ベテルギウスの光 【蕚 慶典】

orion冬の夜空をいろどる代表的な星座のオリオン座。日本ではその姿が「鼓星」といわれ、航海の目印になってきました。オリオンのベルトのあたる三連の星は、宗像三神や住吉三神であるともいわれて、月星の天体の運行と地上の生活が密接であった時代を知らせてくれます。
星の神話では、狩人オリオンは月の女神アルテミウスの想い人であったが、双子の太陽神・アポロンがそれをよく思わず、ある日海で泳ぐオリオンを海獣と偽って、弓の名手であるアルテミウスに射殺させてしまう。事実を知ったアルテミウスは悲しみに沈み月が見えなくなったのです。
父神ゼウスがこれを憐れみ、オリオンを天上に召してアルテミウス=月の通り道におき、二人が並んで夜空を運行するようにしたのだといわれます。
ところで、そのオリオンの右肩にあたる星、おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンで「冬の大三角」を構成するベテルギウスは、ひょっとしたらもう消滅しているかもしれない星なのです。実際地球上で、星の臨終=超新星爆発の光が観測された時には、本体は500光年から800光年かなたですから、その500年~800年前に消滅していることになります。
星でさえ無常の理の外ではないと、ベテルギウスの光が教えます。この宇宙の中で唯一変わらないものは、アミダー無限と名乗られて、はたらき続けられる如来さまの「本願力廻向」一つでありました。

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法話マップをリリースしました

map法話を検索した時に、この近くで他に法話は無いかなとか、自分の家の周りでどこで法話が行われているか一覧できたらいいなと思われることはありませんでしたでしょうか。この度GoogleMapを使って法話の情報を一覧できる『法話マップ』機能をリリースしました。知りたい月の法話の分布を地図上で見ることができます。

「法話マップ」

map2このマップ機能を使うと、地図上でどこで法話が開催されているかわかるのと、マーカーをクリックすることでその法話の詳細も見ることができます(更に吹き出しの中をクリックすると法話情報のページにジャンプします)。また、右にある都道府県のリストをクリックすると、都道府県ごとの絞込検索もできます。もちろんGoogleMapの機能として、拡大縮小や航空写真上での表示にも対応しています。見たい月を変えたい場合は、右上にある矢印をクリックして月を送って下さい。

システム上で法話の会所の位置を把握しているために、法話詳細ページから「近くの会所」も見られるようにもなりました。

尚、Googleのシステムの限界として、100%必ず正しい位置を示しているとは限りません。詳細ページの住所や会所の名称を見て、地図上の位置が正確かどうか判断して下さい。

どうぞご活用下さい。(開発担当 瓜生)

読売新聞で紹介されました

読売新聞京都版1月27日朝刊で、当サイトが紹介されました。ウェブ版へのリンクはこちらです。
yomiuri20140127以下記事記事本文ーーーーー

『法話聞きに来てHP 全国開催情報常時500件』

 宗教に親しむ機会を増やそうと、真宗大谷派(本山・東本願寺=下京区)や浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺=同)の若手僧侶らが、各宗派の法話情報を投稿・閲覧できるホームページ(HP)「浄土真宗の法話案内」を開設した。都道府県別に検索できる機能などを備えた本格的なHPで、常時約500件の情報を掲載。「誰もがいつでも法話を聞ける環境」を整えていく。(杉山正樹)

 浄土真宗では、法話を聞く「聞法」が重視され、諸派合わせて2万以上の寺院が年間10万回以上の法話を行っている。

 ただ、地域単位で顔なじみの人々が集まっていることが多い檀家(だんか)制度では、門信徒以外の人に寺側がどのように開催情報を発信するのか、ノウハウが見つけにくい現状がある。

 そうした中、2012年の冬、真宗大谷派玄照寺(滋賀県東近江市)の瓜生崇住職(39)が、インターネットで開催情報を発信する構想を会員制交流サイト「フェイスブック」に書き込むと、全国各地から「一緒にやりたい」との声が続々と寄せられた。

 その後、同サイトで連絡を取り合ってやりとりを重ね、システム開発やデザインを僧侶が考えた「お手製」のHP(http://shinshuhouwa.info/)が昨年10月に完成した。

