「リレーコラム」カテゴリーアーカイブ

いつか念仏もうす人に 【平野 正信】

私事ですが、もうすぐ私達夫婦のところに子供が生れてきます。

命のスタートという意味、受精卵となった時に既に生まれているということなのでしょうが、母の身体から出てきて娑婆の空気を吸うのはもう少し先のことです。

一つの生命が今お腹の中で育っているといのは、何とも不思議なものですね。

ところで、私とつれあいの約束事で、子供の名前については、子供が男の子ならば私が決定権を持ち、女の子ならばつれあいが決定権を持つ、という風に決めていました。

もちろん話し合いはしますが、最終的な決定権は同性の親が持つ、という約束事です。

そして、エコー検査の結果、ほぼ男子で間違い無いということがわかりました。
(まあ、生れてみたら違ったというケースは良くあるらしいですが)

という理由で、名前の決定権は私が持つということになったのです。
名前というのは重要です。
なにせ、一生ものですから、こりゃあ責任重大だ、と思って色々と案を出したのですが、何となくシックリこない。

どうしたものか?
と考えていたある日、お聖教を読んでいて
「お!この名前にしよう」
と直感的に思いまして、名前を決定しました。

1510989_530103167098008_4263069880652851984_nその名前は
「明法(あきのり)」
です。

この名前はあるお方の名前から頂戴しました。
その方は、親鸞聖人のお弟子様の一人、明法房(みょうほうぼう)です。

明法房は親鸞聖人の弟子になる前の名前を弁円(べんねん)といい、山伏でした。そして、彼は親鸞聖人を殺害しようとした人です。

山伏弁円は、親鸞聖人が説く念仏の教えが広まることを良しと思わず、親鸞聖人を殺害しようと草庵に押し入りましたが、殺そうとしていたはずの聖人のお人柄に触れ、心を翻して念仏のみ教えに入り、親鸞聖人の弟子として法名をいただたいた方です。

聖人より早くご往生され、その知らせを聞いた親鸞聖人に「うれしいことだ」「めでたいことだ」と喜ばれた方です。

五逆の罪人であったはずなのに、お念仏の教えに出遇い、最後には親鸞聖人にその往生を喜んでいただけるなんて、こんなに幸せな人が他にいるでしょうか。

私はこの幸せな人、明法房の名前を頂戴し、子供の名前を明法にすることに決めました。
名は親の願いです。
私が彼に願うこと、それは

どんな生き方をしてもかまわない、たとえ、これ以上無いほどの罪を犯す人になってしまったとしても、いつの日かお念仏をよろこべる人になってほしい

これだけです。
親子であっても、彼もまた仏に願われた仏の子ですから、仏様の子をおあずかりさせていただき、この手に抱く時を、お念仏申させていただきながら待っております。

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『あみださま』は、えらばない。 【一二三 智生】

 阿弥陀さまのはたらきは「えらばず」と言われます。

「えらばず」という事は、「比較をしない」という事でしょう。

2011年に発刊された、みうらじゅんさんの《マイ仏教》という本があります。この方は、多才な方ですが、この本の中、後半に“非核三原則”ならぬ“比較三原則”という項目がありました。我々は、日々の生活の中で色々な事を比べて生きているというのです。

10250684_1492718890951152_1510747884_n「他人と自分」「過去と現在」「親と自分」これら3つを比較して、自分自身の人生を狭いものに閉じこめていると言うのです。まさしく、我々は比較するという煩悩で優劣をつけ、自分自身を狭いものに閉じ込めています

このような比較する私に対して、阿弥陀さまは「えらばない、比べない」とはたらいていて下さるのです。

 ところが、現代社会を生きていく上で、色々な事を自らの都合によって選び、比べ、それによって生じる苦しみ悩みを抱えているのが私達です。 この苦しみ悩みを無くすことは容易ではありませんが、これらを無くすことができない、そういう私という存在を既に見抜いておられる方が「えらばない、比べない」とはたらいて下さっている『阿弥陀さま』なのです。

