月別アーカイブ: 2014年6月
「あとから見てね」 【三浦 まゆみ】
西順寺では、毎朝のお朝事に、真宗聖典を少しずつ拝読しています。そして、10分ほどの解説をします。毎朝来てくださる方々のおかげで、私たちも毎日お聖教の言葉にふれることができています。
今朝の拝読は『蓮如上人御一代記聞書』59、
一 「皆ひとのまことの信はさらになし ものしりがほの風情にてこそ」。近松殿の堺へ御下向のとき、なげしにおしておかせられ候ふ。あとにてこのこころをおもひいだし候へと御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりがほ」とは、われはこころえたりとおもふがこのこころなり。
ちょっとわかりにくいところもあるのですが、
意味は、
「だれもみんな、まことの信はさらさらいただいていないのに、いかにもよくわかっているという顔ばかりである」たぶん蓮如上人のお作りになられたこの和歌を、蓮如上人の息子さんである近松殿(蓮淳、光応寺殿も同一人物)が、大阪の堺へ向かう時に、長押(なげし、ふすまの上部)に押して貼り付けて、あとでこの意味を考えなさいと言われた。 近松殿にとって、このことがはっきりしていないことだった。「ものしりがほ」とは、私は心得ていると思っている、そのこころである。
そういうことだと思います。
ふと思ったのは、蓮淳さんは、部屋のどちらの長押にこの言葉を貼り付けて行ったのだろう、ということです。
a,正面つまり主の真上に貼ると、主には見えません。下座から見ている人々に見えます。
b,主から見て人々の真上に貼ると、主からは見えますが、下座にいる人々からは見えません。
c,左右にはるとどちらからも見えます。
cの場合は、主客共に語り合いながらこれを見るのですから、わかりやすいです。
bの場合はちょっと複雑です。下座にいる人々が「ものしりがほ」ということになるのでしょうか。蓮淳さんは、上に貼りつけた言葉と、人々の顔を見比べながら座っていて、あとから見ておきなさい、と言ったことになるでしょうか。
わからないのは、aです。下座から見て蓮淳さんの真上にこの言葉がありますから、「ものしりがほ」は、他ならない蓮淳さんということになります。あとから考えてごらんなさい、と言われても、困ります。
私は、aだと思います。bだと、相手をそう見ていた、ということになります。浄土真宗の言葉は、決して相手を向かってお説教するのではなく「自督(じとく)の言葉」であって、他ならない私自身がそのものである、という言葉に特徴があります。こうやって話をしている私自身が、本当はわかっていないのに知ったかぶりして話をしている、という懺悔であり、遠くからはよく見えないかもしれないから、私がいないときによく見てください、ということではないかと考えます。
皆さんは、どう思いますか?
我が一人子として 【平野 正信】
前回、もうすぐ生れてくる子供に名前をつけたというお話を掲載していただきました。
あれから少しして、つれあいが出産してくれて、明法(あきのり)が生れてくれました。
私は大阪で仕事、つれあいは長野の実家で出産、ということもあり、出産に立ち会えるか立ち会えないかは微妙なところでしたが、運良く休み中に陣痛がはじまり立ち会うことが出来ました。
立ち会えて良かったと思います。
男性の中には、立ち会いは「こわい」「あまり立ち会いたくはない」と言う人がいますし、そういう気持ちもわからなくは無いです。いや、実はとても良くわかります。
なにせ修羅場です。今から激痛に耐えるつれあいを見なければならない。励ますこと以外は何も出来ない、というのは確かにこわいのです。
でも、是非これからという人は、パートナーが望む場合は立ち会ってほしいと思います。
私達男性はこわいだけ、女性はこわいどころの騒ぎじゃなく、今から実際に体験するのですから。
陣痛のタイミングに合わせ、つれあいが苦悶の表情でいきみます。何度も何度も何度も、朦朧と激痛を繰り返す姿はとても痛々しいものでした。
そんな中、最後に産声が聞こえ、明法(あきのり)が誕生しました。
はじめて明法の泣き声を聞いた時はとても感動しました。
翌日は何故か僕も色々なところが筋肉痛になっていました。
それだけ力んでいたということなんでしょう。
しかしまたここからが大変でした。
出産から数日間、つれあいは生れたばかりの赤ちゃんと一緒に過ごすことが出来たのですが、数日後つれあいは40度を超える高熱を出して倒れてしまったのです。
産褥熱(さんじょくねつ)という病気で、出産後の感染症でした。
即入院でした。
明法はつれあいの実家で世話することになりました。
入院翌日、熱はあるものの少し楽になったとのことで、私はつれあいの身の回りのものを持って病院に見舞いに行きました。
「少し楽になったようだし、育児のつかれもあるだろうから、今は育児から離れてゆっくり休めばいい」
と声をかけると、つれあいはポツリと
「あっくんに会いたい」
と言ったのです。
そして今まで見たことの無い寂しい表情をしました。
十月十日、おなかの中に一緒にいた明法、生れてからは寝かしつけおむつをかえ、乳も飲ましてひと時も離れることがありませんでした。
飲まれなくても胸は張ります。入院当初、検査結果が出るまでは、せっかくの母乳を捨てなければなりませんでした。
私がつれあいにかけた
「今は育児から離れてゆっくり休めばいい」
という言葉は、私は優しさのつもりでしたが、つれあいにとっては残酷な言葉であったかもしれません。