 法話情報は、「本日の開催情報」「新着法話情報」「アクセスランキング」などに分けて掲載。一目で開催日が分かるカレンダーに加え、宗派や講師名から検索できる機能も設けた。

 情報の投稿もでき、ユーザー登録した後、メールで届いた様式に入力する。対象は同宗の本山か別院、教務所、末寺、関連団体の主催する法話や勉強会としている。

 反響は大きく、運用開始後、2000件以上の法話情報が掲載され、HPに賛同する僧侶らも府内外で100人を超えた。今後、スマートフォンやタブレット端末への対応、簡易投稿サイト「ツイッター」との連動も進め、「宗教離れ」が懸念される若い世代への利用拡大を目指す。

 事務局を担当する瓜生住職は「年間を通して法話がなされない日はほとんどない。縁のなかった人が『生きた宗教』に触れる機会にしたい」と話している。

(2014年1月27日 読売新聞)

菊は聞くなり 【青井 和成】

仏花(菊)仏壇に新しい花をお供えするため花屋などでセットになっているものを求めると大概菊の花が入っていますね。また菊の花はお葬式の花だと言って嫌う人もいるぐらいだそうです。そのことは極端というか行き過ぎですが、それだけよく仏華として菊がよく使われていたいうことなのでしょう。

昔、僧侶仲間が私に「なぜ仏華として菊がよく使われているか知っているか」と聞いてきたことがありました。私はわからないと答えたらその方は「本当は菊はキクでもこっちの菊なんだよ。仏教では聞くという事を大事にしてきたからなんだよと教えてくれました。

正直そのことは歴史的事実としては眉唾もの、嘘っぽくて疑わしいのですが、でもそういう説明もありかなっとも感じたのです。そのことは嘘でもそういう意味だと思ってこれからお供えして行くことは大事なことだと思ったのです。

多分この文章を読んだ皆さんも仏華としてお供えしていある菊の花を見て「菊は聞くなり」と思い出して浄土真宗の大事は聞法だと確認なされていくことでしょう。

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華やかさのかげで 【菅原 昭生】

あの水戸の黄門さま(徳川光圀)が、こんな歌を詠んでいます。

      ただ見れば     何の苦もなき水鳥の
      足に閑(ひま)なき     わが思ひかな

swan

湖面を滑るように泳ぎながら優雅な姿を見せる白鳥も、水面の下では、休むことなく足ひれを動かしている…。

つまり、外(側)からみれば、楽(簡単)そうに見えることでも、その影(裏) には他人の知らない苦労(努力)があるという意味でしょう。

米国野球で活躍しているイチロー選手は、他の選手ならとても追い着きそうもない打球をさり気なく、いとも簡単そうに捕球すると聞いたことがあります。それは、抜群に素早いスタート、的確な判断、鍛え抜かれた瞬発力に裏付けられたものです。

しかし、それを得るためにイチロー選手が平生から積み重ねている不断の努力を私たちは目にすることはありません。影の努力(苦労)が、大きければ大きいほど、表舞台はかえって 平然と見えるのかもしれませんね。(その反対もあると思いますが…。)

ところが、私たちは どうしても他人を自分の見える範囲で判断してしまいます。そのくせ、反対に他人が自分のことを、上辺だけで決めつけようとすれば、「何も知らないくせに…」と腹が立ちます。

思えば、葬儀の会葬者が故人の人生に対して、「幸せだった」とか「気の毒だった」と無責任に評することも要らぬお世話でしょう。人はだれも、他人に知られることのない苦しみ・悲しみを抱えて生きています。ただ、それを言わないだけ。聞かれたくないだけ。

仏さまは、人知れず苦しみ悩む私を知りぬいた上で、「何も言わなくていい。わかっているよ」と、ただ、黙って寄り添っていて下さいます。だから、こんな自分でも前を向いて歩いていけます。強くなくてもいい、立派でなくてもいい…そのままでいいと抱いていて下さるのですから。

笑顔の下に隠された涙…。さりげない言葉・仕草の中に込められた 優しさ。華やかさのかげにつつまれた悲しみ・苦しみは、その人生に深みと愛おしさを感じさせてくれるのかもしれません。

