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「お坊さん便」と信用 【小林 智光】

14012250_1079810748741131_255445557_n.png昨年12月にAmazonでサービスの始まった『お坊さん便』。

もう、この話題については色々な方が言及しておられるので、私なぞが出る幕でもないのですが、少し雑記的に書いてみます。

※参照までに→「お坊さん便とは?」

以前から僧侶派遣をされている「みんれび」という会社が始めたサービスです。
これに関して、全日仏が抗議を出したり、お寺さん側から色々な意見が出たり。

そんな中で、僧侶派遣の仕事をされたことのある瓜生さんという方がこんな記事を書いておられます。

浄土真宗の法話案内・リレーコラム「新たな搾取の構造」

確かに価格の不明瞭なお布施というものに対して定額をハッキリと明示したのは頼む側である喪主・施主にとっては望ましいことでしょう。何をどうすれば良いかがすぐわかるのですから。いわゆる「ユーザビリティーの向上」というやつですかね。

少し話は逸れますが、私は以前呉服業界にいました。着物の問屋で営業マンをしていました。
問屋というのは「中間業者」です。モノの流通を川になぞらえて「川中」ともいいます。
それに対して町の呉服屋さんを「川下」といいます。皆様の地元にも「○○呉服店」という着物屋さんは一つはおありかと思います。
そして製造元やメーカーを「川上」といいます。
分かりやすく言えば着物という「モノ」が流通という川をメーカー→問屋→地方の呉服店と流れて皆様のもとに辿り着きます。
当然、中間業者があればマージンは積まれていくので、価格は高くなっていきます。
オフレコですが(書いている以上オフレコでもないのですが…)、私の勤めていた当時は呉服屋さんの価格は製造原価の10倍ともいわれていました。分かりやすく言えば10000円のものが100,000円で販売されているのです。
そんな状況からか、中間をすっ飛ばして消費者に直接販売する問屋やメーカーもありました。
しかし世の中そんなに甘くはありません。販売するには様々な広報費や人件費がかかります。販売した後のアフターフォローもしなければなりません。安く売って利益は上げたものの、アフターフォローが後手後手になり、倒産していった会社もありました。
最終的に消費者が信用したのは「町の着物屋さんの女将」でした。そして着物屋の女将は問屋の担当「○○君」を信用して注文をしてくれます。問屋の○○君は 時々呑み相手にもなるメーカーのオッちゃんにいつも無理を聞いてもらって助けてもらってます。メーカーのおっちゃんは職人に納期を急かしてばかりですが、 職人とは祖父の代からの付き合いです。
こうして流通というものは出来上がっていきました。
つまり高い価格は「儲け」ではなく「信用」という付加価値がついているのです。それが流通の論理です。
必ずしも全ての業者がそうでもありません。中には儲けたい一心で値段を跳ね上げる業者も当然います。
しかし、新参者や勇み足の経営陣がその流通の論理をすっ飛ばして走ると痛い目を見ました。そういう業者をいくつも見てきました。

話を戻せば、今回の僧侶派遣はどうでしょう。もし地域に根差して何代も僧侶派遣を営み、休日深夜でも喜んで対応してきた業者さんならいうまでもありません。まさに社会から求めに応じていると言えるでしょう。
問屋では新規の取引先に関しては必ず信用調査会社から審査してもらいます。そしてその審査ををもとに「与信管理」を設け、取引金額の安全危険のボーダーラ インを慎重に引きます。ちなみにこの信用調査会社の社長さんとは平素もチョコチョコお会いして相談したり会社を見てもらったりしています。年間契約料もお 支払いしているので、コストもかかっています。
一方で僧侶派遣の登録はどうでしょう。大抵はネットで必要項目を入力して送信ボタンをポチっで終わりではないでしょうか。管理コストはどれほどかかっているのでしょう。

私は僧侶です。ですからこういうことを書くと「坊主が保身で書いている」と思われるかもしれません。
確かに保身の面もあります。しかし、大小様々ありますが、何代も続いて「村のお寺」を護持しているところは相当の人的・物的コストがかかっています(コストというと語弊はありますが)。

