任せるということ 【山岸 幸夫】

reikyuusya霊柩車の運転を、タクシードライバーさんがなさることがあるのだそうです。
霊柩車は大きくて、取り回しがむずかしいですから、プロの運転手さんが運転してくださる方が安心なわけです。
ですが、当の運転手さんにしてみれば、業務命令だから運転しているんだけど、本当は怖かったんだそうです。それで思いあまって同席のお坊さんに打ち明けたそうです。「怖いんですけど」って。
そうしたら、そのお坊さんが言うには、
「どんな人も、この間亡くなりましたので、焼いてくださいといって来る人はいませんよ。だれかにお任せしないと死んでいくこともできないんですよ。その人生最後のお手伝いを、どんなご縁か、他人のあなたがなさっておられる。こんな尊いことがありますか。亡くなった方が、あなたにありがとうと言っているように思いますよ。」
そのお話を聞いて、ドライバーさんは、
「自分の仕事に誇りがもてるようになりました。」とおっしゃったんです。
私がよいお話しをお聞かせいただきました。

亡くなっていくときはそうですが、生まれて来たときはどうでしょうか。
赤ちゃんって、自分ではオッパイ飲めないんですよね。お母さんがだっこしてくれてはじめてオッパイが飲めるし、げっぷだって、お母さんが背中をトントンしてくれないとできない、何もかもお母さんにお任せしないと生きていけないんですよね。
でも大きくなるにつれて、いろんなことを任されるようになります。
お留守番、お使いにはじまって、大人になると仕事を任されたり、部下や会社や、人によっては国を任されたりしますよね。ホントにまかせていいのかなって人もいますけど。
私たちって、どうやら任されることに成長を感じるみたいですね。人から認められたいのでしょうね、いろんなことができるということを。

ところが、任せていくということになると、なかなかやっかいですね。後輩に仕事を任せるにしても、手順が自分のやり方とは違っていたりとか、ましてや結果が期待していたものと違っていたりすると、「任せちゃおれん」となりがちですよね。
子供たちも大きくなって、ご飯やお洗濯やお掃除のお手伝いをしてくれるようになると、手伝ってくれること自体は嬉しいですけど、やらせてみたら大変ですよね。一人でやった方がよっぽど早くてきれいですし。
しかも子供たちはそんなこと憶えちゃいません。自分一人で大きくなったみたいな顔してね。ホントに、任せるって難しいですね。

しかし、私たちは「任される」ことに成長を感じるとしたら、「任せる」ことができてこそ、人として成熟したと言えるのではないでしょうか。
そして、本当の意味での安心、あるいは安堵ということを考えるとき、この私そのものをおまかせする拠り所(よりどころ)がありますか、ということを問われているように思うのです。
このことに対して、阿弥陀さまは、「生きとし生けるものを私の国に生まれさせずにはおれないのだ」そんな願いをかけてくださっておられるのです。

「ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ」
「あみださまにおまかせなさい」親鸞さまはそうおっしゃいます。

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限りなき道を共に 【畠山 浄】

どれだけ頑張ってみても、老いと病と死の苦しみからは逃れることはできません。戦争や圧政、経済格差などによってこの世にあふれる愁い嘆く声も限りがありません。だからこそ私たちは道を求めずにはおれないのですが、道を求めているにも関わらずかえってお互いを傷つけあってかえって迷いを深くしていっているのが私たちが開いている世界のすがたではないでしょうか。

そんな私たちのすがたを悲しんでくださって阿弥陀さまは、苦しみ悲しみにおしつぶされてうごめいている私たちに南無阿弥陀仏という声となってはたらいてくださるのです。受けとめてくださっているのです。娑婆の苦しみには限りがないからこそ、南無阿弥陀仏と今ここで悲しみの中に立ち上がり、未来へと歩む力をたまわるのです。

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阿弥陀さまの真(まこと)が、私の上に南無阿弥陀仏と実(みのり)になる。真実を宗(むね)として生きていく私が誕生するのです。真宗門徒の誕生です。南無阿弥陀仏とご信心をたまわり、阿弥陀さまのお浄土への往生の道を歩かせていただくのです。

人間が人間として実っていくことを願って。未来のいのちが清らかならんことを願って。どこまで歩めるかとか結果が出るかどうかとかは関係ありません。自分一人救われる道ではなく、同じ願われてあるいのちとして他者と共に生きていくことを願いとする道なのですから。この世のありとあらゆるのいのち生きるものが皆、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と浄土を願わずにはおれんいのちを生きている、そんな世界をたまわって生きる。限りなき終わりなき道を共に歩んで往くのです。

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