なぜ念仏一つにこだわるのか【瓜生崇】

今、Facebook界隈で多少話題になっているものに、ある意見書があります。話題と言っても浄土真宗の僧侶を中心にごく狭い業界内の話ではありますが、起案した私のもとには賛同する意見もたくさんいただきましたし、やはり同様に「守旧派」「非寛容ではないか」「器が狭い」といった批判的意見も多数頂いています。

「アップデートする仏教ファイナル」同朋会館開催に対する意見書

11219118_1001109996606385_4233294689191724297_n[1]一度、この意見書を読んでくだされば幸いです。かいつまんで言えば、「同朋会館」という真宗大谷派の本山の施設の中において、「アップデートする仏教」という、藤田一照・山下良道の二師の宗教指導者が主導する講演と座禅や瞑想指導が行われることについて、考えなおしてほしいという意見を書いたものです。これは私と同じく一時期新宗教に身をおいたあとに真宗の僧侶となった、畠山浄さんの主導により出しているものです。

なお、このことは当サイト「浄土真宗の法話案内」のスタッフの意見ではなく、全く私瓜生崇個人の見解であることを付け加えさせて頂きます。

意見書をネットで拡散する理由

こうした意見書をネットで拡散して意見を募るというやり方には異議もあると思いますし、嫌な思いをされた方も少なく無いと思います。それについて説明します。

私は実は以前に大谷派の施設を使った行事を準備していた際に「出場者の中に大谷派を離脱した寺院の子弟がいる」という事を理由に、外すように圧力を受けたことがあります。宗派を離脱するということは周囲に様々な軋轢を生むものであり、それらの人たちの気持ちを考えると強行することは出来ないと判断した当時の実行委員は、出場者の変更という苦渋の決断を行いました。

ただそのことで最後まで納得できなかったのは、一体誰が関わりどういう議論と経緯でこの圧力をかけているのか、「それは話せない」と全く教えてもらえなかったことです。本山は私達への要求を文章にすることすら拒みました。今でもそのことを考えると、とても嫌な気持ちになります。

ですので、意見するならばオープンな場で、対話が可能かつ議論の経緯が誰にでも分かる形でしたいと思ってこのようにした次第です。

魅力的な「アップデートする仏教」の活動

誤解してほしくないのですが、「アップデートする仏教」の皆さんの活動自体を批判するものでは決してありません。今から行事を中止してほしいとか、他の会場でやってほしいと申し入れているのではありません。

宗派の施設をオープンにしていこう、開かれた教団にしていこう、という試みがいま盛んに行われている中で、私達が一体何のために教団の門戸を開き、関わっていかなければならないのか、ちゃんと考えていただきたいのです。

「アップデートする仏教」は私も読みましたが、とても力のある対談で引き込まれるものがあると思いますし、今の伝統真宗教団に足りないものを率直に表していると思います。

形骸化した伝統仏教の中において、日本の伝統仏教を「医療行為が行われていない不思議な病院」であると疑問を持ち、本当の仏教を求めて海外に行って修行してきた経験に多くの人が惹かれるのは当然のことです。

今の伝統教団においては当事者たる僧侶においても、自分のいる教団の教えが本当に人を救うことが出来るのかという疑問を持つ人は少なく無いでしょう。事実、浄土真宗の僧侶の中でも少なくない人たちが、こうした瞑想修行などに惹かれてその道を歩んでいます。

「アップデートする仏教」には「体感」「メソッド」という言葉が幾度も出てきますが、信仰を様々に思い悩んでいる人にとって、こうした言葉が持つ力強さというのは私も十二分にわかるつもりです。何かの「メソッド」によって「体感」するというのは、これ以上ないくらい説得力のある論理だからです。