行事の度にお斎のご飯を盛ってくれるおバアちゃん。合間を見て草取りや木の伐採をしてくれる近所のジイちゃん。農地解放の時に「国に取られるなら、いっその事お寺に」といって土地や資産を寄進してくださった奇特な方。
そういう目に見えない人的・物的コストは「懇志」(こんし)と呼ばれ、大事にされてきました。

そしてこのサービスを使われる方が支払ったお金は、瓜生さんも上記のコラムで書かれているように、

>コツコツと本堂を修繕したり、法話会を開いて仏教を伝えたり、子ども会を開いて仏様の心を伝えたりといった、全国のお寺が地道に進めている活動には一円も使われることはありません。

です。
このサービスが広まって窮地に立たされるのは「檀家制度に胡坐をかいた生臭坊主」よりも、むしろ「村人に好かれる住職さん」ではないかと私は思うのです。

僧侶派遣の必要性は私も感じています。なので頭から否定というわけではありません。
ではどうすれば良いか。

宗派が同様の事業を始めるのも一つの手かもしれません。
しかしそれにはそれ相応の時間と手間がかかります。
教区レベルでは教区会、企画委員会、教化委員会、組会。本山レベルでは宗議会や参議会、様々な委員会(すいません、本山関係は詳しくないので…)。
もしくは有志でやるか。
しかし、これには基本となる企業体や法人格が無いので難しいかもしれません。
いずれにせよ、安易にサービスを始めて飛びつくよりも、長い歴史の中で培ってきた信用に敬意を払いつつ、「ゼロベース」で発想していく必要があるのかもしれません。
厳しい時代に、ただただ襟を正していこうと思うばかりです。

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花粉症と阿弥陀様 【平野 正信】

僕のつれあいは花粉症です。
花粉がいよいよ飛び出した時期には、毎年花粉メガネに花粉カットマスクという完全防備の姿になります。

先日、今年もその時期が来たかとつれあいは準備していたメガネとマスクを装着したのですが、まだ一歳に満たない息子は母親のその姿が、かなり恐ろしかったらしく、母の姿を見るなり大泣きしてしまったのです。
普段は母親べったりで、あまり僕にすがりつくようなことは無いのですが、その時ばかりは完全防備お母さんから逃げ惑い、恐怖の表情でもって僕にすがりついて来たのでした。

すると、息子が泣きながら逃げていくというのがショックだったのか、つれあいまでポロポロと涙を流し出したのです。
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僕はというと、一人でその状況が面白くなってしまい、二人が泣いているのを見ながら一人で大笑いしていました。(ひどい男です)

そして、騒動が終った後、つれあいに
「あっくん(息子の呼び名です)に逃げられたのがそんなに泣くほどにショックやったん?」
と聞くと
「それもあるけど『目の前のお母さんが急にいなくなってしまった』っていうあっくんの気持ちを思うと泣けてきたんだよ。」
と答えてくれました。

これは僕にしたら想定外の答えでした。
僕はてっきり「息子に嫌われたから泣いた」と思っていたのです。しかし、それだけでなく「息子に共感してしまって泣いてしまった」のでした。

「お母さんはずっとココにいるのに
『お母さんがいなくなった!こわいよー!』
と不安になって泣いている。
お母さんはココにいるよー
気付いてよー
大丈夫だよー」
という気持ちで泣いたのだそうです。

この気持ちって「私がいるからまかせてくれよ」と喚び続けているのに、その声に気付かずに目の前で泣いている衆生を見ている仏様のようじゃないですか。
僕は「二人で泣いてにぎやかで面白いなー」程度に思って一人で楽しんでいたのですが
「なんとまあ、母親というのはそんな気持ちになるものなのか…」
とえらく驚いて、感動したのです。

「親がココに居るのに、居ないと思って苦しんでいる子の気持ちに共感してしまって辛い」という気持ち。僕はそんな気持ちにはなったことが無いけれど、最も身近な母子をご縁にそんな気持ちがあるのだなと聞かせてもらいました。

なるほど、阿弥陀様は悲しんでこられたのだなと思ったのです。
ずっとずっと。南無阿弥陀仏を完成されてからも、ずっと悲しんでこられた。
阿弥陀様を悲しませていたのはだれか?
それは、お慈悲のど真ん中にいるのに、阿弥陀様なんて居ないと泣いていたこの私。

