毎日鍋でもいいんです! 【根来 暁】

nabe寒い日がつつきますね。そんなときは、お鍋がより美味しいです。寄せ鍋、ちゃんこ鍋、おでん、すき焼き、モツ鍋、キムチ鍋……などなど。

お肉やお魚、魚介類。白菜や大根、ネギ、などの野菜をたっぷり入れて。しいたけやシメジ、エノキなどのキノコ類。しらたきや糸こんにゃく、マロニー、豆腐や油あげも入れましょう。そのほか、我が家ならではの具材もあるでしょう。それらの様々な具材が、ひとつのお鍋のなかで、ぐつぐつと温められていくうちに、みんな同じ味になっていきます。

そして締めは、雑炊。ラーメンもいいですねぇ。お肉や、お魚、野菜、いろんな具材からでただし汁がからみ合って、なんとも言えない深みのある味です。思わずおかわりをしてしまいます。

ひとつの味になったはずなのに、それぞれがそれぞれの良さをいかしあって、見事に調和した料理、それがお鍋です。厳しい寒さのなかでも、体だけでなく、なんか心も暖まる。それはアツアツをいただいているからだけじゃないような気がします。すべての具材が一つの味になりながら、それぞれの具材の良さを支え、引き立てあっている、そんな「柔らかさ」が私を温めてくれるんだと思います。

でも、頂いたものは、身についてほしくないものほど、身につきやすいので、体重管理にはお気をつけください。

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苦悩を自分ごととする難しさと、苦悩を自分ごととされている有り難さ。 【高蔵 大樹】

職場の雰囲気がいつもと違う!

昨日、私の尊敬する上司がパソコンでカタカタ休む間もなく作業しており、
そのデスクに目をやると、文字通り、書類の山、山、山。書類のヒマラヤ山脈が築かれていました。mountain
「ちょっと高蔵くん、手、空いてる?手空いてたらでいいから、文章間違えてないかチェックして見て。」と、無造作にその山々のほんの一部分(天保山級)を渡されまして、
あぁ、、、うわぁ。これは、、、上司、大変そうだなぁ。と。

心配したのと同時に、
「この件全て私が引き受けます、私にまかせてください!」と、代わりにやりとげたら、仕事デキる部下な感じがしてかっこいいぞ!出世だ!出世!
そんな打算的な事も思いつきまして。
いつ出世するの?今でしょ!ばりの気合いで渡された書類に目を通してみました。
・・・。

ふぅ。

マンションの契約書とか、ネットの契約書とかって凄くややこしいですよね。
私は基本的に説明書とか面倒で読み飛ばして丸めてポイしちゃうタイプなのですが。
その資料もそういった類のもので、一枚数行見ただけでめまいと吐き気が、、、orz。
手元を見ると渡されたものだけで十三枚。
上司のデスクを見ると、そこには険しく高く並びそびえるヒマラヤほどの資料の山。山。山。

たかがプリント一枚数行で高山病になってしまった私は席を立ち、
パソコンで忙しそうにカタカタ作業しつづけ、更に資料を重ねている上司の横をそっとすり抜け、
ガタンと外の自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、ガクンと肩を落とし昼さがりの空を見て思いました。
「上司。私はここで下山します。僕のことは気にせず後は頑張ってください。」
私は、上司の問題を、手に負えない問題ときづき、わたしごととできずに終わりましたが。
「名乗りをあげる」「責任を負う」「問題を自分事にする」というのは、実は凄まじい事なのでした。

阿弥陀様は修行時代、自らの師匠の前で、今までのどんな仏様も成し得なかった願いを誓われています。
それは「自らの力では迷いの世界を抜け出せない私たちを、誰一人としてもれることなく迷いの世界から救い出します。」といったもので、
それは今までのどの仏様も、目の前の師匠の仏様ですらも思い付かなかった、やり遂げる事のなかったすごい事でした。
阿弥陀様は、そんな今までのどんな仏様も解決できなかった難問中の難問を、
「わたしがやります!任せてください!できなかったら私は仏になりません!」と手を挙げ、言いきって、自分事としてくださっておられます。すさまじい事です。

しかもただ手を挙げただけではありません。ただ言って誓って終わりじゃありません。
実際に長い長い気の遠くなるような時間を費やし、厳しい厳しい修行の果てにその願いを達成されきっておられます。
しかも、よーし、できた。で終わりじゃないのです。まだまだそこで終わりじゃないのです。
そこからさらに今もなお、南無阿弥陀仏としてこの我が身にはたらき続けてくださっているのです。

cat欲張るなと言われても欲張るし。怒るなといわれても怒るし。
正しくものを見なさいといっても、自分勝手にものを見てしまう。
信じなさいといわれてもなかなか信じる事のできない私。
そんな、迷いにつきすすむ私たちに、「我にまかせよ。必ず救う。」と言いきり、やりきって。
南無阿弥陀仏という救いそのものを完成させ、いまもなお、この我が身にはたらき続けて、呼びつづけてくださっているのが阿弥陀様でした。

