藤堂尚夫 のすべての投稿

サンキュー・ブッダ 【藤堂 尚夫】

ある講演で、海外布教をなさった方のお話を聴きました。

その方は「南無阿弥陀仏」をどのように英語に訳したらよいか、ずいぶんと思案したそうです。
ある時、寺に集まった子供たちに「南無阿弥陀仏」を英語でなんと言ったらよいかと質問をしたそうです。

その答えが「サンキュー・ブッダ」(仏さま、ありがとう)。

私たちは、漢字ばかりで書かれた「南無阿弥陀仏」を難しいものと思いこんで遠ざけてしまっているのではないでしょうか。
しかし、この話によって「南無阿弥陀仏」はきわめて身近な感謝の言葉であることに気づかされます。
阿弥陀如来は法蔵菩薩と呼ばれていた頃、摂取不捨のお誓いをたてられて仏となられました。
衆生すべてを一人残さず救う仏さまです。
私たちは、どんなにがんばっても煩悩を離れられない凡夫です。
普通ならばこのような私たちを救うとは考えにくいのですが、阿弥陀如来は自ら救うとお誓いになったのです。
このような広大なお慈悲を私たちは感謝せずにはいられない。

その感謝の言葉が「南無阿弥陀仏」なのです。

【執筆者はこちら】

星とたんぽぽ 【藤堂 尚夫】

星とたんぽぽ

春のくるまでかくれてる、tanpopo

つよいその根は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

この詩「星とたんぽぽ」の作者である金子みすゞさんは、「若き童謡詩人の巨星」と言われながら二十六歳でこの世を去った薄幸の人でした。しかし、その優れた感性は、通常では見えないところにまで及んでいます。

私たちの命は、実に多くの人やものによって支えられています。しかし、そのことを私たちは、いつも意識してるわけではありません。では、私たちは自分の命を支える根について、忘れたままでいいのでしょうか。

みすゞさんに深い理解を示しておられる矢崎節夫さんは稲の根について書いています。(『金子みすずこころの宇宙』)それによれば、八十センチほどにのびた稲は三十メートルもの根を張るのだそうです。そして稲の根は地面の中で様々なものに出合い、その出合いを糧として稲が育っていったと矢崎さんは言います。

私たちも多くの出会いを糧として、地面の中にしっかりと命の根を張っていきたいものです。

阿弥陀様のお働きは、直接目にできるものではありませんが、「見えぬけれどもあるんだよ/見えぬものでもあるんだよ」というとき、私たちは、阿弥陀様のお働きの実在を信じることができるのですね。

【執筆者はこちら】

ぞうさん 【藤堂 尚夫】

童謡「ぞうさん」を、幼少の頃歌った記憶のある人は多いことと思います。この「ぞうさん」は、まどみちおさんが詞をお書きになりました。。

ぞうさん ぞうさんzousann
おはながながいのね
そうよ  かあさんもながいのよ

一見素朴で見たままを詠んだだけの歌詞のようですが、まどさんはもっと深い意味をこの歌詞に与えていました。
阪田寛夫さんはまどさんからこう聞きました。
あの歌は、動物が動物と して生かされていることを喜んでいる歌なのです。「お鼻が長いのね。」 と悪口を言われた象の子が、「いちばん好きなお母さんも長いのよ。」と誇りをもって答えたのは、象が象として生かされていることが、素晴らしいと思っているからなのです。(「『ぞうさん』 とまどさん」)
誰が好きなのと聞かれて「かあさんがすきなのよ」と答える二番の歌詞とあいまって、自分の生かされている命を素晴らしいと肯定する子象の姿が浮かび上がってきます。自分を「生かされている」身と捉えた上で、生きることの本質を、「ぞうさん」は私たちに語りかけているのです。

【執筆者はこちら】

ぞうきん 【藤堂尚夫】

ぞうきん最近は、ぞうきんを絞って掃除をしているという方は少なくなってしまったのでしょうか。掃除機?モップ?化学ぞうきん?あなたは、何を使って掃除をしておられますか?
ぞうきんで掃除をするという機会は少なくなったかもしれませんが、ぞうきんは私たちに大切なことを教えてくれているようです。「ぞうきん」と題された一編の詩があります。

ぞうきん

ぞうきんは
他のよごれを
いっしょけんめい拭いて
自分は よごれにまみれている
(榎本栄一 『群生海』)

ぞうきんはほかの汚れをきれいにぬぐい去ってくれます。しかし、ぞうきん自体はぬぐうたびに、どんどんよごれにまみれてしまいます。
ほかの物をきれいにし、光らせるために自分の身をよごす、このぞうきんのあり方は、なかなか私たちにまねのできるものではありません。
仏教では「利他」ということを大切にします。知らず知らずのうちに、私たちは煩悩を起こし、よごれにまみれていきます。自分のことしか考えない、というのは、私たちの日常の姿なのでしょう。そういうわが身ではありますが、「他」を利するということを意識すると、普段気がつかないでいる自分のよごれに気がつくのではないでしょうか。
そのよごれを気づかせてくださるのが「阿弥陀様のみ光」。ぞうきんという存在は、私たちに「阿弥陀様」のあり方を教えてくれているのかもしれません。そしてそのことを知ったとき、私たちは「南無阿弥陀仏」とお応えしたいものですね。

【執筆者はこちら】