つれあいは休みたいのではなく、この手に抱いて、世話をして、乳をやりたかった、明法に触れていたかったのです。
私はこの時、ある御和讃(ごわさん)を思い出しました。
浄土和讃(じょうどわさん)の
平等心(びょうどうしん)をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり
一子地は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし
という御和讃です。
一子地とは、菩薩(ぼさつ)が一切の衆生(しゅじょう)を我が一人の子として慈しんで見ることが出来るという境地です。
つれあいは明法を一人子として見ています。
そして、慈しみと同時に、今つれあいは悲しみ、寂しさの中にいるのだな、と思いました。
つれあいが
「一子地って何?」
と聞きました
「あなたが明法をおもうのと同じ気持ちで、全ての生きとし生けるものを見ることが出来る、菩薩様の心のことだよ」
と答えました。
つれあいは少し押し黙って
「そっか、…それは私には無理やなあ」
と言いました。
私も同じように思いました。
一人子と離れることの辛さに打ちひしがれ、一人子を心配してたまらない気持ちになっているつれあいを見ていると、全ての生きとし生けるものを、これ以上無いほど大切な仏の子と思いやってくださっている仏様は、一体今までどれほど悲しんでこられたのかと思ったのです。
仏様の慈悲はやさしさ、ただただ嬉しい気持ち、と思っていた私は、ハッと気付かされた気がしました。
離れ離れにされた母子のように、救いたいと必死によびかけてきた数知れない衆生が、また命つきては輪廻の中に埋もれていく。
それを阿弥陀様はどれほどの悲しみで見てこられたのか。
「あなたを救いたい」とずっとよびかけてきた呼び声が、そのものの生涯の間にとどかなかった虚しさは、どれほどに寂しいお気持ちであったのでしょうか。
数日経ち、血液検査の結果も出て熱も下がり、つれあいは退院することが出来ました。
そして、少しの間離れていた我が子を、また抱くことが出来ました。
この時の「よかった」という気持ちは、私がお念仏申すとき、阿弥陀様が私に向けてくださる気持ちと似ているのかもしれないな、と思いました。
「ずっとよんでいたよ
よかった
南無阿弥陀仏をやっとうけとってくれたね
よかった」
私をおもって悲しみ続けてきてくれた阿弥陀様が、今やっと私を一人子として抱きしめて、よろこんでくださっています。
お念仏をいただくとは、仏様に抱きしめられることなんだ。
そのように味あわせていただくご縁でした。
「あるがまんま」と「このまんま」 【高蔵 大樹】
大ヒット上映中!アナと雪の女王を見ました。
素敵でした。歌がいいですよね。ついついくちずさんでしまいます。
ありのーままのーーすがたみせるのよーーー。ありのーままのーじぶんになるのー。
あるがまんまで生きる事。本当に大切な事なんでしょうね。
人間だけがあるがままを忘れて生きているとの話を目にした事がありますが。自分自身無理しがちで、カッコつけたがりなので、ほんまだなぁと思います。
よけいなものにとらわれずあるがまんまで生きてゆきたいです。ありのままで。
ところで、
仏の願いはそのまま。私の願いはわがまま。という法語があるんですが。
先日、法話で「そのまんま」と「このまんま」は違う。という話を聞きました。
「そのまんま」と「このまんま」は違う?
わかるようなわからんような、わからんような、わからんような、結局わからん話ですが。
そういわれて、振り返ってみると、私の思う「あるがまんま」は悲しいかな、「あるがまんま」ではなかったような。私の思い通りであってほしいという「このまんま」であったような、そんな気がしました。
あるがまんま、と言いながら、このまんまから離れようとしない、ままならない、ワガママな私のすがた。
時々刻々うつりかわる私。
揺れ動いて、流され流され、流されつづける私、、
寝る私。真面目な私。忘れる私。怒る私。笑う私。泣く私。卑屈な私。傲慢な私。几帳面な私。めんどくさがりな私。わがままな私。明るい私。暗い私。成功した私。失敗した私。隠したい私。
今の私が、ほんとのワタシ。であるならば、「このワタシ」以外の私はわたしじゃない?
ぐるぐるしてきます。
都合の悪い私は、わたしじゃない方がそりゃいいのですが、、、
仏法にであい、
真実の光にてらされて、うかびあがる我が身の真実は、わたしにとって都合のいいものばかりではありません。
目を背けたくなるような、おぞましい私の姿もあったりします。
その私のおぞましい姿を知り、悲しみ、そんなどうにもならないお前こそ必ずすくいとるぞ、と呼つづけはたらき続ける仏様の呼び声は、
おぞましいままならんこの身こそを「そのまんま」ゆるして引き受けてくださっています。
まかせなさい、必ず救いとる。と、この身にはたらいてくださってます。
一人では「このまんま」であろうとしてしまう。
あるがままに生きる事のできない私は、
仏様に許されている事を受け取り、おまかせして初めて、安心して、あるがままでいれるのでしょうか?
ありのーままのーーすがたみせるのよーーー。ありのーままのーーじぶんになるのー。
まだ見ていない方もおられるかもなので、オチは詳しくかけませんが、
映画の中のキャラクターも
内に秘められたおぞましい力を、ありのままゆるされて、安心する世界にであっているような気がします。
ありのまま願われている事に感謝して、仏法から我が身を聞く生活をおくりたいもんです。
南無阿弥陀仏。