「あとから見てね」 【三浦 まゆみ】

10458205_541920439247107_6912057226245829389_n西順寺では、毎朝のお朝事に、真宗聖典を少しずつ拝読しています。そして、10分ほどの解説をします。毎朝来てくださる方々のおかげで、私たちも毎日お聖教の言葉にふれることができています。
今朝の拝読は『蓮如上人御一代記聞書』59、
一 「皆ひとのまことの信はさらになし ものしりがほの風情にてこそ」。近松殿の堺へ御下向のとき、なげしにおしておかせられ候ふ。あとにてこのこころをおもひいだし候へと御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりがほ」とは、われはこころえたりとおもふがこのこころなり。

ちょっとわかりにくいところもあるのですが、
意味は、
「だれもみんな、まことの信はさらさらいただいていないのに、いかにもよくわかっているという顔ばかりである」たぶん蓮如上人のお作りになられたこの和歌を、蓮如上人の息子さんである近松殿(蓮淳、光応寺殿も同一人物)が、大阪の堺へ向かう時に、長押(なげし、ふすまの上部)に押して貼り付けて、あとでこの意味を考えなさいと言われた。 近松殿にとって、このことがはっきりしていないことだった。「ものしりがほ」とは、私は心得ていると思っている、そのこころである。

そういうことだと思います。

ふと思ったのは、蓮淳さんは、部屋のどちらの長押にこの言葉を貼り付けて行ったのだろう、ということです。

a,正面つまり主の真上に貼ると、主には見えません。下座から見ている人々に見えます。

b,主から見て人々の真上に貼ると、主からは見えますが、下座にいる人々からは見えません。

c,左右にはるとどちらからも見えます。

cの場合は、主客共に語り合いながらこれを見るのですから、わかりやすいです。
bの場合はちょっと複雑です。下座にいる人々が「ものしりがほ」ということになるのでしょうか。蓮淳さんは、上に貼りつけた言葉と、人々の顔を見比べながら座っていて、あとから見ておきなさい、と言ったことになるでしょうか。
わからないのは、aです。下座から見て蓮淳さんの真上にこの言葉がありますから、「ものしりがほ」は、他ならない蓮淳さんということになります。あとから考えてごらんなさい、と言われても、困ります。

私は、aだと思います。bだと、相手をそう見ていた、ということになります。浄土真宗の言葉は、決して相手を向かってお説教するのではなく「自督(じとく)の言葉」であって、他ならない私自身がそのものである、という言葉に特徴があります。こうやって話をしている私自身が、本当はわかっていないのに知ったかぶりして話をしている、という懺悔であり、遠くからはよく見えないかもしれないから、私がいないときによく見てください、ということではないかと考えます。

皆さんは、どう思いますか?

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