声と共に生まれ、生きる仏 【國分 大慶】

赤ちゃん人間は産まれてくる時には必ず産声を上げます。赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる時は、羊水に浸かり、へその緒を通じて酸素と栄養を供給されています。やがて月が満ち時を迎えると、産道を通ってこの世に生み出されます。その時に、それまで肺の中を満たしていた羊水が鳴き声と共に押し出され、肺の中を血液がめぐるようになり、自発的な呼吸を始めるそうです。
「いのち」という言葉は「いきのち」という言葉がその語源だと聞いています。息をし、血が巡っているということが命が生きているということを表わすことに由来しているのでしょう。
悲惨な災害現場では、言葉になっていなくても「う~ん」という呻き声がすれば、生存者がいると認識され、早速、救出作業が始められます。つまり、声が生きていることを具体的に表しているわけです。
従って、我々に先だって亡くなった人は身は滅びても、後に残った人が姿や言葉・声を思い出す時、亡くなった人は後に残った人の心の中に生きて現れていると言えます。また、たとえその人の声はなくても、後に残った人に言葉を発させます。
南無阿弥陀仏の声は、私達の声を通じて、いつでもどこでも誰のいのちにも寄り添うことを願われた仏自らが現れたということができるでしょう。

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クリスマス 【青井 和成】

christmas12月に入ると、たまに「お寺さんはクリスマスをしないのですか?」と聞かれることがあります。その時は、私は「はい、仏教徒だからしません。」と答えることに最近してます。私の息子も、保育に通っている時「サンタクロースは来るかなぁ?」と聞いてきたこともあります。その時は「クリスチャンでないからこないんだよ。」と応えました。
私は、クリスマスをしないのは「仏教徒だから」という理由もあるのですけど、もう一つあるのです。それは、失礼な言い方になるかもしれませんが、クリスマスだと言って馬鹿騒ぎをしていること、ただプレゼントを贈ったり要求している、あの様子が何か疑問に思うのです。クリスマスだと騒いでいる割には、キリスト教のこと、イエスキリストのことを知ろうともしない有様が嫌というか、失礼なような気がしてならないのです。キリスト教徒の方に対して失礼な行為をしている気がしてならないのです。
だから、仏教でない他の宗教の行事だからクリスマスをしないというよりは、宗教者として日本のクリスマスのありようが好きになれないのです。自分がクリスマスパーティーを開くことはあり得ないことでしょうが、もし、友人であってキリストの教えを大事にしている方が「クリスマスをするからおいでよ」って誘ってくれることがあったのならば、参加しようかと思っているのです。

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きかんしゃトーマスと極楽浄土 【小林智光】

私には1歳7ヶ月になる息子がいます。
この息子が『きかんしゃトーマス』が大好きで、よく観ています。
そして一緒になって観ているうちに親である私もすっかりハマってしまいました。

thomasこのアニメには色々な機関車がキャラクターとして出てきます。
パワフルな機関車、スピードの出る機関車、小回りのきく機関車、美しい機関車…
それぞれに性格があるのですが、時には「無いものねだり」をする機関車がいます。
小さな機関車が重い貨物を引っ張ってみたり、大きな機関車が無理やり狭い小路に入ってみたり…
それぞれの機関車は自分に無い能力を憂い、他の機関車のマネをしようとします。
しかし結局は失敗に終わり、周囲の困った顔や助言で「自分は自分のままで大切な役割のある機関車なんだ!」と
気づいていきます。

『佛説阿弥陀経』には


しょうしきしょうこう
青色青光
おうしきおうこう
黄色黄光
しゃくしきしゃっこう
赤色赤光
びゃくしきびゃっこう
白色白光

という一文があります。
自分は自分のままの色で輝く。他の色になる必要はないのです。浄土とはそういう「そのまま」の世界です。
南無阿弥陀仏の み教えは、何か形が変わったりどこかの世界に行ったりするようなものではありません。

死んで助かる教えでなく
生きてはたらくこの世から

今、まさにこの瞬間から「あなたのまま」と信じて両の手を合わせてまいりましょう。

南無阿弥陀仏

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ひそかな楽しみ 【蕚 慶典】

インターネットの普及で、メディアの世界が大きく変わりました。今までテレビで見ていたものやレンタルで借りていたものが、動画とくくられPC上ですぐに手に入るようになりました。生中継としてライブでいろいろなイベントが見られたり、過去のものも検索して見つけることが容易です。読書と視聴の幅がうんと広がっています。

そんな中で、「ひそかな楽しみ」があるのです。それは閲覧できる様々な表現の中に、ほのかであっても「仏教や真宗の味わい」を見出し感じ取ることです。
akb48たとえば 「AKB48」を「A=あみださまが、K=きっと B=ブッダにするぞ との48願」と読むのです。NMB48は明らかに「NMB=南無阿弥陀仏、48願」と読むのでしょう(笑)。わざとらしくてもいいのです、テイストですから。

若い人たちが支持するアイドルやミュージシャンの歌やダンスにも、生老病死や無常を説いたフレーズがあったりして、「おお」と驚くこともあります。バリバリのロックバンドに阿弥陀さまのおはたらきを思わせる世界を感じ取ることができたりもするのです。

さらに、ドラマや映画のシーン。お葬式に法事、墓参り。お寺やお仏壇にお墓が映ると、ブディストアンテナがびんびんになります。「このお仏壇はお西!」「ああ、 御文章を読んだはるがな」「ははん、わざと真ん中に位牌をおいて撮影して、宗旨をごまかしとるな」「けったいな僧侶の格好やなあ、どの宗派かわからんようにという配慮か」「うむ、1カット写った墓標に釈○○と法名があるからこの家は真宗である」……等々。

時には推理を加えて、本筋とは関係ない人物や家族の背景を想像して楽しみます。耳を澄まして、「おお。これは阿弥陀経だ」「ありゃ、正信偈さんやないか」と、寺内のもので盛り上がったりします。 お経さまの世界の浸透や広がりを感じ、一人ほっこりすることもしばしばです。また、お説教の話題にもなって一挙両得?でもあります。

あなたもひそかに、この楽しみに参加しませんか?

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