阿弥陀様のご苦労に思いをはせ、いまなお、摂めとられている有り難さを噛み締め。
コーヒーを飲み干し。
ほっぺた叩いて気合を入れ直し。再び上司のデスクの上の書類のヒマラヤ山脈に意識をむけ、思いました。
「上司。私はここで下山します。僕の事は気にせず後は頑張ってください。」

・・・

やっぱりあんまり私はかわりません。
私のほうはあんまり変わりませんが、
苦労を知ると、そんな私もサボるにサボれない、、
嫌々ながらもいつもよりほんのすこし大切に仕事に向かうのでした。
おあとがよろしいようで。

南無阿弥陀仏。

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みんな違って有難い 【根来 暁】

のっけから告知で申し訳ありませんが、第四回真宗合同布教大会が、2月21日(金)真宗興正派本山興正寺内の興正会館で開催されます。午前9時半から午後5時半まで、13名の方の法話、感話を一日でお聴聞できるご縁です。ぜひご一緒にお念仏申させていただきましょう。

seppou2年前のある大谷派僧侶のFacebookでの「東西本願寺合同の布教大会をやりたい」という一言を見て、私が「それ、おもしろそうじゃない。できますよ」ってコメントして始まった企画でした。
広島県はほとんどが本願寺派の寺院ですので、いろいろな大谷派の方と、ゆっくりと話す機会があまりありませんでした。そして、断片的に聞く話しを通して、「同じ真宗でも、やっぱり違うんだな」ということばかりが気になっていたことです。だから、東西本願寺合同で何かをすれば、違いがはっきり分かって、よりおもしろいんじゃないかと思ったのです。
企画が進むにつれて、「東西だけでなく、真宗の各派、単立のお寺も合同で」ということになり、いままで聞いたことのない宗派の法話もお聴聞でができる、とワクワクしたものです。

そして、第一回大会当日、お聴聞をさせていただいた結果は、お念仏に出遇えたということは、他人も私も何の違いもない、ということでした。「南無阿弥陀仏」の響きは、性別や年令、地域や育った環境、そして僧侶や門徒、あらゆる違いを超えて届いていたのです。そしてその違いに差を感じていたのは、自分の方だったんだなと思わせていただきました。会場内でのお念仏の響きによって、「違いがあっておもいしろそうじゃないか」という私の思いは、「違いがあっても、みんな同じで有難い」という思いへ変えられたのです。

いろんな出来事を、私の側から考えれば、「私とあの人とは違う」という結論にしかならないのが、私のものの見方です。そこには必ず「差」がおこります。「多い、少ない」「長い、短い」「深い、浅い」「善い、悪い」……などなど。しかし私の思いを超えて届いてるものがあり、そして同じものが目の前の人にも届いていると聞かされたとき、違いがあって有難いと、認め合っていける場が与えられるのではないかと思います。

2月21日は、一聲でも多くのお念仏を一緒にお聞かせいただきましょう。

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ぞうさん 【藤堂 尚夫】

童謡「ぞうさん」を、幼少の頃歌った記憶のある人は多いことと思います。この「ぞうさん」は、まどみちおさんが詞をお書きになりました。。

ぞうさん ぞうさんzousann
おはながながいのね
そうよ  かあさんもながいのよ

一見素朴で見たままを詠んだだけの歌詞のようですが、まどさんはもっと深い意味をこの歌詞に与えていました。
阪田寛夫さんはまどさんからこう聞きました。
あの歌は、動物が動物と して生かされていることを喜んでいる歌なのです。「お鼻が長いのね。」 と悪口を言われた象の子が、「いちばん好きなお母さんも長いのよ。」と誇りをもって答えたのは、象が象として生かされていることが、素晴らしいと思っているからなのです。(「『ぞうさん』 とまどさん」)
誰が好きなのと聞かれて「かあさんがすきなのよ」と答える二番の歌詞とあいまって、自分の生かされている命を素晴らしいと肯定する子象の姿が浮かび上がってきます。自分を「生かされている」身と捉えた上で、生きることの本質を、「ぞうさん」は私たちに語りかけているのです。