 『仏法は聴聞にきわまる』

これからも、阿弥陀さまのお言葉をお聞かせいただききながら、阿弥陀さまの誓いを信じ、「南無阿弥陀仏」をとなえながら力強い人生の歩みをさせていただきましょう。

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おもかる石が想い?! 【太田 幸典】

持ち上げてみて、軽いと思えば願いがかない、重いと思えば願いがかなわない…

10156913_599848460111848_1926585298_nそんな石が神社さんに置かれていることがありますね。
”信心深い”?僕は必ず持ち上げてみます。でも、この石、大きさのわりに意外と重いんですよね。
毎回、”重い”と感じる僕は決まって周囲の人たちに「これ、意外と軽いなぁ。」と言います。
それで、毎回、変な汗をかくことになるんですが、神社さんの片隅に置かれているのを発見すれば持ち上げてみたくなるのです。
そこで、今回、この”おもかる石”について考えてみました。
持ち上げてみて”重い””軽い”と感じるのは持ち上げる前の覚悟が大切なんですね。
見た目はこぶりな石だけど「これはかなり重くて手ごわい石だ!」と思って持ち上げると、きっと軽く感じるでしょう。
「これは軽そうだな。」と思って持ち上げてみると「意外に重いなぁ!」となるのでしょうね。

この”おもかる石”は人生に似ているのかもしれませんね。
「人生は明るくて楽しくて…」と思っていると様々な困難にぶつかるたびに「生きることは、なんでこんなに辛くて悲しいの?」と思うでしょうし、「この世はつらいものだ」と思って毎日を過ごしていると、ちょっとしたことがとてもありがたく、またうれしく思えるのかもしれません。

えっ?今頃気付いたの?って言わない言わない…

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日々のご給仕 【吉峯 教範】

10250955_683681128360050_1249638353_n某所で御葬儀の手伝いをしていた時に、ある方が仰った。
「どうして、ご葬儀のお道具は皆銀箔が押してあるのかわかりますか?」
お東の寺院の葬儀では、蝋燭や供笥、四方といったお道具や、根菓餅の柱や四華(紙華)に銀濃といって銀箔や銀粉を押したものを使うのですが、どうしてだと思います?というご質問でした。

「銀箔はね、すぐに酸化して真っ黒になっちゃうんですよ」
それが、答えでした。

葬儀に使うお道具やお供えは、その都度その都度一から作り直すなり、誂え直したりして使うもの。そういうご教示だったと思います。
「手間暇をかけて勤めるもの、それがお葬式だと思います」ともお聞きしたように覚えています。

10169028_683681135026716_154939493_nご葬儀に限らず、行事の際にはその都度打敷をかけ 瓔珞を吊り 五具足とし、終われば打敷や瓔珞を外し三具足とするのも、杉盛や須彌盛、仏花等法要の度に使い回しのできないお供えを用意するのも、真鍮の仏具を毎回磨くのも大切な意味があることなのだと教えていただきました。

さすがに本山や別院以外で瓔珞までかけたり外したりするお寺さんは数ヶ寺程しか存じ上げませんが、少しでも手をかけるところを残しておかないと、見た目は美しく綺麗でも中身のない上辺だけのものになってしまうのではないかと思います。

最近は、御仏飯や杉盛、須彌盛の精巧なレプリカ、見事な立花の造花、金箔を推したりセラミックでコーティングされた仏具、そして山型(お東)・箱型(お西)の灯芯の炎の形まで再現したような輪灯や菊灯の電飾まで発売されていると聞きます。
そのすべてがすべて悪いとは言いませんが、どこか一つか二つくらいは手間暇をかけることのできる場所を遺しておいて、お荘厳の本当の意味を思い出させていただく機縁とさせていただきたいものです。

見た目だけご本山の両堂と同じに見えるようにしても、それはお荘厳でも何でもなくただの自己満足にすぎないと思います。

10248795_683681131693383_589665077_n毎朝、油を差し火を灯し灯芯の形を整える。突出や盛相でなくともまず炊きたてのご飯をお供えさせていただく。
杉盛や須彌盛の形にはならなくとも、レプリカを廃して本物のお餅をお供えしてみる。
蝋燭を立てる時は朱のいかり型が用意できず白い棒状の蝋燭しかなかったとしても、まず電飾を外してマッチを擦ってみる。
何もあれもこれも一度に全部しようと思わなくても良いのです。
一つでも二つでも自分の手でやってみれば、ただ本山通りの形の電飾を飾って悦にいっているよりは、よほど得られるものが多いのではなかろうかと思います。

どんな一張羅の着物でも365日着たままでは、よそ行きにはなりません。
打敷やお供物を載せる供笥もまた、普段はしまっておいて出しっ放しにはせず、ご命日や報恩講にのみ荘るからお荘厳になるのです。

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「なかま」ということ 【朝戸 臣統】

スタッフネタですが、けっこう大切なことかも。(*^_^*)

bannerこの、リレーコラムのサイト、最近少しだけ変わりました。右上にある説明が、
「浄土真宗のなかまによる連載コラム」
になったんです。そうなる前までは、
「浄土真宗のお坊さんによる連載コラム」
だったんですよ。気が付きましたか??

