信仰は浄土真宗本願寺派などといいつつ、私は親鸞聖人のこと、浄土真宗のことについて知識がない。
よって、山伏弁円による親鸞聖人暗殺未遂事件を知ったのも、つい最近のこと。
この一大事件のことを知ったとき、とっさに思い出したことがある。
それは、なぜか『ハムレット』の一場面であった。
ハムレットが伯父のクローディアスに対し仇討ちをしようとする「あの場面」なのだ。
ご存じのように、この場面でハムレットは結局、クローディアスを討つことなくストーリーは展開する。このとき、クローディアスはひとり、神に祈りを捧げていた。クローディアスが父親殺しの犯人だと疑ってやまないハムレットにとっては願ってもない場面だ。しかし、祈りを捧げるクローディアスに対しハムレットは、この瞬間に仇討ちをすれば彼が天国へ行ってしまうことをきらい実行にうつすことをためらう。
実際にこの場面を上演する場合、クローディアスの演技が特に難しく鍵となる。国王としてのnobleさ(気高さ)が祈りの姿からにじみでなければ、ハムレットに暗殺をためらわせるには至らない。クローディアスのうしろ姿から神に通じる何かを観るものに感じさせなければならないからである。
話を弁円による親鸞聖人暗殺未遂事件に戻そう。
山伏弁円による親鸞聖人暗殺の場面に関しては史実をまったく知らないので自分なりに想像をしてみるのだが、恐らく、弁円が乗り込んできたとき、親鸞聖人はお念仏を申されていたのではないかと思うのである。
つまり、「南無阿弥陀仏」の六字の結びつきの強さ、親鸞聖人とお念仏の一体感といってよいだろうか、そうしたものに弁円は圧倒されたのではないかと思うのである。厳しい修行を経験した弁円ならではの直観、研ぎ澄まされた感覚によるためらいがあったと想像するのである。親鸞聖人と山伏弁円という一対一の人間同士のぶつかり合いなら暗殺は決行されたのかもしれない。
しかし、親鸞聖人とお念仏となれば、弁円さんにとっては分が悪かったのではないだろうか。
そして、この場面を舞台化するならば、親鸞聖人の演じ方がとても難しいことはいうまでもない。
浄土真宗とキリスト教では、互いに相容れないものがあるのは当然だが、「お念仏」「祈り」というひとつの宗教的行為において何らかの共通点を見いだせるのではないかと思ったのだ。
*これはあくまで筆者の個人的見解です。ご注意ください。