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京都新聞で紹介されました

京都新聞の2014年1月9日夕刊にて「真宗法話サイト」が紹介されました。ウェブ版はこちらをご覧ください
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以下本文ーーーーーー
『法話案内をネットで配信 浄土真宗若手僧侶ら』

 全国の浄土真宗系の寺院で行われる法話の開催予定を掲載したインターネットの情報サイト「浄土真宗の法話案内」を、同宗の若手僧侶たちが開設した。「誰もがいつでも聞きに行ける法話の身近さをアピールしたい」としている。

 浄土真宗は、親鸞を開祖とする国内最大級の仏教宗旨。現在、浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など代表的な10宗派と諸派に分かれ、全国に2万カ寺以上ある。

 サイトを立ち上げたのは東近江市の玄照寺住職瓜生崇さん(39)を中心とする若手僧侶11人。2012年末から準備にかかり、13年11月下旬から本格運用を始めた。画面のデザインやシステム構築など全て手づくりだ。

 掲載する情報は、浄土真宗の各派の寺院や大学、会館などで開かれている法話や講演で、開催日や講師、地域などから簡単に検索できる。情報の入力は、主に法話の主催者側が行い、毎日約10~20件の更新があるという。

 瓜生さんは「仏教といえば葬式や法事と思われがちだが、法話も毎日、どこかで開かれている。若者ら仏教に関心が低い人たちにも、人生の悩みや苦しみに応えられる力がまだあることを知ってもらう契機にしたい」と話している。

医者に癌だと言われて思い出したこと 【吉峯 教範】

先日、胃癌で胃を全摘しなければならないとお医者さんに言われた時、ふと二十代に読んだ次の様な話を思い出しました。

 

座禅

ある高僧が臨終間近になった時、集まった弟子や信徒たちが師に向かってこう言った。
「老師よ、師の業績はまことに多岐に渡り、また大勢の弟子を育てられ、その功績は頗るございます。師を慕う一同で老師を讃える碑を建立したいと存じますので、御自身の御生涯を顕すことのできるような句を一句お遺しください。
すると、老師は即座に次のような句を読んだ。
「食って寝て、起きたら出して、また食って、時々屁をひく糞袋」

長年立派に寺を守り、弟子を育てただけでなく、橋を架け、道を整え、大勢の貧民の救済なども行った立派な老師が、自身の生涯を振り返って詠んだ歌が、「食って寝て 起きたら出して また食って・・・」というこの歌だったという話で、若い頃に読んでとても印象に残っておりました

言われてみればそのとおり、どんな人でも一生50年乃至100年の間、一体何をしてきたのかといえば、確かに食って 寝て 出しての三つが最も多く時間と労力を割いて成してきたことであることに間違いはありません。
仕事だの学問だの趣味だの生き甲斐だのと言っても、所詮はその合間に屁をしていた程度のものであるとは、流石だなと感心したことです。
一生かかって食べたものを糞に変える仕事を続けてきたのが「生きる」ということに他ならない。
あるがままを あるがままに見る とはそういうことなのかな。
息を吸って、またそれを吐く。ただ当たり前のようなそれだけのことが実は有難い。尊いことなのだなと、あらためて気づかさせて頂いたような気がしました。

うさぎ喜ぶべきことを なかなか喜ぶことができずに 苦しむ私たちを、憐れみ 哀しみ 慈しんでは、なんとかその苦悩を除きたい、たすけたいと呼ばずにはおられない、願わずにはおられないという みほとけの切なるお心が南无阿弥陀佛の親心なのでしょうね。
もったいないことです。
南无阿弥陀佛。

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サーバーメンテナンスのお知らせ

平素より法話情報の地道なアップなど当サイトの運営にご協力頂きまして有難うございます。
開設以来順調にアクセスが伸びており、当初使っていたサーバーでは今後の運営に支障の出るおそれが出てきました。
つきましては本日の夜、サーバーの移転作業を行います。それに伴いまして、1月3日夜10時より翌朝6時まで一時的に法話情報の入力ができなくなります。ご了承下さい。(閲覧は可能です)
今年はTwitterとの連動や、他サイトへの組み込み機能、スマートフォンでの閲覧機能など、様々な機能強化を予定しております。
これからも「浄土真宗の法話案内」をよろしくお願いいたします。

開発担当 瓜生

お寺にお参りください! 【平井 裕善】

ochoumonn 「どうぞ、お寺にお参りください」

とお誘いしても、お寺にご縁の無い方にはわかりにくかもしれません。もう少し具体的に
 「お寺にお参りして、◯◯しましょう!」
とお誘いする方がわかりやすいですよね。では、この◯◯に何を入れましょう?