ご法話でなくても、浄土真宗に関わる身近なことをリレーコラム形式で掲載しては、という企画からスタートしました。当初は、執筆陣がお坊さんばかりだったのであの表記になっていたのですが、お坊さんじゃない方もコラム執筆に加わって下さるようになりました。そうなると「お坊さん」という括りでは合わなくなったんです。
「お坊さんでダメなら、門徒にしてみたらどう?お坊さんも門徒だし。」
「いや、門徒というのはお寺に所属する人だから、それ以外の人を除外しちゃうんじゃないの?」
「そうか、じゃあ、なかまという表現にしようか?」
というようなやりとりの中で、新しい説明へと変更になりました。

今回のことを通して知らされたのは、ひとつのカテゴリーを作るということは、その外側にカテゴリーから疎外される者を作り出している、ということでした。内側にある者はそのことに気付きにくいのですが、疎外された者は傷みと共に感じてしまうのです。仲間作りという行為そのものが、実は仲間はずれを作る行為につながってしまう危険性をはらんでいるのですね。
Jリーグのサポーターによる「○○○ONLY」という横断幕が差別的だと処分されたのも、同じ理由なのでしょう。

コラムを執筆して下さる方はもちろん、このコラムを読んでくださっている皆さんも、お念仏のみ教えをよりどころとして生きている「なかま」です。だから私は、ここに「なかまはずれ」と感じる人がいなくなるようなサイトでありたいと願っています。
だって、如来の願船に乗せていただいた、お互いですからね。

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お寺ネコ 【蕚 慶典】

お寺にはネコが4匹います。全ては「ノラ」出身。

IMG_1625隣接する大阪市の墓地で、お参りの方々のお供えがたっぷりいただけるので、捨て猫などが育ったとみえます。15年ほど前からその数が目立つようになり、恋の季節にはお寺の塀近辺でも、「あまーい」声がひびきます。
気が付きますと、小さなネコちゃんがうろうろ。「可愛い」といってエサだけを与えに来る人もできたのですが、そうなると今度はお墓詣りの方々から「お供えを荒らし、糞便が汚い」と苦情も増えます。中には、ネコ嫌いの人もいますから暴力を受けて、傷を負うネコも目立ってきました。
そんなこんなで坊守や娘たちが、賛否両論はあるかもしれませんが、費用を払って去勢手術をした上で放つということを始めました。そうしますと、手術後に保護しているネコちゃんが懐いてしまい、勢い飼いネコになるということになり。それで4匹おります。
その中に1匹、歯の抜けた子猫がいまして、獣医さんに見ていただく中で先天的な糖尿病であることがわかりました。十年前のことです。なにせ元はノラですから、なかなか人に身体をさわらせません。診察にも餌付けでボックスに誘い込んで連れて行くぐらいですから、すばしこくって慣れないのです。
IMG_1626引っかかれたり噛まれたりしながらとっつかまえてインシュリン注射。朝晩二回です。大変な作業となります。ところがしばらくしますと、このネコ、我々夫婦のお布団の上で寝るようになってきた。また、注射の際にはじっとうずくまってくれつので、二人がかりで押さえつけての注射が、一人で十分となります。ネコ自身が、あんなに嫌がりにげていた注射が、むしろ自分の命を支えるものであることがわかったのでしょうか。不思議な思いでした。そして、一日のウチ半分は外にいたネコは、今、おひざの上で居眠りをしています。

ネコさえも、知りたくないしたくないと思えることであっても、真実自分を救うてくれることならば順う。今、大悲のお心でどのように背こうとも、「必ず共にあって浄土へすくうぞ」と、はたらきつづけの如来さまに遇いながら、私たちはどうだろうかと思うのです。
満開の桜の下、さっきから子ネコが1匹、またお寺の庭でミーミーと鳴いています。

