私がカルト宗教という問題に取り組んで早いもので十年になります。その間、宗教や信仰の問題についての相談を随分受けてきました。
以前、地域の集会で講演を依頼されたことがあります。そこではとある新宗教の教団施設の建設の予定が明らかになり、地域住民の人達が反対運動に立ち上がったのです。私が日本で起きているカルト問題の概略や、そもそもカルトとは何かという講演をしたあとに、集まった人達による議論が始まりました。代表者の方の「あんなカルトを街に入れる訳にはいかない」という言葉の後に、挨拶に来た教団職員の目つきがおかしかったとか、服装が変だとか、マインドコントロールされているという意見が言われました。
その教団に懸念すべき点が無いとはとても言えませんが、特に何か事件を起こしたわけでもなく、ここ最近で言えば社会的に問題となるような活動も見受けられません。しかし住民の皆さんの議論を聞くと、悪く言えば「異質な人達を受け入れたくない」という感情があまりに前面に出ているように思いました。私は帰りに主催者から「もう少し(その教団の)怖さや問題点について、危機感を与えるような話をして欲しかった」と言われ、すこしうなだれてそこを後にしました。
最近、松山大耕氏という臨済宗の僧侶の書いた、「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とはという記事が話題になっています。私が今見ただけでもFacebookの「いいね」数が5.4万と、相当な支持を集めているように見えます。その記事から松山氏の主張をかいつまんで言うと、「キリストの誕生日であるクリスマスをお祝いし、年末にはお寺で除夜の鐘を聞いて、そしてお正月には神社に初詣に行く」というのが日本の宗教の「寛容性」であり、そうした宗教観に世界の宗教家が期待し、注目していると言いたいようです。
世界の宗教家が本当に期待しているのかどうかは置いておいて、この記事の主眼である、宗教をお互いに尊重し理解し合うというのはとても大事なことであって全く異論はありません。ただ、果たして日本だけそんな特別に素晴らしく寛容な宗教観があると言えるのでしょうか。
神社にお参りしない人たち
私の友人のある家族は神社にはお参りしません。七五三にも行きません。クリスマスも祝いません。それはそこが浄土真宗に生きる人の家庭だからです。しかしそうした生き方をすると毎度のごとく「視野が狭い」「非寛容だ」「子供がかわいそう」という声を聞くそうです。
私自身は浄土真宗の僧侶ですが、神職や牧師の友人も多くいますし、お互いにその宗教を敬って生きているつもりです。でも私の家族にはクリスマスも初詣もありません。敬ってないのではありません。浄土真宗の自分たちには必要ないというだけです。
しかし不思議なことに私もまた「原理主義的」とか「非寛容」とか「かわいそう」と言われてしまうのです。これは今だけの話ではありません。江戸時代には浄土真宗の門徒が東北に多く移住していますが、信仰上の理由から神社に参拝せず祭事にも参加しない彼らの生き方は、元からの住民の間に深い軋轢を生じさせたといいます。
私は神社にもお寺にもクリスマスにも行くというのは、それはそれでひとつの立派な宗教観だと思います。それがおかしいとは全く思っていません。しかしそれは決して「寛容」なのではなく、ただその人にとっての宗教がそうであるというだけのことではないでしょうか。少なくともそのくらいのことなら外国の人が観光で日本を訪れて神社仏閣を敬うのと大差あるとは思えず、日本に特有のものとも思えません。
カルトの問題への様々な取り組みを続けていると、個別の宗教のもつ社会的な問題性を論ずる前に、宗教を真剣に信仰する人たちを冷ややかに見下す思いを根底に感ずることが少なくありません。しかし宗教というのは得てしてその人の全存在を支える根拠になりうるものです。私の人生が宗教そのものであるという信仰もあるのです。そのような信仰であれば価値観や生き様が根底から変わっていくのは当然ありうることで、そこには衝突も当然生ずるでしょう。
本当の寛容さというのは、神社も参りクリスマスも祝うという所にあるのではなくて、神社にいかずクリスマスにも参加しない人がいても、つまり我々の価値観や習慣と全く異なる宗教を持った人がいても、それを認めて理解していく所にあるのではないでしょうか。
寛容という言葉で非寛容を裁いてしまえば、それはもう寛容とは言えないのです。
日本仏教の寛容性
