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「お坊さん便」と信用 【小林 智光】

14012250_1079810748741131_255445557_n.png昨年12月にAmazonでサービスの始まった『お坊さん便』。

もう、この話題については色々な方が言及しておられるので、私なぞが出る幕でもないのですが、少し雑記的に書いてみます。

※参照までに→「お坊さん便とは?」

以前から僧侶派遣をされている「みんれび」という会社が始めたサービスです。
これに関して、全日仏が抗議を出したり、お寺さん側から色々な意見が出たり。

そんな中で、僧侶派遣の仕事をされたことのある瓜生さんという方がこんな記事を書いておられます。

浄土真宗の法話案内・リレーコラム「新たな搾取の構造」

確かに価格の不明瞭なお布施というものに対して定額をハッキリと明示したのは頼む側である喪主・施主にとっては望ましいことでしょう。何をどうすれば良いかがすぐわかるのですから。いわゆる「ユーザビリティーの向上」というやつですかね。

少し話は逸れますが、私は以前呉服業界にいました。着物の問屋で営業マンをしていました。
問屋というのは「中間業者」です。モノの流通を川になぞらえて「川中」ともいいます。
それに対して町の呉服屋さんを「川下」といいます。皆様の地元にも「○○呉服店」という着物屋さんは一つはおありかと思います。
そして製造元やメーカーを「川上」といいます。
分かりやすく言えば着物という「モノ」が流通という川をメーカー→問屋→地方の呉服店と流れて皆様のもとに辿り着きます。
当然、中間業者があればマージンは積まれていくので、価格は高くなっていきます。
オフレコですが(書いている以上オフレコでもないのですが…)、私の勤めていた当時は呉服屋さんの価格は製造原価の10倍ともいわれていました。分かりやすく言えば10000円のものが100,000円で販売されているのです。
そんな状況からか、中間をすっ飛ばして消費者に直接販売する問屋やメーカーもありました。
しかし世の中そんなに甘くはありません。販売するには様々な広報費や人件費がかかります。販売した後のアフターフォローもしなければなりません。安く売って利益は上げたものの、アフターフォローが後手後手になり、倒産していった会社もありました。
最終的に消費者が信用したのは「町の着物屋さんの女将」でした。そして着物屋の女将は問屋の担当「○○君」を信用して注文をしてくれます。問屋の○○君は 時々呑み相手にもなるメーカーのオッちゃんにいつも無理を聞いてもらって助けてもらってます。メーカーのおっちゃんは職人に納期を急かしてばかりですが、 職人とは祖父の代からの付き合いです。
こうして流通というものは出来上がっていきました。
つまり高い価格は「儲け」ではなく「信用」という付加価値がついているのです。それが流通の論理です。
必ずしも全ての業者がそうでもありません。中には儲けたい一心で値段を跳ね上げる業者も当然います。
しかし、新参者や勇み足の経営陣がその流通の論理をすっ飛ばして走ると痛い目を見ました。そういう業者をいくつも見てきました。

話を戻せば、今回の僧侶派遣はどうでしょう。もし地域に根差して何代も僧侶派遣を営み、休日深夜でも喜んで対応してきた業者さんならいうまでもありません。まさに社会から求めに応じていると言えるでしょう。
問屋では新規の取引先に関しては必ず信用調査会社から審査してもらいます。そしてその審査ををもとに「与信管理」を設け、取引金額の安全危険のボーダーラ インを慎重に引きます。ちなみにこの信用調査会社の社長さんとは平素もチョコチョコお会いして相談したり会社を見てもらったりしています。年間契約料もお 支払いしているので、コストもかかっています。
一方で僧侶派遣の登録はどうでしょう。大抵はネットで必要項目を入力して送信ボタンをポチっで終わりではないでしょうか。管理コストはどれほどかかっているのでしょう。

私は僧侶です。ですからこういうことを書くと「坊主が保身で書いている」と思われるかもしれません。
確かに保身の面もあります。しかし、大小様々ありますが、何代も続いて「村のお寺」を護持しているところは相当の人的・物的コストがかかっています(コストというと語弊はありますが)。

行事の度にお斎のご飯を盛ってくれるおバアちゃん。合間を見て草取りや木の伐採をしてくれる近所のジイちゃん。農地解放の時に「国に取られるなら、いっその事お寺に」といって土地や資産を寄進してくださった奇特な方。
そういう目に見えない人的・物的コストは「懇志」(こんし)と呼ばれ、大事にされてきました。

