ながむる人の 心にぞすむ 【平野 正信】

今年はお盆まいりのお手伝いに北海道に10日間ほど行ってまいります。

そんな訳で、その間、つれあいと生後2ヶ月の息子は長野県の実家で過ごすこととなりました。 現在は離れた場所で生活しています。

つれあいの実家は涼しくて空気が綺麗で、自然いっぱいのところです。 家族も優しく面倒見も良いので、安心しています。

しかし、つれあいと息子を長野まで車で送り、その帰り道から既に僕は寂しくてしょうがないのです。 今生の別れでもあるまいに、2週間ほどでまた大阪で一緒に暮らすのだから、そんな大袈裟なことでは無いんですが、既に家族シックにかかっています。

毎日、つれあいが送ってくる動画をスマホで見てはニヤニヤしたり、ホロリとしたりしています。

そんななか、法然聖人の歌った歌を思い出しました。

月影の いたらぬ里は なけれども
ながむる人の 心にぞすむ

という歌です。

私なりに訳しますと
「月の光が照らさない場所はどこにも無いけれど
ああ、月が綺麗だなあ、という気持ちは
月を見上げる人の心にこそある」
このようになるかと思います。

この歌は阿弥陀様のおはたらきを月の光にたとえたものです。

阿弥陀様は無限のひかりの仏様です。 全てを包み込む光の仏。

長野と大阪、長野と北海道は、地理的には遠く離れていますが、ともに阿弥陀様の光の中です。

南無阿弥陀仏のお念仏は、阿弥陀様の光に照らされ、今まさに救われる身となっている私からあふれる、仏様の声、仏様そのものです。
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私と妻子は、離れた場所にいても、阿弥陀様の光でつながっています。

つれあいには、携帯用の小さなご本尊をわたして、毎朝あっくん(息子)と手を合せてください。と言ってあります。

もちろん、お念仏を申したからといって、触れられない寂しさが無くなるわけではありません。息子の重さを感じたいという切なさが消えるわけではありません。 寂しいのは寂しいのです。

しかし、お念仏申す時、その寂しさはただの寂しさではなくなります。 寂しいからこそあふれてくださる南無阿弥陀仏があるなら、寂しさもまたご縁です。寂しさは消えないが、寂しいままにありがたいのです。

私達は少し離れて暮らしています。 でも、一緒にお念仏もうさせてもらう家族です。

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生き物のふしぎ。 【高蔵 大樹】

体調を崩しまして、ぼんやりと部屋でテレビを見ておりますと、テレビで「ウミクワガタ」という生き物が紹介されていました。こんな生き物です。

10524962_650252488394551_1905248324_nどう見てもクワガタですね。男子の憧れです。僕は子どもの時から重厚感のあるTHE横綱、虫キングのカブトムシよりも、どこかスタイリッシュな雰囲気の漂うクールなクワガタ派でした。

不思議な事にこの「ウミクワガタ」はエビやカニの仲間で、森のクワガタ虫とは全く関係ないんです。海と森、住みかも種類も異なる生き物が、似た姿でそれぞれの環境に適応し過ごしている。すごい不思議だなぁ。と。人間もそのうちこのような姿に進化していき、、、なんて考えだしたら「大あご人間」なんてSFホラーが作れますね。

さて、なぜ植物はお腹へらないのか、なぜ魚は溺れないのか、なぜ鳥は電線に止まって感電しないのか、よくよく考えれば疑問はたくさんでわからない事だらけです。

仏教には「一見四水」という有名なたとえ話がありますが。生き物って面白い。

以前「不思議な生き物」という本のなかで、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」という生き物がいるという事を知り衝撃を受けた事があります。

みなさん口にその名を呼んでみてください。せーの、「トゲアリトゲナシトゲトゲ。」

私この名前大好きなんです。どーですか、口の中が気持ちいい感じしませんか?何回も口にしてみたくなりません?トゲアリトゲナシトゲトゲ。

10514870_650254478394352_805739349_nさて、、、で、一つの疑問が浮かびます、

あるの?ないの?

トゲ。

トゲトゲという生物にトゲのない種類のものが見つかり、「トゲナシトゲトゲ」という名がつき、今度はトゲのついた「トゲナシトゲトゲ」が見つかってしまったのでしょうか。
じゃぁ「トゲトゲ」と「トゲアリトゲナシトゲトゲ」の違いは、、、?

興味疑問がつきません。

調べてみると、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」と「トゲトゲ」は明確に違うみたいですが。

そもそも、「トゲトゲ」という名前も人間が勝手に生き物につけた名前です。

「あ、トゲトゲしたのおる!きょうからトゲトゲってよぼう!」
「あ!トゲトゲしてないトゲトゲ君がおる!!今日から君はトゲナシトゲトゲ君だ!」
「あーーーー!トゲトゲしてるトゲナシトゲトゲ君がいるーーーーー!今日から君はトゲアリトゲナシトゲトゲ君だーーーー!」

トゲトゲ君やトゲナシトゲトゲ君やトゲアリトゲナシトゲトゲ君のほうからすれば、

「このでかい奴らは、なーんでトゲトゲトゲトゲ、トゲトゲトゲトゲいうとるんじゃろうか、、、やかましい。変な奴らだなぁ。やかましいから今日からこいつらはトゲトゲ君やな。」なんて思ってるかもしれません。

