-火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておわします-
(歎異抄)
私、小林はお寺生まれのお寺育ち。
姉と妹に挟まれた「真ん中長男」でしたから、生まれた時点で
『跡継ぎ確定』
として育てられました。
小さい頃から
「あなたはお寺の跡取りなんだから」
と周囲から色々と手をかけてもらい、お育て頂きました。
しかし反抗期が長く、京都の大谷大学を卒業した後も大学院に進んだり就職したり。
とにかく「いかにしてお寺に帰らないで済むか」の作戦をあれこれと練ってばかりの不届き長男でした。
しかし結婚を機に自坊に帰ることになり、法務の日々を過ごしておりました。
そんなある年の秋のこと。
とてもご縁の深いご門徒さんが亡くなりました。
とても明るい方で、私はもちろん、ご近所からも愛される声の大きなバアちゃんでした。
息子さんからご連絡を頂いた時、ホントに「えええっ!」っと声が出ました。
そして枕経を勤める為にご遺体に向かい、お顔の白布を取った途端涙がポロポロとこぼれました。
今にも例のデカい声で喋り出しそうなお顔。笑うと下がる目尻…
昔から可愛がってもらい、私も「智ちゃん、智ちゃん」と言って可愛がってくれたこのバアちゃん…。
言葉が出ませんでした。
お勤めをしようと思ったのですが、声がつまってお勤めになりません。
お通夜の席でも法話で何をお話したら良いのか、言葉が出てこないのです。
何だか「命は尊いものです」みたいな当たり障りのないお話しかできませんでした。
そして不思議なことに、お念佛が出てこないのです。
いつもなら「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と口から出てくるのに、この時ばかりは一向にお念佛が出てこない。
何だか自分のお念佛が「嘘っぱち」に思えてしまったのです。 「アンタのお念佛は本物か?」と故人が声なき声で語りかけてくるような気がしたのです。
いや、お念佛は「嘘っぱち」ではありません。歎異抄にもあるように、『ただ念仏のみぞまこと』であって、「私」自体が「嘘っぱち」なのです。
いや、でもそれなら「嘘っぱち」の自分から出てくるお念佛は本物なのかどうなのか…
とにかく頭がグルグルグルグル。
お通夜も葬儀も何とか勤めました。
そして全てのお勤めが終わった時にあるご門徒さんが声をかけて下さいました。
「悲しいけど、○○さん、アンタにお経読んでもらってとても喜んでると思うよ。私の時も頼むわぁ」
と言って下さいました。
「お寺の人間でないからわかる視点もあるのだ」
「生え抜きだとお寺があることが当然に感じられて変えていくという意識が云々」
私は上記の一件があってからというもの、自分のような坊さんでも喜んで下さる方がいることに、大変有難さを
感じるようになりました。お寺生まれのお寺育ちだから「お寺ありき」の発想しかできないかもしれない。
色々な社会事情の中でお寺は窮地に立たされ続けるかもしれない。
それでも「やっぱ自分の菩提寺さんにお経読んでもらうのが一番うれしいわぁ」というご門徒さんがいるのなら、苦しい時は苦しいまま、
辛い時はつらいまんま、手を合わさせてもらおう。
それと、ふと思いました。
自分が逆の立場だったらどうなんだろう。
見知らぬ「おエライ様」の電報より、よく知った人の「ナンマンダブツ」が嬉しい。
美しいセレモニーの祭壇より、近所で採れる季節のお花が嬉しい。
(…世襲もいい面があるんじゃね??)
そんなおセンチなことを考えていた、世襲坊主のひとり言でした。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