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星とたんぽぽ 【藤堂 尚夫】

星とたんぽぽ

春のくるまでかくれてる、tanpopo

つよいその根は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

この詩「星とたんぽぽ」の作者である金子みすゞさんは、「若き童謡詩人の巨星」と言われながら二十六歳でこの世を去った薄幸の人でした。しかし、その優れた感性は、通常では見えないところにまで及んでいます。

私たちの命は、実に多くの人やものによって支えられています。しかし、そのことを私たちは、いつも意識してるわけではありません。では、私たちは自分の命を支える根について、忘れたままでいいのでしょうか。

みすゞさんに深い理解を示しておられる矢崎節夫さんは稲の根について書いています。(『金子みすずこころの宇宙』)それによれば、八十センチほどにのびた稲は三十メートルもの根を張るのだそうです。そして稲の根は地面の中で様々なものに出合い、その出合いを糧として稲が育っていったと矢崎さんは言います。

私たちも多くの出会いを糧として、地面の中にしっかりと命の根を張っていきたいものです。

阿弥陀様のお働きは、直接目にできるものではありませんが、「見えぬけれどもあるんだよ/見えぬものでもあるんだよ」というとき、私たちは、阿弥陀様のお働きの実在を信じることができるのですね。

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緊張と感話 【太田 幸典】

感話デビュー
そんな言葉があるかどうか分からないが、来年は是非どこかで…
という気持ちが沸々と湧いてきた。

ohta2と昨年末、facebookに書き込んだところ、早速、1月には玄照寺(真宗大谷派)さん、2月には第四回真宗合同布教大会にて感話をする機会をいただいた。
すると、まわりの人たちが「緊張するでしょう?」と声をかけてくださるのですが、あいにく僕は緊張しないんです。
人前で話をすることが仕事だから…といわれれば、それまでなのですが、僕なりに緊張しない理由を分析してみました。
僕は身長176cm、体重65Kg…これ以上でもなく、これ以下でもないのです。つまり、ピッタリと自分のサイズに合ったことをしようとすると常に平常心でいられます。しかし、少しでも自分を大きく見せよう!良いカッコをしよう!とすると平常心は消え失せます。それと、あらかじめ準備した原稿を読むとき、間違ってはいけないと思うので緊張してしまうんです。
だから、感話デビューとなった1月の時は「平成12年17歳の犯行」「お正月に富士山登山」「大峯山」「阪神タイガーズの優勝」だけ、2月は「悲しみ、怒り、恨みから報恩感謝へ」ということだけ記憶してお話をさせていただきました。

そんな僕でも、とても緊張するときがあるんです。それは今から授業をするというのに、まったく予習ができていないという夢を見たときです。
まぁ、これは当たり前ですね。

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毎日鍋でもいいんです! 【根来 暁】

nabe寒い日がつつきますね。そんなときは、お鍋がより美味しいです。寄せ鍋、ちゃんこ鍋、おでん、すき焼き、モツ鍋、キムチ鍋……などなど。

お肉やお魚、魚介類。白菜や大根、ネギ、などの野菜をたっぷり入れて。しいたけやシメジ、エノキなどのキノコ類。しらたきや糸こんにゃく、マロニー、豆腐や油あげも入れましょう。そのほか、我が家ならではの具材もあるでしょう。それらの様々な具材が、ひとつのお鍋のなかで、ぐつぐつと温められていくうちに、みんな同じ味になっていきます。

そして締めは、雑炊。ラーメンもいいですねぇ。お肉や、お魚、野菜、いろんな具材からでただし汁がからみ合って、なんとも言えない深みのある味です。思わずおかわりをしてしまいます。

ひとつの味になったはずなのに、それぞれがそれぞれの良さをいかしあって、見事に調和した料理、それがお鍋です。厳しい寒さのなかでも、体だけでなく、なんか心も暖まる。それはアツアツをいただいているからだけじゃないような気がします。すべての具材が一つの味になりながら、それぞれの具材の良さを支え、引き立てあっている、そんな「柔らかさ」が私を温めてくれるんだと思います。

でも、頂いたものは、身についてほしくないものほど、身につきやすいので、体重管理にはお気をつけください。

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苦悩を自分ごととする難しさと、苦悩を自分ごととされている有り難さ。 【高蔵 大樹】

職場の雰囲気がいつもと違う!