そんな風に聞かせていただけた日でした。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

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自力無功 【吉峯 教範】

もう随分と前になるが、つてがあって東大寺の修二会を特別に参観させていただいた時のことです。

その折にご解説方々ご案内をしてくださった華厳宗の教学部長のSさんのお話が強く印象に残っています。
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「修行楽しいな!修行楽しいな!」とお話の合間合間に楽しそうに言葉を挟みながら、

「私たちが一生かかって積むことができる功徳なんて、薄い薄いそれこそオブラートのような薄っいペラペラの修行しかできないんですよ。
その薄い薄いオブラートを何年もかけて重ねていく。でも、ちっとも厚みなんか出てこない、薄っいままなんです。
で、一生かけてその薄いオブラートを重ねてきて、ようやく薄いナイロン袋ほどの厚みが出てきたな〜と、思った頃にくしゃみのひとつもしますでしょう。
で、どうなるか⁈
今まで積み上げたもんがいっぺんに吹っ飛んでバラバラになって飛んでしまいますわ(笑

いや、バラバラになるくらいならまだええけど、鼻水や唾も一緒に飛んだら、オブラートに穴が空いてしまいまっしゃろ。もう使いもんにはなりません。そやから、また一からオブラートの積み直しですわ」
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「それこそ、私ら十数箇寺の塔頭でこの大きな寺を護持してまっしゃろ。人生の最後に管長の椅子なんかを巡って争いでもしてみなされ。やっと積み上げたナイロン袋の上に土砂降りの雨が降りそそいで、もう跡も残らんほどぐちゃぐちゃですわ。
それが、人間というもの。その度にまた、一からオブラートを積み重ねていく。
これが修行というものですわ〜(^^)」
「あ〜、修行楽しいな!修行楽しいな!・・・」

自力無功と知りつつ、なお修行を続けながら道を歩んでいく。
あー、なるほど、これが聖者の方々が歩んでいかれる難行道(行き難き道)なのだと、お気付かさせをいただいたことです。

親鸞聖人は、華厳の教えは実の大乗(必ず仏果〔さとり〕に至ることのできる真実の大乗仏教)の教えだと位置付けられておられます。
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天台や華厳は、実の大乗。
しかし、根気も智慧もなく、積み上げても積み上げても厚みが出ない薄いオブラートを黙って積み続けることができない愚かな凡夫。結果や成果が見えなければ何もできない、一度や二度失敗すればたちまちに意欲を失って、道を歩むことのできない愚かな身には、行じ難く、行き難い。

そこに、この低下の悪凡夫の為に説き示されたのが他力の易行道。
その易行道の中の真実の大乗を親鸞聖人は、「真宗」とお呼びになられたのだなと。

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人知は病んでいる 【小林 智光】

こんにちは。
ひさびさにコラムを書かせて頂きます。
新潟では冬も深まり、 ウチのお寺もやっとこさ雪降ろしです。
お寺は本堂から庫裡から広いので、業者さんにお願いして雪を降ろしてもらっています。
年末に一部、「離れ」の雪を下したのですが、今年の雪は重たい
重たい。
下の方はシャーベット状になっていてガチガチです。
おかげで私の腰も疲労でガチガチ…(^_^;)
さて、今日は「三帰依文」について書こうと思います。
浄土真宗の、特に大谷派のでは法話の前にこの「三帰依文」というのがよく読まれます。
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人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、
いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの
生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、
至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。

この真ん中の三行、「自ら~」の部分は全員で読み、冒頭と最後の方は講師の方が読まれます。
最初、私はこの「人身受け難し」というところを『なかなか人間には生まれないんだから、人間に生まれて良かったね。牛や豚、犬や猫に生まれたら仏法を聴けないからね』

