もう随分と前になるが、つてがあって東大寺の修二会を特別に参観させていただいた時のことです。
その折にご解説方々ご案内をしてくださった華厳宗の教学部長のSさんのお話が強く印象に残っています。
「修行楽しいな!修行楽しいな!」とお話の合間合間に楽しそうに言葉を挟みながら、
「私たちが一生かかって積むことができる功徳なんて、薄い薄いそれこそオブラートのような薄っいペラペラの修行しかできないんですよ。
その薄い薄いオブラートを何年もかけて重ねていく。でも、ちっとも厚みなんか出てこない、薄っいままなんです。
で、一生かけてその薄いオブラートを重ねてきて、ようやく薄いナイロン袋ほどの厚みが出てきたな〜と、思った頃にくしゃみのひとつもしますでしょう。
で、どうなるか⁈
今まで積み上げたもんがいっぺんに吹っ飛んでバラバラになって飛んでしまいますわ(笑
いや、バラバラになるくらいならまだええけど、鼻水や唾も一緒に飛んだら、オブラートに穴が空いてしまいまっしゃろ。もう使いもんにはなりません。そやから、また一からオブラートの積み直しですわ」
「それこそ、私ら十数箇寺の塔頭でこの大きな寺を護持してまっしゃろ。人生の最後に管長の椅子なんかを巡って争いでもしてみなされ。やっと積み上げたナイロン袋の上に土砂降りの雨が降りそそいで、もう跡も残らんほどぐちゃぐちゃですわ。
それが、人間というもの。その度にまた、一からオブラートを積み重ねていく。
これが修行というものですわ〜(^^)」
「あ〜、修行楽しいな!修行楽しいな!・・・」
自力無功と知りつつ、なお修行を続けながら道を歩んでいく。
あー、なるほど、これが聖者の方々が歩んでいかれる難行道(行き難き道)なのだと、お気付かさせをいただいたことです。
親鸞聖人は、華厳の教えは実の大乗(必ず仏果〔さとり〕に至ることのできる真実の大乗仏教)の教えだと位置付けられておられます。
天台や華厳は、実の大乗。
しかし、根気も智慧もなく、積み上げても積み上げても厚みが出ない薄いオブラートを黙って積み続けることができない愚かな凡夫。結果や成果が見えなければ何もできない、一度や二度失敗すればたちまちに意欲を失って、道を歩むことのできない愚かな身には、行じ難く、行き難い。
そこに、この低下の悪凡夫の為に説き示されたのが他力の易行道。
その易行道の中の真実の大乗を親鸞聖人は、「真宗」とお呼びになられたのだなと。