先日、睡眠時無呼吸症候群の検査を受けました。結果は最悪で、1時間に約70回以上、無呼吸の状態があったそうです。よく窒息死しなかったものだと思いました。寝ていても酸素不足を体が感じ、脳が常に覚醒していたそうです。ほんとに体は自分の思い通りにならないけど、だから朝を迎えられていたのかもしれません。
同じ出来事、同じ景色をみても、置かれている状況によって感じ方は変わるようです。
以前タレントの木下優樹菜さんが結婚会見をしていたのをテレビで見ました。彼女はディズニーランドでプロポーズを受けたそうです。電車で行ってられたそうで「行きと帰りの電車から見える景色が違って見えました」と語っていました。これは、上りと下りで景色が違うという話しではありません。置かれたいる状況によって、見え方が変わったのでしょう。人は同じ景色を見ても、同じように見ている訳ではないようです。
また、明石家さんまさんは、若いころ桂三枝(現在の桂文枝)さんの運転手をしていたそうです。毎朝迎えにいくと、必ず「昨日なんかおもろいことあったか?」と聞かれたんだそうです。「そのたびに昨日の出来事で面白いことはなかったと思い出していた」とあるテレビの対談番組で話していました。あのころは、いやでいやでたまらなかったけど、それがあったから今でもテレビで話し続けることができていると言っていました。
お笑い芸人はよく面白い話をします。身の回りによくそんな面白いことが起きるなぁと思っていましたが、それだけではないようです。よく聞いてみると、身近におこった何気ない出来事を、おもしろおかしく話しているのです。私には「当たり前」だと思うことが、芸人にとっては「面白い」ことと感じるということでしょう。同じように、好きな人からプロポーズをうけた人は、「当たり前」だと思うことが、全部「幸せ」だと思えるのでしょう。
「当たり前」の反対の言葉は「有り難い」だと聞いたことがあります。でもそれは、「当たり前」のことと「有り難い」ことがあるのではなく、目の前の出来事を「当たり前」だと思うか、「有り難い」と思うかの違いなのでしょう。
気がつかないところで、忘れているときも、背を向けているときも、私を育て支え続けてくださっていた「法(はたらき)」を聞いていくことによって、「当たり前」だと思っていたことのが、「有り難い」ということだったと気付かされます。自らの思いだけで、回りの景色や出来事を判断していた私が、多くのはたらきの中にあった「いのち」であったと、喚び覚まされていく場がお聴聞だと思います。
検査の直後は有り難いことだと思いましたが、治療を始めた今では、朝を迎えることがだんだん当たり前になっています。「有り難い」と思える気持ちは、なかなか継続できないもののようです。