というふうに解釈していました。

しかし、それは大きな間違いではないかと、ふと思いました。

【人知は病んでいる】というお話を聴いたことがあります。

「人知」というのは人間の知識、智恵です。つまり「人間の考えが及ぶところ」です。

この人間の知識や知恵というのは「病んでいる」、つまり健全ではないということなのです。

「病む」という字には「ヤマイダレ」という部首があります。「丙」の上のやつですね。

「知」という字にこの「ヤマイダレ」をかぶせたらどうなるでしょう。

『痴』という字になります。そうです。[愚痴]の「痴」です。

[愚痴]とは「モノの道理が分かっていない、正しいことが分かっていない」という意味で、仏教でいう所の三毒(さんどく)の一つです。

三毒とは「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つを表し、人間のもっとも解決すべき煩悩として仏教では説かれています。

私達は何かを「したい」と欲し(貪欲)、思い通りにならないと怒り(瞋恚)、うまくいかないものだから結局また同じことばかり繰り返す(愚痴)。

このスパイラルというか連鎖を堂々巡りしながら人生を送っています。このことを「空過」(くうか)といいます。

どうやったら「空しく過ぎ」ない人生になるか?が仏教、そして浄土真宗においても根本命題ですね。

話を戻しますが、私は「人身~」を上記のように解釈していました。

でもそれって、「牛や豚、犬や猫には仏法が届かない。人間こそ仏法が聴けるのだ」と思い上がっていただけなのです。

仏様の慈悲と智慧はそんなケチなもんだろうか、いや、そんなはずがない。生きとし生けるあらゆるものに届いてこそ仏法じゃないのか?

最近はそんな風に思っています。

聴聞してたって「俺は聴いてるぞ」みたいな顔ではそもそも聴けていないのかも。

逆に居眠りばかりしてたって、仏法聴聞の場に脚を運び、その身を投じていくほうがホントの意味での聴聞なのかもしれません、

極端ですが、ネコや蠅がお御堂をウロウロしているのも聴聞と言えるのかもしれません。

高僧和讃に

曠劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

とあります。

親鸞聖人は法然上人に出遇っていなければ「空しく過ぎ」る人生だったと言われています。

もかしたら人でなくても、動物でも虫でも石ころでも「お師匠さん」になりうるのかもしれません。

「そういう自覚を持ちにくい人間なんだぞ」 「知識や知恵がある人間てのはやっかいな生き物だぞ」

と三帰依文は私達に教えて下さっているような気がします。

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「門徒もの知らず」という生き方 【西光 義秀】

浄土真宗の信者は「門徒」と呼ばれます。その門徒のことを揶揄して、「門徒もの知らず」といわれることがあります。浄土真宗の信者は、世間の常識を知らないという意味として使われています。
たとえば、結婚式は大安の日を選んだり、葬儀を友引の日には出さないという六曜による日の良し悪しを問いません。方角や、名前の画数などにも無頓着です。おもしろいのは、葬儀後の四十九日が三ヶ月にまたがるってはいけないのは、、「始終苦(四十九)」が「身につく(三月)」からという語呂合わせによるのですが、けっこう真剣に考えている人が多くいるようです。しかし門徒は一笑にふしてしまいます。
それは浄土真宗が仏法の王道を歩んでいることの証です。仏教は、社会をよりよく生きる方法を教えてくれるのではありません。社会をよりよく生きるというのは、わが煩悩を満たしている状態ですから、それも迷いであると教えています。仏法が目指すところは、迷いの生き方から「めざめる」ことです。「門徒もの知らず」というのは、その迷いを教えによって払拭した生き方を示しているのです。
仏法によるめざめや、仏法によって育てられることを見失ってしまったとき、世間の常識が優先する生き方にならざるをえません。「門徒もの知らず」というのは、世間の常識を身に付けて生きる生き方ではなく、仏の教えを中心にするという生き方や価値観を身に付けてきたということなのです。ですから、世間の常識があって、その上に真宗の価値観を教え込むから形だけ、知識だけの身に添わない教えに終わってしまうのです。
浄土真宗も仏教である限り、「出世間」の法であることを心得なければなりません。しかし私の身がこの娑婆にある限り世間との関わりを断つことはできません。断つことができない世間との関わりが絶たれていく、破られてゆくことに気づかせてもらうのが仏法を聞くということなのです。

【執筆者はこちら】

「浄土真宗で良かった!と思ったこと。」 【朝戸 臣統】

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新しいリレーコラムの更新を楽しみにしておられる貴方へ。
更新が滞っておりますこと、まことに深くお詫び申し上げます。

