人知は病んでいる 【小林 智光】

こんにちは。
ひさびさにコラムを書かせて頂きます。
新潟では冬も深まり、 ウチのお寺もやっとこさ雪降ろしです。
お寺は本堂から庫裡から広いので、業者さんにお願いして雪を降ろしてもらっています。
年末に一部、「離れ」の雪を下したのですが、今年の雪は重たい
重たい。
下の方はシャーベット状になっていてガチガチです。
おかげで私の腰も疲労でガチガチ…(^_^;)
さて、今日は「三帰依文」について書こうと思います。
浄土真宗の、特に大谷派のでは法話の前にこの「三帰依文」というのがよく読まれます。
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人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、
いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの
生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、
至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。

この真ん中の三行、「自ら~」の部分は全員で読み、冒頭と最後の方は講師の方が読まれます。
最初、私はこの「人身受け難し」というところを『なかなか人間には生まれないんだから、人間に生まれて良かったね。牛や豚、犬や猫に生まれたら仏法を聴けないからね』

というふうに解釈していました。

しかし、それは大きな間違いではないかと、ふと思いました。

【人知は病んでいる】というお話を聴いたことがあります。

「人知」というのは人間の知識、智恵です。つまり「人間の考えが及ぶところ」です。

この人間の知識や知恵というのは「病んでいる」、つまり健全ではないということなのです。

「病む」という字には「ヤマイダレ」という部首があります。「丙」の上のやつですね。

「知」という字にこの「ヤマイダレ」をかぶせたらどうなるでしょう。

『痴』という字になります。そうです。[愚痴]の「痴」です。

[愚痴]とは「モノの道理が分かっていない、正しいことが分かっていない」という意味で、仏教でいう所の三毒(さんどく)の一つです。

三毒とは「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つを表し、人間のもっとも解決すべき煩悩として仏教では説かれています。

私達は何かを「したい」と欲し(貪欲)、思い通りにならないと怒り(瞋恚)、うまくいかないものだから結局また同じことばかり繰り返す(愚痴)。

このスパイラルというか連鎖を堂々巡りしながら人生を送っています。このことを「空過」(くうか)といいます。

どうやったら「空しく過ぎ」ない人生になるか?が仏教、そして浄土真宗においても根本命題ですね。

話を戻しますが、私は「人身~」を上記のように解釈していました。

でもそれって、「牛や豚、犬や猫には仏法が届かない。人間こそ仏法が聴けるのだ」と思い上がっていただけなのです。

仏様の慈悲と智慧はそんなケチなもんだろうか、いや、そんなはずがない。生きとし生けるあらゆるものに届いてこそ仏法じゃないのか?

最近はそんな風に思っています。

聴聞してたって「俺は聴いてるぞ」みたいな顔ではそもそも聴けていないのかも。

逆に居眠りばかりしてたって、仏法聴聞の場に脚を運び、その身を投じていくほうがホントの意味での聴聞なのかもしれません、

極端ですが、ネコや蠅がお御堂をウロウロしているのも聴聞と言えるのかもしれません。

高僧和讃に

曠劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

とあります。

親鸞聖人は法然上人に出遇っていなければ「空しく過ぎ」る人生だったと言われています。

もかしたら人でなくても、動物でも虫でも石ころでも「お師匠さん」になりうるのかもしれません。

「そういう自覚を持ちにくい人間なんだぞ」 「知識や知恵がある人間てのはやっかいな生き物だぞ」

と三帰依文は私達に教えて下さっているような気がします。

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「門徒もの知らず」という生き方 【西光 義秀】

浄土真宗の信者は「門徒」と呼ばれます。その門徒のことを揶揄して、「門徒もの知らず」といわれることがあります。浄土真宗の信者は、世間の常識を知らないという意味として使われています。
たとえば、結婚式は大安の日を選んだり、葬儀を友引の日には出さないという六曜による日の良し悪しを問いません。方角や、名前の画数などにも無頓着です。おもしろいのは、葬儀後の四十九日が三ヶ月にまたがるってはいけないのは、、「始終苦(四十九)」が「身につく(三月)」からという語呂合わせによるのですが、けっこう真剣に考えている人が多くいるようです。しかし門徒は一笑にふしてしまいます。
それは浄土真宗が仏法の王道を歩んでいることの証です。仏教は、社会をよりよく生きる方法を教えてくれるのではありません。社会をよりよく生きるというのは、わが煩悩を満たしている状態ですから、それも迷いであると教えています。仏法が目指すところは、迷いの生き方から「めざめる」ことです。「門徒もの知らず」というのは、その迷いを教えによって払拭した生き方を示しているのです。
仏法によるめざめや、仏法によって育てられることを見失ってしまったとき、世間の常識が優先する生き方にならざるをえません。「門徒もの知らず」というのは、世間の常識を身に付けて生きる生き方ではなく、仏の教えを中心にするという生き方や価値観を身に付けてきたということなのです。ですから、世間の常識があって、その上に真宗の価値観を教え込むから形だけ、知識だけの身に添わない教えに終わってしまうのです。
浄土真宗も仏教である限り、「出世間」の法であることを心得なければなりません。しかし私の身がこの娑婆にある限り世間との関わりを断つことはできません。断つことができない世間との関わりが絶たれていく、破られてゆくことに気づかせてもらうのが仏法を聞くということなのです。

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