昨日、私の尊敬する上司がパソコンでカタカタ休む間もなく作業しており、
そのデスクに目をやると、文字通り、書類の山、山、山。書類のヒマラヤ山脈が築かれていました。mountain
「ちょっと高蔵くん、手、空いてる?手空いてたらでいいから、文章間違えてないかチェックして見て。」と、無造作にその山々のほんの一部分(天保山級)を渡されまして、
あぁ、、、うわぁ。これは、、、上司、大変そうだなぁ。と。

心配したのと同時に、
「この件全て私が引き受けます、私にまかせてください!」と、代わりにやりとげたら、仕事デキる部下な感じがしてかっこいいぞ!出世だ!出世!
そんな打算的な事も思いつきまして。
いつ出世するの?今でしょ!ばりの気合いで渡された書類に目を通してみました。
・・・。

ふぅ。

マンションの契約書とか、ネットの契約書とかって凄くややこしいですよね。
私は基本的に説明書とか面倒で読み飛ばして丸めてポイしちゃうタイプなのですが。
その資料もそういった類のもので、一枚数行見ただけでめまいと吐き気が、、、orz。
手元を見ると渡されたものだけで十三枚。
上司のデスクを見ると、そこには険しく高く並びそびえるヒマラヤほどの資料の山。山。山。

たかがプリント一枚数行で高山病になってしまった私は席を立ち、
パソコンで忙しそうにカタカタ作業しつづけ、更に資料を重ねている上司の横をそっとすり抜け、
ガタンと外の自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、ガクンと肩を落とし昼さがりの空を見て思いました。
「上司。私はここで下山します。僕のことは気にせず後は頑張ってください。」
私は、上司の問題を、手に負えない問題ときづき、わたしごととできずに終わりましたが。
「名乗りをあげる」「責任を負う」「問題を自分事にする」というのは、実は凄まじい事なのでした。

阿弥陀様は修行時代、自らの師匠の前で、今までのどんな仏様も成し得なかった願いを誓われています。
それは「自らの力では迷いの世界を抜け出せない私たちを、誰一人としてもれることなく迷いの世界から救い出します。」といったもので、
それは今までのどの仏様も、目の前の師匠の仏様ですらも思い付かなかった、やり遂げる事のなかったすごい事でした。
阿弥陀様は、そんな今までのどんな仏様も解決できなかった難問中の難問を、
「わたしがやります!任せてください!できなかったら私は仏になりません!」と手を挙げ、言いきって、自分事としてくださっておられます。すさまじい事です。

しかもただ手を挙げただけではありません。ただ言って誓って終わりじゃありません。
実際に長い長い気の遠くなるような時間を費やし、厳しい厳しい修行の果てにその願いを達成されきっておられます。
しかも、よーし、できた。で終わりじゃないのです。まだまだそこで終わりじゃないのです。
そこからさらに今もなお、南無阿弥陀仏としてこの我が身にはたらき続けてくださっているのです。

cat欲張るなと言われても欲張るし。怒るなといわれても怒るし。
正しくものを見なさいといっても、自分勝手にものを見てしまう。
信じなさいといわれてもなかなか信じる事のできない私。
そんな、迷いにつきすすむ私たちに、「我にまかせよ。必ず救う。」と言いきり、やりきって。
南無阿弥陀仏という救いそのものを完成させ、いまもなお、この我が身にはたらき続けて、呼びつづけてくださっているのが阿弥陀様でした。

阿弥陀様のご苦労に思いをはせ、いまなお、摂めとられている有り難さを噛み締め。
コーヒーを飲み干し。
ほっぺた叩いて気合を入れ直し。再び上司のデスクの上の書類のヒマラヤ山脈に意識をむけ、思いました。
「上司。私はここで下山します。僕の事は気にせず後は頑張ってください。」

・・・

やっぱりあんまり私はかわりません。
私のほうはあんまり変わりませんが、
苦労を知ると、そんな私もサボるにサボれない、、
嫌々ながらもいつもよりほんのすこし大切に仕事に向かうのでした。
おあとがよろしいようで。

南無阿弥陀仏。

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