そこで、ちょっと新しい形で、コラムを公開したいと思います。

「お題」を提示しますので、皆さんのコメントをどんどん挙げていただきたいのです!
つまり、読者参加型のリレーコラムにしてみたいと思います。

第1回目のお題は、「浄土真宗で良かった!と思ったこと。」
それぞれの想いを、コメントとして綴って下さい。
他の方の想いに「そうそう!」と反応していただくのもアリです。
皆さんのコメントをお待ちしております。

※誹謗中傷など、不適切なコメントについては、管理人権限で削除する場合がありますので、あらかじめご了承下さい。皆さんの「大人」なご対応をよろしくお願いします。<(_ _)>

【執筆者はこちら】

煩悩の酒に酔いて 【高蔵 大樹】



さてさて、、私は今、勤式という所で儀礼に関する事を学んでおります。なんとも有り難い雰囲気の声明や、自然と背筋がピンとしてしまうような、そんな儀礼の役割だとかについて学ばせて頂いているのですが。その辺の話はまたいつか。

いや、実は私は、元々バンドマンでして。大学の時、軽音楽部に所属していたんです。しかも、今学ばせて頂いている、仏様から賜る背筋が自然とピンと伸びる有り難い儀礼空間。とはあまりにもかけ離れている、ハードコアといわれる音楽のジャンルでボーカルをしてました。

ハードコアのライヴは凄惨です。

地下深く、暗く、、集った人々がその狭いなかで体をぶつけ合い、鬼のように拳を振り回し、飛んだり跳ねたり暴力的に奇声をあげる。(ヴォーカルだったので奇声をあげる側でした)阿鼻叫喚まさに地獄絵図。

そんな場所で日頃の鬱憤を爆発させてました。あぁ、そろそろライヴしたいなぁ、、笑
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文化の歴史というのは娯楽の歴史であったりもするのかもしれませんが、今でもライヴハウスやクラヴ、居酒屋など、そういう所に行くのは嫌いではありません。もう一度言います。嫌いではありません。笑

そういった場所にはだいたい決まってこのような貼り紙があったりします。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

ハメをはずしすぎて、なにかトラブルに巻き込まれたとしてもそれはあなたのせいですよ。そんな意味だと思います。

そういった場所では恐ろしいトラブルに巻き込まれてしまう事も、ニュースをみてると、あるみたいです。

 

さて、仏教では私の中にあるトラブルの種の事を煩悩と呼んでいます。

煩悩の数、諸説ありますが、その中の代表的な三つの煩悩の、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)をまとめて、三毒の煩悩と呼んでいます。

貪欲(とんよく)とは、貪りの心です。あれがほしい。これもほしい。もっとほしい。もっともっとほしい。

瞋恚(しんに)とは怒りの心です。なんで俺だけ。腹立つわー。きにいらん。このやろう。

愚痴(ぐち)とは自分の都合に囚われて真実を見ようとしない心です。

困ったことに煩悩の三毒はとても美味しく、迷いの私にとって、これらを完全に断つ事はかなり、難しいです。

10836480_729122890507510_1656777299_nさらに水のようにぐびぐび飲めるのでそれが毒である事は、なかなか、なかなか、きづけません。

わしゃダイジョブよ、これは毒でしょ、分かっとんじゃけ、大丈夫。自覚しとんじゃけ大丈夫。もういっぱいだけなら大丈夫。ほら大丈夫じゃった。まだ飲んでも大丈夫なんじゃけ。

そんな風に、いつのまにやらグビグビのんで失敗。気づけば欲に溺れて溺れて、トラブルに、、

薬があるからといって毒を進んで飲むような事はしなさんなよ。と、昔からたしなめられておる事ではございますが、

あぁ、、あぁ。なんてこった。こんなはずじゃ。なんて事にも。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

阿弥陀仏という仏様は、ほっとけば地獄行きまちがい無しのこの私に、この張り紙のように「あなたのせいよ。わしゃしらん。勝手につぶれなさい。」なんてそんな仏様ではありません。