そしてこのサービスを使われる方が支払ったお金は、瓜生さんも上記のコラムで書かれているように、

>コツコツと本堂を修繕したり、法話会を開いて仏教を伝えたり、子ども会を開いて仏様の心を伝えたりといった、全国のお寺が地道に進めている活動には一円も使われることはありません。

です。
このサービスが広まって窮地に立たされるのは「檀家制度に胡坐をかいた生臭坊主」よりも、むしろ「村人に好かれる住職さん」ではないかと私は思うのです。

僧侶派遣の必要性は私も感じています。なので頭から否定というわけではありません。
ではどうすれば良いか。

宗派が同様の事業を始めるのも一つの手かもしれません。
しかしそれにはそれ相応の時間と手間がかかります。
教区レベルでは教区会、企画委員会、教化委員会、組会。本山レベルでは宗議会や参議会、様々な委員会(すいません、本山関係は詳しくないので…)。
もしくは有志でやるか。
しかし、これには基本となる企業体や法人格が無いので難しいかもしれません。
いずれにせよ、安易にサービスを始めて飛びつくよりも、長い歴史の中で培ってきた信用に敬意を払いつつ、「ゼロベース」で発想していく必要があるのかもしれません。
厳しい時代に、ただただ襟を正していこうと思うばかりです。

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親子という迷いのカタチ。【小林智光】

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【母が重くてたまらない〜墓守娘の嘆き〜】

というタイトルの本を読みました。

ざっくり言うと

 

・母と娘の間には切っても切れないものがある
・そのつながりは時として「縛り」になる
・「あなたの為にやったのよ」は母を殉教者にする。どんな宗教であれ殉教者は崇められなければならない。逆に考えれば先の言葉は計算の上である。
・母親というのは先天的なものでなく後天的に「なる」もの。
・子供との関係を良くするには、まず夫婦の関係を優先的に良くすること
・母親は絶対、という暗黙の意識がある以上、母から離れることは不可能に思える。関係を絶つ事すら許されないと思った時、子どもは殺意を覚える。
・母は娘との間に境界など無いと思っている。しかし、境界が無いという事は、川の流れがそうであるように不純物はどんどん下流に流れていくばかりである。つまり、娘と繋がればつながるほど押し付けたくないものが娘の方にいく。
・「あなたのお腹の中に私は居た。そしてあなたの身体から苦しみとともに私は生まれた」
「私のお腹の中にあなたは居た。そして私の身体から痛みとともにあなたは生まれた」
「あなたが知っているのは産みの痛みであって、私の苦しみではない」

という感じでしょうか。
この本は臨床心理士の著者が母親と娘の関係性を実際の親子のケースを元に書きまとめたものです。それ故、中には生々しい話もあり、実に示唆に富んだ一冊です。

私にも保育園に通う息子がいます。
実はこの息子は20時間以上の陣痛を経て生まれてきました。
入院前夜から出産の瞬間まで付き添ったのですが、簡易ベッドで背中は痛いし、意識は朦朧とするし…
とはいえ、出産した妻が一番苦しかったのは言うまでもありません。いや、息子も苦しかったでしょう(当然本人には記憶はありませんが)。
ウチはお寺という職業柄、平日に割と時間の余裕があります。それは逆に言えば土日に余裕が無いということにもなるのですが…
とにかく平日に時間を取れることがあるので、保育園の送り迎えもよくやります。
ここまで書くとヒマな人に見えますがw、決してヒマなわけでもなく、保育園送った後に月参りや法事に行き、お迎えの後に教区や組の会議に行くこともしばしば。
一番メンタルに来るのは保育園の送り迎えの前後に枕勤めの連絡を頂くことです。
保育園では笑顔一杯、『行ってらっしゃーい!』と声をかけた後に深い悲しみのご遺族と対面します。
竹○直人さんじゃあるまいし、人間は笑いながら怒ったり泣いたりできません。だから笑った後に深い悲しみの場に行くと、自分の感情が何処にあるのか分からなくなります。つまり、子育てと法務のミックスの日々はメンタルの針がブレまくって、定まらないのです。
まぁ、それはともかくとして、普通のサラリーマンのお父さんに比べれば子供と過ごす時間は遥かに多いのは事実です。
そんな日々ですから、時には「母親役」もする事があります。ご飯食べさせたり寝かしつけたり抱っこしたり。
私は男なので母親にはなれません。だから息子が「ママがいいのに〜」とグズった時には『やっぱ母親にはかなわないよな〜』などと思いました。だけど、ふと『母性というのは母親だけでなく、誰しもが持っている』と思った瞬間に気が楽になりました。
父親もジイちゃんもバアちゃんも兄妹も誰にも母性はある。だって、そうでなければ母親のいない子供は一生母性を享受出来ないことになりますから。
本当の母性ってそんな狭いことではなく、誰かにしてもらう「無条件の受け入れ」ではないでしょうか。それなら父親の僕にもできる。「俺は父親だから」とカタクならずに「今はジッと受け入れの時間だ」とスイッチを切り替える。
逆に言えば、世のお母さん方が
『母である私が受け止めなきゃ!』
と背負い込む事は苦しい事なのかもしれません。ずーっと母親スイッチを入れ続けるのは不可能です。母親だって人間なのですから、やさぐれたい時や一人で趣味に没頭したい瞬間だってありますもんね。