どうして「念仏」ひとつなのか

しかし、浄土真宗の教えというのは、あえてそこを離れた教えなのです。瞑想や修行、更には祈祷など、あらゆる行から解放される教えと言ってもいいかも知れません。

瞑想や修行で救われたと言われる人がいても私はもちろん否定しませんし、その道を歩もうと言う人がいても全く咎める理由などあるはずはありません。でも、世の中はそんな人ばかりではないわけです。座禅も、瞑想も、何もかも出来ない、どうすることも出来ない存在がある。

例えば末期がんで今まさに死を目前にしている人に、瞑想したら救われると言ってもそれは無理な話でしょう。でも私だって本当は同じなのです。

だって、今日死ぬかもしれない身なのですから。

私は響流書房という小さな電子書籍の出版社を立ち上げて、いろんな方の手助けを頂いてなんとかやってきていますが、最近出した「妙なるいのちこのいのち」という本に、赤禰貞子さんという、病弱で小学校も四年生までしか行けなかった念仏者の話が出てきます。

身体が悪くて普通に働くことが出来ず、粗末な小さな部屋が全てだったけど、薄い小さな本から広大なお念仏の世界に出会われ、人の念仏との出遇いを自らの無上の喜びとして生きた女性の話です。

その方がこんな歌を残しています。

「通ずるの心ほとけの世界なり南無阿弥陀仏の世界なるかな」

浄土真宗の救いとは、ただ「南無阿弥陀仏」という真実の言葉に触れることです。その言葉に触れた時に、独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬだけの人生ではなかったと知らされるのです。

私も、共同署名した畠山さんも、様々な紆余曲折の末にこの言葉に触れた人間です。だから、声を大にして言いたいんです。この言葉を伝える教団であるかぎりは、「医療行為が行われていない不思議な病院」なんかじゃないって。

南無阿弥陀仏と念仏を称え、他の全ての行を捨てることを教えた法然上人を「偏執ではないか」と批判した明遍上人が、天王寺の西大門の数えきれないほどの衰弱した病人に、一人ひとり重湯を与えている法然上人の夢を見て、念仏とはこの重湯のことであったのかと考えを改め、法然上人に弟子入りしたという伝承があります。

この病人のひとりは私です。

寛容であるところと、こだわるところ

今、多くの真宗教団がお参りの減少に悩んでいます。来られている方も多くはお年寄りで、若い人は極少数にとどまります。少なくない人がこの現実に危機感を感じて様々な対策を練っています。

私も多くの人たちと助け合いながら出来ることを地道に取り組んでいる最中です。この「法話案内」のサイトもその一つです。

今回の「アップデートする仏教」のイベントが行われる同朋会館にしても、今までお寺に関心のなかった人を呼び寄せるような意欲的な取り組みを多々しています。

そして中でも一つの宗派の中にとどまらない、宗派や宗教を超えた試みは重要になってくるでしょう。伝統真宗教団はいつの間にか自分たちの宗派の中でしか通用しないような言葉ばかりを生み出して、その中に甘えてどっぷり浸かってきました。そうした垣根を取り払って、お互いの差異や共通する部分を知ることは、そのまま教団外の多くの人に教えを伝える大切な土台を作ると思います。

しかし絶対に外してほしくないのは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という浄土真宗の教えなのです。そのこと一つを守り、伝えられなくなったら真宗大谷派は浄土真宗では無くなります。

「アップデートする仏教」の人たちにはもちろん何の問題もありません。もちろんどちらが優れているという話でもありません。

講演や講義だけなら構いません。しかし、「ただ念仏」ということを唯一の本当の拠り所としてやってきた真宗教団の本山で、瞑想や座禅などの行を行うイベントが、殆どの人が知らないところで決定されるという事があってはならないと思います。やるならやる意味をもっと考えて公にして議論して欲しいのです。

私は過去にはこんなことも書きました。

日本人は異なる宗教に寛容なのか

なんでもやることが器が大きいのではないと思います。本当に大事にしていることがなければ800年も教団は続きません。そこを行動から明らかにした上で、他者を認めていくことが私たちに求められているのではないでしょうか。