地獄に惹かれてしまうこの私の弱さ、不完全さに気づいているからこそ、

我が名を呼ぶ者を必ず浄土に生まれさせ、煩悩から離れた悟りの世界に導くぞ。それができぬなら私は仏にならないぞ。と

私の弱さ醜さを一身に背負い、手を変え、品を変え、お念仏となって、足元おぼつかない私をトラブルのない浄土にわたすぞ、と、はたらきつづけてくださっています。

元来またやってしまった。なんて事すら思えぬ私ですし、毒と薬の区別もつかぬ私ですし、わかっちゃいるけど止められない、そんなスーダラな私です。

そんな私が、迷いや過ちに気づかせて貰う時。そこには私を必ず救うぞ。という仏様の願いの光が絶えず照してくださっておったのでした。これからもお酒片手の迷いの私と共に歩んでくださるのでした。

南無阿弥陀仏。

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真っ暗闇でシアワセ 【小林 智光】

こんにちは。この原稿を書いているのは12月の初頭。初雪が降るか降らないかのまさに「冬本番」です。
毎日色々なことがありますが、私たちの人生ってどちらかというと「嫌なこと」や「辛いこと」のほうが多くないですか??
かくいう私も、生まれ育った土地で過ごし、お坊さんとして生活していると良いこともありますが、やはり「嫌なこと」や「辛いこと」も
たくさんあります。

例えば人間関係。田舎で過ごしているとどうしてもお会いする方は限られてきますし、自宅=職場ですので、家族とも長い時間を共にしています。

皆仲良くニコニコ暮らしていければいいのですが、そこは煩悩丸出しの凡夫。やはりケンカしたりうまく噛み合わなかったり。

他にも息子の将来のこと、健康のこと、これからのお寺の事…
悩みのタネは360℃、どこにでも転がっています。
私達はつらい事や悲しい事があってくじけそうになると、「目の前が真っ暗」になります。そしてそれが長引くと、ずーーっと真っ暗闇。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
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中国の曇鸞大師がこんな例え話を説かれています。
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、
 すなはち明朗なるがごとし。
 闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
 (教行信証・信巻)
–現代語訳–
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるの です。
このお話を聞くと、「一筋の光で目の前がバーッと明るくなった」というイメージになります。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
「一筋の光でバーッと明るくなったとかいう話ではなく、これは光が差し込んだことによって『あぁ、自分は闇の中にいたのだなぁ』と気づかされたという
意味ではないですか?」
なるほど。
確かに千年もの間、真っ暗だった部屋がイッペンポンで明るくなるというのも中々解せない。
それよりも、「そうか、今まで自分は暗闇にいたのか」と気づく方が何だか大切なことを教わっているような気がするのは私だけでしょうか?
そもそも生まれてから死ぬまで暗闇にいたのなら、光を知らないまま一生を終えることになる。
空しく一生を終えることとなる。
別にバーッと明るくなる必要もない。よーく目を凝らしていけば暗闇にも慣れてくるし、その部屋が狭いのか広いのかもよくわかる。

私達は「救われた」というのをどことなく「バーッと目の前が開ける」ようなイメージを持ってはいないでしょうか。

少し乱暴な言い方ですが、どんなに尊い教えを聴いたって自分の悩みは解決しません。暗闇は暗闇のまんま。
だけど、「真っ暗闇でシアワセ」な生き方、暗闇と仲良く付き合っていけそうな生き方が見つかれば、それはそれで「救われた」と感じられないでしょうか。
『はい、僕は悩みで目の前が真っ暗です。これからもそうでしょう。でもナンマンダブツで平気です。』
そんな生き方が出来たら素晴らしいなぁと思うのですが、如何でしょうか??
(ある意味、ただの「開き直り」とも言えますが…(^_^;))

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人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し 今すでに聞く 【朝戸 臣統】

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三帰依文といわれる文章の言葉で、地元の仏教会がポスターを作成しました。

