生ってどちらかというと「嫌なこと」や「辛いこと」のほうが多くないですか??
かくいう私も、生まれ育った土地で過ごし、お坊さんとして生活していると良いこともありますが、やはり「嫌なこと」や「辛いこと」も
たくさんあります。

例えば人間関係。田舎で過ごしているとどうしてもお会いする方は限られてきますし、自宅=職場ですので、家族とも長い時間を共にしています。

皆仲良くニコニコ暮らしていければいいのですが、そこは煩悩丸出しの凡夫。やはりケンカしたりうまく噛み合わなかったり。

他にも息子の将来のこと、健康のこと、これからのお寺の事…
悩みのタネは360℃、どこにでも転がっています。
私達はつらい事や悲しい事があってくじけそうになると、「目の前が真っ暗」になります。そしてそれが長引くと、ずーーっと真っ暗闇。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
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中国の曇鸞大師がこんな例え話を説かれています。
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、
 すなはち明朗なるがごとし。
 闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
 (教行信証・信巻)
–現代語訳–
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるの です。
このお話を聞くと、「一筋の光で目の前がバーッと明るくなった」というイメージになります。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
「一筋の光でバーッと明るくなったとかいう話ではなく、これは光が差し込んだことによって『あぁ、自分は闇の中にいたのだなぁ』と気づかされたという
意味ではないですか?」
なるほど。
確かに千年もの間、真っ暗だった部屋がイッペンポンで明るくなるというのも中々解せない。
それよりも、「そうか、今まで自分は暗闇にいたのか」と気づく方が何だか大切なことを教わっているような気がするのは私だけでしょうか?
そもそも生まれてから死ぬまで暗闇にいたのなら、光を知らないまま一生を終えることになる。
空しく一生を終えることとなる。
別にバーッと明るくなる必要もない。よーく目を凝らしていけば暗闇にも慣れてくるし、その部屋が狭いのか広いのかもよくわかる。

私達は「救われた」というのをどことなく「バーッと目の前が開ける」ようなイメージを持ってはいないでしょうか。

少し乱暴な言い方ですが、どんなに尊い教えを聴いたって自分の悩みは解決しません。暗闇は暗闇のまんま。
だけど、「真っ暗闇でシアワセ」な生き方、暗闇と仲良く付き合っていけそうな生き方が見つかれば、それはそれで「救われた」と感じられないでしょうか。
『はい、僕は悩みで目の前が真っ暗です。これからもそうでしょう。でもナンマンダブツで平気です。』
そんな生き方が出来たら素晴らしいなぁと思うのですが、如何でしょうか??
(ある意味、ただの「開き直り」とも言えますが…(^_^;))

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