 「お寺に参って、仏に成りましょう!」
とお誘いするのが正解のような気がしますが、ちょっと壮大すぎますね。初めて聞く人なら引いてしまわれるでしょう。

浄土真宗のお寺は「お念仏のみ教えを伝える」ための道場です。読経も、本堂のお飾りもすべてそのためです。その中で聞くお話が「法話」です。
法話は仏さまの話です。仏様のお話を聞くと、「心あたたまる、深い話で、癒やされるんですよね!」と思われる方がおられることでしょう。心あたたまる話もたくさんありますが、なかには自分の身の浅ましさ、醜さ、愚かさを突きつけられ、思わず息が止まるような思いをする話もあります。そういった自分の身のどうしようもない愚かさと同時に、それを目当てとして救う阿弥陀さまの「お心」や「おはたらき」、そしてそういった事すべてが南無阿弥陀仏のお念仏としてこの私の身に届いていることをお聞かせいただくのです。それを【聴聞(ちょうもん)】といいます。

浄土真宗ではその聴聞こそが大切なことですから、
「お寺にお参りして、お聴聞しましょう!」
というお誘いが良いかなぁと思います。さらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すことも強調したいことです。ですので、
「お寺にお参りして、お聴聞され、『南無阿弥陀仏』と申しましょう!」
という誘い文句はいかがでしょう。ちょっと長すぎるでしょうか。それなら、
「お寺に参って、お念仏しましょう」
とする方がすっきりします。

確かに「なんまんだぶ」のお念仏は、どこでも、いつでもできます。私の所へ「なんまんだぶ」と声の仏さまになって届き、はたらいてくださっているのですから。
一人でお念仏することもできます。しかし、お寺にお参りいただき、荘厳な雰囲気の中でおつとめをし、お念仏のいわれのお話を聞いて「なんまんだぶ」とお念仏することのよろこびを共に味わいたいのです。日常の生活の中では「なんまんだぶ」となかなか口に出すことができない人にこそ、そういう雰囲気の中でお念仏することをお誘いしたいのです。

そんなことを思いながら、しばらくの間のお誘いの文句は、
「お寺に参って、お念仏しましょう!」
でいきたいと思っているのです。なんまんだぶつ。

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声と共に生まれ、生きる仏 【國分 大慶】

赤ちゃん人間は産まれてくる時には必ず産声を上げます。赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる時は、羊水に浸かり、へその緒を通じて酸素と栄養を供給されています。やがて月が満ち時を迎えると、産道を通ってこの世に生み出されます。その時に、それまで肺の中を満たしていた羊水が鳴き声と共に押し出され、肺の中を血液がめぐるようになり、自発的な呼吸を始めるそうです。
「いのち」という言葉は「いきのち」という言葉がその語源だと聞いています。息をし、血が巡っているということが命が生きているということを表わすことに由来しているのでしょう。
悲惨な災害現場では、言葉になっていなくても「う~ん」という呻き声がすれば、生存者がいると認識され、早速、救出作業が始められます。つまり、声が生きていることを具体的に表しているわけです。
従って、我々に先だって亡くなった人は身は滅びても、後に残った人が姿や言葉・声を思い出す時、亡くなった人は後に残った人の心の中に生きて現れていると言えます。また、たとえその人の声はなくても、後に残った人に言葉を発させます。
南無阿弥陀仏の声は、私達の声を通じて、いつでもどこでも誰のいのちにも寄り添うことを願われた仏自らが現れたということができるでしょう。

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浄土真宗のなかまによる連載コラム