今ここで、リレーコラムご覧になって、この言葉にフッと目がとまったあなたへ。
何か引っかかりましたか? 何か心に残りましたか?
もしかしたら、内側に抱え込んでいる漠然とした問題意識がわき上がってきた方もあるかも知れません。
忙しい日々の日常の中で、当たり前と思っていたことが当たり前でなくなることを、「有ること難し」といいます。そうです、それが「ありがたい」ということなのです。
なぜ自分が人間としていのちをいただいたのか。なぜ自分がこのコラムで仏法の言葉にであえたのか。全ては、私たちの常識を越えた、ありがたいご縁に依るのです。
仏教は特別な教えではありません。お念仏も特殊な教えではありません。一緒にお参りしましょう。ご法話をお聴聞しましょう。受け難い人間のいのちを授かり、聞き難い仏法を聞かせていただけるのは、他でもない、私自身なのですから。

観覧車 【山岸 幸夫】

息子がまだ小学校に上がったばかりの頃、家族4人で初めて遠くの遊園地に行きました。
よほど嬉しかったのでしょう、入場ゲートを通ったかと思うと、「わーい」と歓声をあげて行ってしまいました。
放送してもらっても見つかりません。お母さんはおろおろするばかり、「事故にあったのではないか、誘拐されたのではないか、警察に連絡して捜索してほしい。」とまで言い出す始末。
涙の再会を果たしたのはそれから2時間も経ってのことでした。

こうして半日が過ぎたあと、レストランでお昼ごはんを食べて、僕はなにか乗り物にでも乗ってみようかなと思っていると、息子はお母さんの手をひっぱります。

池の近くで手をたたけば、鯉やアヒルが寄ってきますし、その次は噴水だったり、花壇だったり、お菓子の試食だったり。
こちらは肝をつぶす思いで待っていたのに、そのあいだ息子は、このひろい遊園地の中を家族がむやみやたらと歩き回ることなく、エッセンスを楽しんでもらおうと、先発隊員としての使命を果たして、家族を案内してくれているわけです。
私は思わずげんこつを食らわしてやりたい気持ちをぐっと我慢して、後をついていきました。

10728862_652180871554577_1131384094_n家族に一通り遊園地の案内をして得意満面の息子を前にして、お母さんがいいました。「お母さん、あれにに乗りたいな、やっくん(息子の名前)あそこまで、お母さんを連れて行ってほしいな。」お母さんが指さしたその先には観覧車が小さく見えていました。「やっくん、お母さんを観覧車まで連れてってくれる?」

「うんわかった。」また得意な顔をして息子はお母さんの手をひっぱります。
歩いてみると広い遊園地で、ときおり立ち止まってはちょっとづつ大きくなっていく観覧車を見上げながら、「お母さんもう少しだからね、がんばって。」そう言って息子はお母さんの手をひっぱります。

こんな時の息子を見ていると、頼もしくもあれば滑稽でもあります。息子はついさっきまで、はしゃぎすぎて疲れていて、ホントはもう歩きたくないのだけれど、お母さんを観覧車まで案内するという使命をもっていますから、へこたれるわけにいかないのです。もしここでへこたれてしまって、「じゃあお父さんとお母さんとお姉ちゃんの3人で観覧車に乗ってくるから、やっくんはここで待っててね。」そういわれてしまってはそれこそ実もふたもありません。「お母さんがんばって」というかけ声は、おかあさんに向けられていますが、その実自分を励ましているのです。
やっとの思いでそこについたときは4人とも汗をかいてハアハアと息をしていました。

観覧車に乗って(近頃の観覧車はエアコンがついているのですね。涼しくてびっくりです。)高いところに上がっていくと、さっき息子が案内してくれたところが見えてきます。池があったり広場には噴水があってそこで大道芸をしています。お菓子を試食した土産物店もあります。遠くの方からはジェットコースターの轟音と歓声が聞こえてきます。

お母さんはこういいました。「やっくん、こんどお父さんやお母さんがいなくなったら、観覧車の下で待っててね。お父さんもお母さんも観覧車の下で必ず待ってるから、約束できる。」

「うん、わかった。」

この日、息子は自分が迷子になったことすらわからずに一日を過ごしました。それでも、自分がおとぎの国のどこにいても観覧車はちゃんと見えるところにあって、たとえどんなに遠くはなれていても、仰ぎ見ればそこにお父さんとお母さんが必ず待っていてくれることを学んだようです。

【執筆者はこちら】