『母親絶対論』は子供の為どころか誰の為にもならない。だってママだって不完全な人間なのですから。そこにフタをして存在し得ない『神格化した母』を追い続けるのは迷いでしかないと思うのです。
それはそのまま、『強い父親』もある種の妄想上のイキモノとして位置付けることになります。

観無量寿経というお経では韋提希というお妃様が登場します。
息子の王子が様々なスッタモンダ(王舎城の悲劇の)の後に原因不明の腫物に苦しみます。
韋提希は薬を塗ろうとしますが、息子である王子・阿闍世より
『この腫物は心の問題なのです』
となだめられます。
薬では治らないのです。
阿闍世を救うのは母である韋提希ではなかったのです。
人を救うのは人ではなく、ましてや薬でもない。我々は真理の法(仏法)のよってしか救われません。それは親子であっても例外ではありません。
『我が子を救いたい』というのは親としては当然の感情ですが、その「当然ぶり」ゆえに迷いを生みます。親子ほど強烈な迷いは無い、とも言えます。
「救いたい」という想いから「ともに救われたい」という想いへの『変わりめ』が大切なのではないでしょうか。

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人知は病んでいる 【小林 智光】

こんにちは。
ひさびさにコラムを書かせて頂きます。
新潟では冬も深まり、 ウチのお寺もやっとこさ雪降ろしです。
お寺は本堂から庫裡から広いので、業者さんにお願いして雪を降ろしてもらっています。
年末に一部、「離れ」の雪を下したのですが、今年の雪は重たい
重たい。
下の方はシャーベット状になっていてガチガチです。
おかげで私の腰も疲労でガチガチ…(^_^;)
さて、今日は「三帰依文」について書こうと思います。
浄土真宗の、特に大谷派のでは法話の前にこの「三帰依文」というのがよく読まれます。
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人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、
いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの
生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、
至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。

この真ん中の三行、「自ら~」の部分は全員で読み、冒頭と最後の方は講師の方が読まれます。
最初、私はこの「人身受け難し」というところを『なかなか人間には生まれないんだから、人間に生まれて良かったね。牛や豚、犬や猫に生まれたら仏法を聴けないからね』

というふうに解釈していました。

しかし、それは大きな間違いではないかと、ふと思いました。

【人知は病んでいる】というお話を聴いたことがあります。

「人知」というのは人間の知識、智恵です。つまり「人間の考えが及ぶところ」です。

この人間の知識や知恵というのは「病んでいる」、つまり健全ではないということなのです。

「病む」という字には「ヤマイダレ」という部首があります。「丙」の上のやつですね。

「知」という字にこの「ヤマイダレ」をかぶせたらどうなるでしょう。

『痴』という字になります。そうです。[愚痴]の「痴」です。

[愚痴]とは「モノの道理が分かっていない、正しいことが分かっていない」という意味で、仏教でいう所の三毒(さんどく)の一つです。

三毒とは「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つを表し、人間のもっとも解決すべき煩悩として仏教では説かれています。

私達は何かを「したい」と欲し(貪欲)、思い通りにならないと怒り(瞋恚)、うまくいかないものだから結局また同じことばかり繰り返す(愚痴)。

このスパイラルというか連鎖を堂々巡りしながら人生を送っています。このことを「空過」(くうか)といいます。

どうやったら「空しく過ぎ」ない人生になるか?が仏教、そして浄土真宗においても根本命題ですね。

話を戻しますが、私は「人身~」を上記のように解釈していました。

でもそれって、「牛や豚、犬や猫には仏法が届かない。人間こそ仏法が聴けるのだ」と思い上がっていただけなのです。

仏様の慈悲と智慧はそんなケチなもんだろうか、いや、そんなはずがない。生きとし生けるあらゆるものに届いてこそ仏法じゃないのか?