松山氏はさらに日本の「寛容な宗教観」に神道の影響を受けた「日本で独自に洗練されてきた仏教のスタイル」があると主張します。しかしそもそも日本の神道や仏教とはそんなに寛容なものだったのでしょうか。
日本の仏教教団は歴史の中で常に様々な権力については離れ、必要とあれば自分たちを脅かす勢力を徹底的に潰してきた歴史があります。興福寺や延暦寺の僧兵が勢力争いの抗争を頻繁に繰り返してきた歴史は有名ですし、私の属する浄土真宗もその渦中で大きな弾圧を受け、大規模な戦争にも発展しています。
その浄土真宗も大教団となった後には権力と結びつき他の宗教の弾圧に加担しています。寺檀制度はそもそもキリスト教などの異端勢力の締め出しが大きな目的の一つでした。近代になってからは廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの仏閣はバーミヤンの大仏のように破壊され、仏教諸派は国家に服従して戦争協力の道を突き進みます。そして神道は国家主義と結びつき学校や公共施設では神棚への礼拝が強要され、一方大本教などの新宗教を弾圧するようになります。
つい最近までこうした抗争と弾圧の歴史を繰り返してきた日本の仏教や神道を、いまさらになって「1500年以上かけて洗練されてきた」寛容性のスタイルと言われても、歴史を多少でも知る人なら一体何を言っているのか訳がわからないでしょう。
この事実を見ると、日本人は宗教に特別寛容なのではなく、自分たちの共有する価値観と権威に対して寛容なだけだと言われても仕方がないような気がします。
本当に寛容な宗教観とは
記事には松山氏が提案した「画期的」なる宗教駅伝なるものが紹介されています。世界の異なる宗教家でつながる駅伝ということでこれ自体はとても素晴らしいことだと思います。ただ、少々意地悪な言い方をしてしまえば、「自分たちを脅かす可能性がない人たちとは仲良く出来る」だけの事のようにも私には思えます。
いまヨーロッパでは教会がモスクに鞍替えするというケースが多くみられるそうですが、日本の伝統的な寺院が改装され次々とモスクになるような事態が私達に訪れ、全く異なる価値観や生き様の人びとが大量に生まれるような事態が訪れたとしても、私達は寛容でおれるでしょうか。
400年前、浄土真宗が急激に拡大していった時に起こったことは、既存の仏教宗派との激しい衝突と弾圧でした。その浄土真宗も今は伝統教団の一角として日本の宗教を代表する存在の一つになっています。そう思うと、今後日本で宗教地図をひっくり返すような変化が訪れないとは誰も言えないでしょう。
異なる宗教観の対話や理解が大事なのは言うまでもないことです。そこを否定するつもりは全くありません。
ただ、今私達に必要なのは、イスラムとの衝突に揺れるヨーロッパを他人ごとのように見ながら「日本の寛容な宗教観に世界が期待している!」などと鼻高々に自負するのでなく、激動の世界の中でいつか私達も同じような事態に直面し、異なる生き様や価値観を許容しなければならないだろうという覚悟だと思います。
寛容になれないかも知れない私達が、それでも寛容になってゆこうとする謙虚さが、いま最も求められているのではないでしょうか。
わたしはムスリムの人と個人的に友達にはなれても、「ムハンマドを冒涜した人間は殺されて当然」という価値観は到底リスペクトできません。ある宗教をリスペクトするのも思想信条の自由だというなら、無宗教の人が宗教を冷ややかに見るのもまた思想信条の自由ではないのですか。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/16/saudi-blogger-sentenced-to-1000-lashes_n_6484042.html?utm_hp_ref=japan
わたしはこんな価値観を許容する覚悟はありませんし、日本社会においてこれを許容する「謙虚さ」など必要ないと考えます。
瓜生さんにはありますか?ないでしょうね。私がSNSで自分のTLに犬の顔文字を書いただけで、「犬が嫌いだから」という理由で「ケンカ売ってんのか」とわざわざコメントしにきた貴殿ですから。
犬嫌いな人にとっては犬好きは不快だし、それを認めて許容することさえ困難だというのに、根底から異なる世界観・価値観を「許容せよ」「寛容になれ」などやすやすと言えることではないと思います。
「いかなる思想信条の表明も認める」「だが他者の生命財産を侵害してはならない」という我々の社会を成り立たせている規範を再確認することがむしろ重要であると私は考えます。
