「師と仰ぐ」ということ【柳衛法舟】

2年前の5月初旬、僕は真宗大谷派にて「人生二度目の得度」をしました。それから現在に至るまでの間、僕は心の中のどこかで、一つの矛盾のようなものを常に感じていたように思えます。

その矛盾とは、「『全ての人々を摂め取って捨てない』という本願に基づく真宗教団において、何故『疎外感』のようなものを時折感じるのだろうか? この『疎外感』の正体とは、一体何なのだろうか?」というものでした。
この矛盾は簡単に答えが出せるようなものではなく、恐らく一生問い続けていかなければいけない問題だと思います。

僧侶の方と浄土真宗について語り合おうとした時、「(私が学んでいる)○○先生は、このように仰っていた」という発言を繰り返すばかりで、こちらの意見を殆ど受け止めてもらえなかったことが、今までに何度かありました。おそらく本人は「○○先生の言葉は間違いないから、是非知ってもらいたい」という親切心で発言しているのでしょう。けれども、僕の心の内に湧き起こったのは、教えて戴いた感謝の気持ちではなく、押しつけがましさに対する不快感でした。白状すると、○○先生の話を聞きたいと思うどころか、「意地でも聞くものか」とすら思いました。
僕は何故、不快な気持ちになったのでしょうか。それは「○○先生に学べた私は幸せ者だ」という「選民意識」のようなものを感じてしまったからです。写真のポジにはネガがあるように、「選民意識」の裏には必ず「選ばれなかった民への眼差し」が伴います。言葉の裏に「今まで○○先生に学ぶご縁のなかったあなたは可哀想だ」という眼差しを感じ、とても嫌な気持ちになったのです。
以下、この出来事を念頭に置きながら、皆さんと一緒に「師と仰ぐ」ということについて、考えてみたいとおもいます。

この出来事に限らず、浄土真宗の僧侶の世界では「師との出遇い」をとても大切にします。その背景には「『師との出遇い』が無ければ、本当に本願念仏の教えに出遇ったとはいえない」という考え方があります。これは、親鸞聖人が本願念仏の教えと出遇う上で、師である法然上人との出遇いが決定的な意味を持ったことを根拠としています。僕も、「師との出遇い」が大切であるという点に、異論はありません。
しかしながら、「しっかりとした先生の下で学ぶことで、必ず教えと出遇える」ということにはならないはずです。事実、法然上人の下には数多くの門弟が集っておりましたが、浄土真宗の立場から言えば、本願念仏の教えに出遇えた者は数えるほどだったからです。
むしろ逆に、「教えに出遇えた」という事実に立った時にはじめて、その縁となった方が「師」として見出されるのではないでしょうか。もっと言えば、今まで出会っていたはずの方と、師として出遇い直すということがあるのだと思います。

少し意地悪な言い方になりますが、「○○先生はこう仰っている」という方は、本当に○○先生を「師と仰いでいる」のでしょうか。自分自身が本願念仏の教えに出遇った、救われたという体験がなければ、○○先生との関係は単なる教員と学生との関係でしかありません。そうした表明も不十分なまま、「私は○○先生に学べて幸せだ」「私は××学校で学べて幸せだ」とことのほか言い立てる裏には、自分自身の歩みに対する自信の無さすら感じられてしまいます。
何より、他人が本当に教えと出遇えたかということは、心の奥底の話になりますから、外見や経歴から窺い知ることは出来ないはずです。もし、自分とは違う経歴であること、例えば龍谷大学や大谷大学といったしっかりとした教育機関で学んでいないことから、「この人は教えに出遇っていない」と決めてかかるのであれば、それは傲慢な姿勢と言われても仕方ないのではないでしょうか。

さて、皆さんは「師との出遇い」について、どのようなイメージを持っておられるでしょうか。恐らく、多くの方は実際に顔を突き合わせた師弟関係、所謂「面授口決」の関係をイメージされるかと思います。確かに、多くの方が「私の師」として挙げられるのは、学校や私塾で教鞭をとられた教学者がほとんどです。
勿論、「師との出遇い」のオーソドックスな形が、教育機関における教学者との師弟関係であることは間違いないと思います。けれども、例えば僕のように教育機関に所属して教学者から直接学ぶ縁になかった者はどうしたら良いでしょうか。「師との出遇い」が成り立たないから、教えと本当に出遇うことは出来ないのでしょうか。
僕は、「師との出遇い」は、直接の師弟関係に限定せず、もっと広いつながりでもって捉え直して良いのではないかと考えています。それこそ、極論かもしれませんが、自分が根底からひっくり返されるような教えとの出遇いがあれば、本を通じて「師と仰ぐ方」と出遇うことも出来るのではないでしょうか。既に亡くなった方であっても、書かれた文字を通して、それこそ時空を超えて出遇うことが出来るのであれば、それはとても素晴らしいことではないかとも思うのです。

なお、これはあくまで僕の個人的な意見ですが、自分の師が誰かについて、あまり積極的に表明していく必要もないように感じます。勿論、教学理解に対する議論などで自分自身の立ち位置を示す必要がある時には「名告る」べきでしょうし、ことさら隠す必要もないでしょう。ただし、わざわざ「○○先生が私の師だ!」言い立てなくても、本当に師と仰いでいるのであれば、自ずと言葉や行動に表れてくるはずです。これこそ、師と仰ぐ方への敬意を表しているのではないでしょうか。
僕は「師の言葉」よりも「師を縁として、出遇った教えとは何か」「教えと出遇ったことで、自分自身にどのような転換を迫られたのか」ということが重要だと考えています。ですから、「教えによって、転換を迫られた自分」というものを、自分自身の言葉でもって表現していきたいし、そのような表現に出会っていきたいと思っています。本願念仏の教えが僕一人に届くまでに、そのような営みが絶えること無く続いてきたはずであり、その担い手の方を心より尊敬するからです。

最後になりますが、生まれや経歴を問わず、一人でも多くの方が様々な縁のもとで御念仏の教えと出遇い、先達の中から「師と仰ぐ方」を見出して戴きたいと念じています。そして、ご自身が「師と仰ぐ方」と同様に、ご自身の言葉でもって、御念仏の教えを喜んで戴きたいと念じております。
そうして紡がれた言葉が、新たな念仏者を生んでいく。そうした広がりこそが、浄土真宗の僧伽の本質ではないかとも思うのです。

執筆者 柳衛 法舟(やなぎえ ほうしゅう)
1982年東京都生まれ
学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程史学専攻修了、真宗大谷派教師。現在、真宗大谷派成真寺衆徒として法務に携わる一方で、東京にて団体職員として仏教書の出版事業に従事。(Facebook
著書に『ニセ坊主 僧伽をおもう―本願寺維持財団と真宗大谷派』(響流書房)

「「師と仰ぐ」ということ【柳衛法舟】」への1件のフィードバック

  1. コメント戴き、また拙著をご高覧戴き、有難う御座います。

    ご質問については、オープンな場所で個人的な見解を述べるには難しい点もありますから、こちらではなく、何らかの形でお答えしたいとも思います。

    申し訳ありません。

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