最近はそんな風に思っています。

聴聞してたって「俺は聴いてるぞ」みたいな顔ではそもそも聴けていないのかも。

逆に居眠りばかりしてたって、仏法聴聞の場に脚を運び、その身を投じていくほうがホントの意味での聴聞なのかもしれません、

極端ですが、ネコや蠅がお御堂をウロウロしているのも聴聞と言えるのかもしれません。

高僧和讃に

曠劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

とあります。

親鸞聖人は法然上人に出遇っていなければ「空しく過ぎ」る人生だったと言われています。

もかしたら人でなくても、動物でも虫でも石ころでも「お師匠さん」になりうるのかもしれません。

「そういう自覚を持ちにくい人間なんだぞ」 「知識や知恵がある人間てのはやっかいな生き物だぞ」

と三帰依文は私達に教えて下さっているような気がします。

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真っ暗闇でシアワセ 【小林 智光】

こんにちは。この原稿を書いているのは12月の初頭。初雪が降るか降らないかのまさに「冬本番」です。
毎日色々なことがありますが、私たちの人生ってどちらかというと「嫌なこと」や「辛いこと」のほうが多くないですか??
かくいう私も、生まれ育った土地で過ごし、お坊さんとして生活していると良いこともありますが、やはり「嫌なこと」や「辛いこと」も
たくさんあります。

例えば人間関係。田舎で過ごしているとどうしてもお会いする方は限られてきますし、自宅=職場ですので、家族とも長い時間を共にしています。

皆仲良くニコニコ暮らしていければいいのですが、そこは煩悩丸出しの凡夫。やはりケンカしたりうまく噛み合わなかったり。

他にも息子の将来のこと、健康のこと、これからのお寺の事…
悩みのタネは360℃、どこにでも転がっています。
私達はつらい事や悲しい事があってくじけそうになると、「目の前が真っ暗」になります。そしてそれが長引くと、ずーーっと真っ暗闇。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
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中国の曇鸞大師がこんな例え話を説かれています。
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、
 すなはち明朗なるがごとし。
 闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
 (教行信証・信巻)
–現代語訳–
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるの です。
このお話を聞くと、「一筋の光で目の前がバーッと明るくなった」というイメージになります。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
「一筋の光でバーッと明るくなったとかいう話ではなく、これは光が差し込んだことによって『あぁ、自分は闇の中にいたのだなぁ』と気づかされたという
意味ではないですか?」
なるほど。
確かに千年もの間、真っ暗だった部屋がイッペンポンで明るくなるというのも中々解せない。
それよりも、「そうか、今まで自分は暗闇にいたのか」と気づく方が何だか大切なことを教わっているような気がするのは私だけでしょうか?
そもそも生まれてから死ぬまで暗闇にいたのなら、光を知らないまま一生を終えることになる。
空しく一生を終えることとなる。
別にバーッと明るくなる必要もない。よーく目を凝らしていけば暗闇にも慣れてくるし、その部屋が狭いのか広いのかもよくわかる。

私達は「救われた」というのをどことなく「バーッと目の前が開ける」ようなイメージを持ってはいないでしょうか。

少し乱暴な言い方ですが、どんなに尊い教えを聴いたって自分の悩みは解決しません。暗闇は暗闇のまんま。
だけど、「真っ暗闇でシアワセ」な生き方、暗闇と仲良く付き合っていけそうな生き方が見つかれば、それはそれで「救われた」と感じられないでしょうか。
『はい、僕は悩みで目の前が真っ暗です。これからもそうでしょう。でもナンマンダブツで平気です。』
そんな生き方が出来たら素晴らしいなぁと思うのですが、如何でしょうか??
(ある意味、ただの「開き直り」とも言えますが…(^_^;))