Rudelさん
この文章はそもそも私たちは異なる宗教に寛容になれないことを認めていこうという趣旨なので、おっしゃるご指摘とは方向性が少し違うように思っているのですけど、大変重要な問題提起をありがとうございます。
ご指摘のことについては、オウム真理教の事件があった時に随分と議論されました。信教の自由とその教団の内包する社会的問題性をどう見ていくかということです。
カルト問題に取り組む人たちの間では、信教の問題と社会性を切り離す事で一種の「折り合い」をつけることが現実解としてある程度共有されています。ただ、本当のところは信教の問題とそれとを完全に切り離すことは無理だということも、多くの人はわかっていると思います。
ご指摘の通り、基本的人権や思想信条の自由は長い間かかって私達が築きあげてきた重要な価値観であり、それを破壊するような教義を尊重したり許容したりする必要は私は全くないと考えます。
しかし世界にはまだ私達が「普遍的」と思っているこれらの価値観よりも、ずっと宗教的な価値観のほうが上位にあり、それを達成するためには人権や自由を侵害してもいいと思っている人も数多くいます。
このことを知らずにただ自分たちが間違いのない正義と思っているものを振りかざしても、そもそも「絶対に正しい」と思っている前提が違うのだから話になりません。お互いに譲れず理解もし合えない正義と正義のぶつかり合いが始まるだけで、それこそ「負の連鎖」です。宗教戦争というのは多くはこんな感じで始まってきたのではないでしょうか。
価値観を許容するというのは、こうした人達がそれぞれの正義で動いているということを、まず認識するということだと思います。根底から異なる価値観だと理解するということです。その上で共有できる接点を探していく事だと思っています。何もすべてに対して理解を示す必要などないと思いますし、そんなことはそもそも出来るわけはありません。
さて、ご指摘のSNSの件は私は覚えてないのでなんとも申し上げ難いのですけど、それは私とあなたとの関係性の上でなされたちょっとしたふざけ合いに過ぎないのではないかと思います(もしそれがご不快であったのなら申し訳ありません)。私は犬が好きな人を不快に思ったことはありませんから。
ただ私が寛容でもなんでもないというのはその通りです。その上で、とても受け入れがたい価値観に対して何らかの接点を見つけて、粘り強く話をしていくことは、いわゆるカルトと言われる宗教の信者さんとの数多くの話し合いを通じて、少しはやってきたのではないかと思っています。もちろん十分ではありませんけど。
そしてそれは、寛容になれない自分を自覚していたからこそ、受け入れられない部分を認識して、粘り強く接点を見つけて対話を続けてこれたという部分もあると思っているのです。それが「謙虚さ」と言った意味です。
最後に、「無宗教の人が宗教を冷ややかに見るのもまた思想信条の自由ではないのですか。」ということですが、これはもともと日本には寛容な宗教観があるという松山氏の主張への反論に対してのことであり、宗教を冷ややかに見ることは思想信条の自由に反するという事は全く思っていませんし、本文中でもそのような主張はしていません。当然のことです。
以上、長くなりましたが、コメントへの返答とさせていただきます。
日本人の宗教観について寛容という言葉で説明されていますが、寛容という言葉からは、一つの自分の神を持ち、その他の神を信仰することは人は認めるが、自分は神としては認めないと受け取れます。
自分の見方としての日本人の宗教観の特長は、複数の宗教を同時に信仰することにあると思います。軸足があるにしても、釈尊やキリストやアラーも全て信じた上で、軸足が阿弥陀仏にあると言ったような感じです。
我々日本人は前者も後者もほぼ同じように感じますが、一つの神しか信仰しないのが前提のキリスト教やイスラム教の方には非常に異な存在に見えるのではないかと思います。
追伸
ちなみにこれを書かれた瓜生様は、真宗合同法話会で、領収書を切ってくれた方でしょうか、であれば非常に感激です。
瓜生さん、拝見させていただきました。
何だか論文のような感じですねw
何でも法話になるもんですね。
なんまんだぶつ。
私も同感です。
日本人が他の宗教に寛容であるというのは、他の宗教を尊重しているのではなくただ単に無関心なだけだからと私は思っています。
そして日本には他人の信仰に無関心でいられる環境が今現在あるだけなのだとも感じています。