仏法に伺うと、

あの人にはあれが有る。あの人にはこれが無い。自分にはこれが有る、自分にはこれが無い。

こうやって他や自分をあるなしで分けてみる見方、有無にとらわれる見方というのは実は迷いの見方なんです。

仏様の見方は私のように有る無しにとらわれて隔てる見方でありません。
さて、さて、つまりなにが言いたいかと申しますと、、、

このコラムには丁寧さが無い!格式がない!なんて、、、トゲトゲ言わないでよネ、おあとがよろしいようで。南無阿弥陀仏。

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「当たり前」と「有り難い」 【根来 暁】

先日、睡眠時無呼吸症候群の検査を受けました。結果は最悪で、1時間に約70回以上、無呼吸の状態があったそうです。よく窒息死しなかったものだと思いました。寝ていても酸素不足を体が感じ、脳が常に覚醒していたそうです。ほんとに体は自分の思い通りにならないけど、だから朝を迎えられていたのかもしれません。

同じ出来事、同じ景色をみても、置かれている状況によって感じ方は変わるようです。

以前タレントの木下優樹菜さんが結婚会見をしていたのをテレビで見ました。彼女はディズニーランドでプロポーズを受けたそうです。電車で行ってられたそうで「行きと帰りの電車から見える景色が違って見えました」と語っていました。これは、上りと下りで景色が違うという話しではありません。置かれたいる状況によって、見え方が変わったのでしょう。人は同じ景色を見ても、同じように見ている訳ではないようです。

また、明石家さんまさんは、若いころ桂三枝(現在の桂文枝)さんの運転手をしていたそうです。毎朝迎えにいくと、必ず「昨日なんかおもろいことあったか?」と聞かれたんだそうです。「そのたびに昨日の出来事で面白いことはなかったと思い出していた」とあるテレビの対談番組で話していました。あのころは、いやでいやでたまらなかったけど、それがあったから今でもテレビで話し続けることができていると言っていました。

お笑い芸人はよく面白い話をします。身の回りによくそんな面白いことが起きるなぁと思っていましたが、それだけではないようです。よく聞いてみると、身近におこった何気ない出来事を、おもしろおかしく話しているのです。私には「当たり前」だと思うことが、芸人にとっては「面白い」ことと感じるということでしょう。同じように、好きな人からプロポーズをうけた人は、「当たり前」だと思うことが、全部「幸せ」だと思えるのでしょう。

image「当たり前」の反対の言葉は「有り難い」だと聞いたことがあります。でもそれは、「当たり前」のことと「有り難い」ことがあるのではなく、目の前の出来事を「当たり前」だと思うか、「有り難い」と思うかの違いなのでしょう。

気がつかないところで、忘れているときも、背を向けているときも、私を育て支え続けてくださっていた「法(はたらき)」を聞いていくことによって、「当たり前」だと思っていたことのが、「有り難い」ということだったと気付かされます。自らの思いだけで、回りの景色や出来事を判断していた私が、多くのはたらきの中にあった「いのち」であったと、喚び覚まされていく場がお聴聞だと思います。

検査の直後は有り難いことだと思いましたが、治療を始めた今では、朝を迎えることがだんだん当たり前になっています。「有り難い」と思える気持ちは、なかなか継続できないもののようです。

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浄土真宗とシェイクスピア~No.1~ 【太田 幸典】

信仰は浄土真宗本願寺派などといいつつ、私は親鸞聖人のこと、浄土真宗のことについて知識がない。
よって、山伏弁円による親鸞聖人暗殺未遂事件を知ったのも、つい最近のこと。
この一大事件のことを知ったとき、とっさに思い出したことがある。

10376455_642470589182968_834310646_oそれは、なぜか『ハムレット』の一場面であった。
ハムレットが伯父のクローディアスに対し仇討ちをしようとする「あの場面」なのだ。
ご存じのように、この場面でハムレットは結局、クローディアスを討つことなくストーリーは展開する。このとき、クローディアスはひとり、神に祈りを捧げていた。クローディアスが父親殺しの犯人だと疑ってやまないハムレットにとっては願ってもない場面だ。しかし、祈りを捧げるクローディアスに対しハムレットは、この瞬間に仇討ちをすれば彼が天国へ行ってしまうことをきらい実行にうつすことをためらう。
実際にこの場面を上演する場合、クローディアスの演技が特に難しく鍵となる。国王としてのnobleさ(気高さ)が祈りの姿からにじみでなければ、ハムレットに暗殺をためらわせるには至らない。クローディアスのうしろ姿から神に通じる何かを観るものに感じさせなければならないからである。

話を弁円による親鸞聖人暗殺未遂事件に戻そう。
山伏弁円による親鸞聖人暗殺の場面に関しては史実をまったく知らないので自分なりに想像をしてみるのだが、恐らく、弁円が乗り込んできたとき、親鸞聖人はお念仏を申されていたのではないかと思うのである。
つまり、「南無阿弥陀仏」の六字の結びつきの強さ、親鸞聖人とお念仏の一体感といってよいだろうか、そうしたものに弁円は圧倒されたのではないかと思うのである。厳しい修行を経験した弁円ならではの直観、研ぎ澄まされた感覚によるためらいがあったと想像するのである。親鸞聖人と山伏弁円という一対一の人間同士のぶつかり合いなら暗殺は決行されたのかもしれない。
しかし、親鸞聖人とお念仏となれば、弁円さんにとっては分が悪かったのではないだろうか。
そして、この場面を舞台化するならば、親鸞聖人の演じ方がとても難しいことはいうまでもない。

浄土真宗とキリスト教では、互いに相容れないものがあるのは当然だが、「お念仏」「祈り」というひとつの宗教的行為において何らかの共通点を見いだせるのではないかと思ったのだ。

*これはあくまで筆者の個人的見解です。ご注意ください。

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