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「あとつぎ」と呼ばれて 【小林 智光】

-火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに
 ただ念仏のみぞまことにておわします-
(歎異抄)
私、小林はお寺生まれのお寺育ち。
姉と妹に挟まれた「真ん中長男」でしたから、生まれた時点で
『跡継ぎ確定』
として育てられました。
小さい頃から
「あなたはお寺の跡取りなんだから」
と周囲から色々と手をかけてもらい、お育て頂きました。
しかし反抗期が長く、京都の大谷大学を卒業した後も大学院に進んだり就職したり。
とにかく「いかにしてお寺に帰らないで済むか」の作戦をあれこれと練ってばかりの不届き長男でした。
しかし結婚を機に自坊に帰ることになり、法務の日々を過ごしておりました。
そんなある年の秋のこと。
とてもご縁の深いご門徒さんが亡くなりました。
とても明るい方で、私はもちろん、ご近所からも愛される声の大きなバアちゃんでした。
息子さんからご連絡を頂いた時、ホントに「えええっ!」っと声が出ました。
そして枕経を勤める為にご遺体に向かい、お顔の白布を取った途端涙がポロポロとこぼれました。
今にも例のデカい声で喋り出しそうなお顔。笑うと下がる目尻…
昔から可愛がってもらい、私も「智ちゃん、智ちゃん」と言って可愛がってくれたこのバアちゃん…。
言葉が出ませんでした。
お勤めをしようと思ったのですが、声がつまってお勤めになりません。
お通夜の席でも法話で何をお話したら良いのか、言葉が出てこないのです。
何だか「命は尊いものです」みたいな当たり障りのないお話しかできませんでした。
そして不思議なことに、お念佛が出てこないのです。
いつもなら「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と口から出てくるのに、この時ばかりは一向にお念佛が出てこない。
何だか自分のお念佛が「嘘っぱち」に思えてしまったのです。 「アンタのお念佛は本物か?」と故人が声なき声で語りかけてくるような気がしたのです。
いや、お念佛は「嘘っぱち」ではありません。歎異抄にもあるように、『ただ念仏のみぞまこと』であって、「私」自体が「嘘っぱち」なのです。
いや、でもそれなら「嘘っぱち」の自分から出てくるお念佛は本物なのかどうなのか…
とにかく頭がグルグルグルグル。
お通夜も葬儀も何とか勤めました。
そして全てのお勤めが終わった時にあるご門徒さんが声をかけて下さいました。
「悲しいけど、○○さん、アンタにお経読んでもらってとても喜んでると思うよ。私の時も頼むわぁ」
と言って下さいました。
10474547_683688638353346_389574804_n時々、お寺の世襲に関して批判的なご意見を頂くことがあります。
「お寺の人間でないからわかる視点もあるのだ」
「生え抜きだとお寺があることが当然に感じられて変えていくという意識が云々」
私は上記の一件があってからというもの、自分のような坊さんでも喜んで下さる方がいることに、大変有難さを
感じるようになりました。お寺生まれのお寺育ちだから「お寺ありき」の発想しかできないかもしれない。
色々な社会事情の中でお寺は窮地に立たされ続けるかもしれない。
それでも「やっぱ自分の菩提寺さんにお経読んでもらうのが一番うれしいわぁ」というご門徒さんがいるのなら、苦しい時は苦しいまま、
辛い時はつらいまんま、手を合わさせてもらおう。
それと、ふと思いました。
自分が逆の立場だったらどうなんだろう。
見知らぬ「おエライ様」の電報より、よく知った人の「ナンマンダブツ」が嬉しい。
美しいセレモニーの祭壇より、近所で採れる季節のお花が嬉しい。
(…世襲もいい面があるんじゃね??)
そんなおセンチなことを考えていた、世襲坊主のひとり言でした。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏

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きかんしゃトーマスと極楽浄土 【小林智光】

私には1歳7ヶ月になる息子がいます。
この息子が『きかんしゃトーマス』が大好きで、よく観ています。
そして一緒になって観ているうちに親である私もすっかりハマってしまいました。

thomasこのアニメには色々な機関車がキャラクターとして出てきます。
パワフルな機関車、スピードの出る機関車、小回りのきく機関車、美しい機関車…
それぞれに性格があるのですが、時には「無いものねだり」をする機関車がいます。
小さな機関車が重い貨物を引っ張ってみたり、大きな機関車が無理やり狭い小路に入ってみたり…
それぞれの機関車は自分に無い能力を憂い、他の機関車のマネをしようとします。
しかし結局は失敗に終わり、周囲の困った顔や助言で「自分は自分のままで大切な役割のある機関車なんだ!」と
気づいていきます。

『佛説阿弥陀経』には


しょうしきしょうこう
青色青光
おうしきおうこう
黄色黄光
しゃくしきしゃっこう
赤色赤光
びゃくしきびゃっこう
白色白光

という一文があります。
自分は自分のままの色で輝く。他の色になる必要はないのです。浄土とはそういう「そのまま」の世界です。
南無阿弥陀仏の み教えは、何か形が変わったりどこかの世界に行ったりするようなものではありません。

死んで助かる教えでなく
生きてはたらくこの世から

今、まさにこの瞬間から「あなたのまま」と信じて両の手を合わせてまいりましょう。

南無阿弥陀仏

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