クリスマスを祝い、お寺で鐘を撞いて神社で手を合わせる。
この一連の流れが宗教によるものだと知っている人は大多数だとは思いますが、宗教的な意識を持って行っている人は多くないと思います。
恐らく時代が進んで移民が日本に入ってくるようになれば、礼拝の時間などがあり日本人とは生活リズムの異なるイスラム教徒への差別なんてのは普通に起こると思います。
そしてそれは未だほぼ単一民族で構成される日本の、異質な物を嫌う雰囲気により起こってくると思います。
それに私は日本は他の国より歴史的な経緯から異質な物を受け入れる懐が浅いと思っています。
まだ移民受け入れなど本格的に異なる文化を入れたことがない日本が、他の国が今日本に注目している!みたいなことを鼻高々に言うなんて非常に恥ずかしいことだと思います。
今の日本こそこれからの時代に向けて、今諸外国で起こっていることから何かを学ばなければならないと思います。
(めちゃくちゃな文章だとはわかっていますが、深夜ですのでお許し下さい……笑)
ちょっと論点がズレているかなと感じました。
今の日本の宗教からは「信仰心」「神仏への忠誠」「教義や戒律を守る」という部分は一切取り除かれ、単に「祖先の霊を敬うための手段」「その地域で集団の絆を保つための手段」へと変化しています。
神社や他宗派のお寺に行かない、祭事を祝わない他人を批難する人々がいるのだとすれば(今の若い人でそんな人は見たことがないのですが)、それは「町内会の集まりに、あんたんちだけ参加しないなんて、協調性がないお宅ね」「あんたんちだけゴミを収集日じゃない日に出されると困るんだけど」くらいの意味合いしかないと思います。
上記で「今の若い人でそんな人は見たことがない」と書きましたが、核家族化や単身世帯、少子化、地方人口減少が進んでいく今後は、ますます本来の宗教的意味合いが薄くなっていくでしょう。
なので、上記の例をもって「日本人は他宗教に寛容でない」と言い切るのは、いささか無理があるかなと思います。
また、仏教の宗派同士の抗争や廃仏毀釈などの歴史を挙げられていますが、これはごく一部の権力者や聖職者たちが行ったものではないですか?民衆が積極的にこれらを率先して行ったり、加担したり、支持したりしたのでしょうか?
ごく一部の権力者や聖職者が行った争いや政策をもって、「日本人は〜」と日本人全体を断言するのも、これまた無理があると思います。
「民衆が積極的にこれらを率先して行ったり、加担したり、支持したりしたのでしょうか?」
はい、しています。明治期の廃仏毀釈などの歴史資料を是非ご覧いただければと思います。
「日本人は初詣にも行くしクリスマスも祝う。だから日本人は宗教に寛容だ」という言説には危うさを感じていました。その危うさを具体的についてくださる文章で、とても感動しています。
無関心を寛容と勘違いしているとき、自分の価値観とは相容れない宗教や信仰者が目の前に現れて、本当の意味で寛容でいられるのだろうかとずっと考えてきました。
この文章や他の方のコメントを拝読して考えましたが、寛容は0か1かではないと思います。
異なる宗教を信仰する隣人に対して寛容でいられても、例えば前の方がコメントでおっしゃっていたような「ムハンマドを冒涜した人間は殺されて当然」という、ともすれば自分が脅かされてもおかしくないような価値観を寛容に受け入れられない人は少なくないのではないでしょうか。私自身もそうですし、そういった受け入れがたい宗教観や信仰心とどう共存していくか、今後の課題にしたいと思います。私は特に、現在イスラームの国に留学しておりますので、そのような価値観のぶつかり合いは日常茶飯事なのです。
ひとまず、「寛容か」「寛容でないか」の二元論にならないように、この問題に関してはこれからも考え、時に論じて参りたいと思います。面白いお話をどうもありがとうございました。
瓜生さま
すごく納得しました。
私は、キリスト教徒なので、全くその通りという感情です。
浄土真宗は、私の理解では、あまり形式ではなく、「仏にのみより頼む」、「人間は悪人であるため、行為による善行より、仏の慈悲により生かされ救われる。」ということじゃないかと思います。教理もしっかり確立しているため、どうしても「神仏なら全部まとめて拝んどこう」ということから遠いのではないかと感じています。
この辺りは、会衆派やバプテスト派のキリスト教と近い感じで、どうしても「なんでもOK」が「寛容」であるということに対して私も疑問は持っています。
今後ともよろしくお願いします。