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初心忘るべからず 【吉峯 教範】

二十歳の成人式の夜、その流れで中学時代の同級生やその友人たちと夜遅くまで飲みながら語りあっていた時のことです。
yankee当時の流行だったツッパった暴走族風の格好をしたその中の一人が、「まあワシらも、若い頃にはいろいろ無茶なこともして随分親に迷惑もかけたけど、この歳になるまで無事におらいてもろえたがやもんな。喜ばいてもらわんなんぞいや(この年齢になるまで無事に娑婆に命をいただくことができたんだものな、感謝して喜ばさせていただかなければいけないなあ)。」としみじみと口にしたのです。

リーゼントでヤンキー風の兄ちゃんの口から、まるで篤信のお年寄が言うようなセリフが飛び出したことに滑稽さを感じるよりも、むしろこうした言葉が仲間内の会話の中で何気なく普通に出てきたことの方に私は強い衝撃を受けたのです。

当時私は大学で仏教の勉強していたのですが、自分も含めて当時の大学の友人同士の会話でそんな言葉が出てくるような場面には一度も出会ったこともなかったし、私自身そんなことを考えたことすらありませんでした。
土徳とでもいうのでしょうか、おそらく仏教の教えなど学んだこともない彼の口から、妙好人が話すような言葉が実感を伴ってサラッと出てきたのを耳にして、私はただただ恥じ入らずにはおられなかったのです。

そう、私は仏教の教義や歴史、文献ついての知識はあっても、仏教そのものがまるで我が身についていないということを思い知らされたのでありました。

「仏法は知りそうもない人が知るぞ」(蓮如上人聞書166)

後に、蓮如上人のこの言葉に出会った時、とっさにこの時の事が思い出されたものであります。

その後、大学を終えて帰省した私が更に驚かされたのが、地元の年老いた門信徒たちの姿でありました。
irori世間にあるような迷信を歯牙にもかけず、お念仏ひとつで習俗や民間信仰にも迷うことのないお年寄りたち。身内の葬儀の翌日に涼しげな顔で遺品を焼いておられる姿を見かけて驚く私に「おかげさんで結構なところへやらしていただいたんだから」と微笑み、「私も同じところへやらしていただけるがでしょう。ありがたいことです、なむまんだぶ、なむまんだぶつ」と笑顔で答える姿に、正直逆立ちしてもかなわないと感じたものです。
貧しい山の村故に、親や我が子の死を目前にしても(死亡診断書を書いてもらう時以外は)医者を呼ぶこともできず、生きるために親や子を見殺しにしてきたという思いを抱きながらお念仏と共に生きてきた人々。雪深い谷間で食うにも事欠く厳しいギリギリの日暮しの中、すべてをわが身に引き受けてお念仏ひとつを支えに生きてこられた人々。田畑でも道中でもお念仏申しつつ日暮を送る大地に根のはえたようなお念仏の姿に、ただただ驚かされるばかりでありました。
朝夕のお参りの和讃や御文の繰り読みは別にして、それ以外のお聖教は『歎異鈔』や『教行信証』すらほとんど読んだことも聞いたこともなかったであろう人々の深いお念仏のお領解のおすがたに、自分が大学で学んできたものは何だったのだろうかと、つくづくと思い知らされ、この名も無き一人一人の御同行の方たちこそ私の師とせねばならない方々だと痛感させられたものでした。

あれから、四半世紀。
いつの間にやら、そのようなお念仏申す人々は私の周りからは姿を消し、替わりに「死んだ人は今どこにいるんですか?」「阿弥陀様って本当におられるのですか?」「信じてさえいれば阿弥陀様がみんな救ってくださるんでしょ?」と尋ねられる御門徒さんたちを半ば小馬鹿にしたように高いところから見下して答えている私が取り残されておりました。

お釈迦様が説かれたお経に『四十二章経』という経典があります。
その中で、仏道を歩む上での20の困難な問題、たとえば「貧しくして施すことはむずかしく、慢心にして道を学ぶことはむずかしく、仏の教えを聞くことは難しく・・・」といった教えを示されているのですが、その第12番目に、「初心の人を軽んじないことはむずかしく」という言葉があります。

お恥ずかしいことに、まさに私の今の姿でありました。

考えてみれば、“家族を見殺しにせざるを得なかったような苦しみ”も衆生の苦悩ならば、“友引に葬儀を出すことが気になって夜も眠れぬ苦しみ”もまた衆生の苦悩でありました。
それを自分の勝手な物差しで、程度の高い苦悩だの低い苦悩だのと分別しては、御門徒さんの真摯な問いを初歩的なものと決めつけて鼻で笑っていた自分のなんと愚かなことであったか。人には「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(親鸞聖人御消息16)とお説教で話しながら、教義と知識だけで生きていた私でございました。
如来(お釈迦様)がこの世にあらわれて説いて下さった仏法は、「除苦悩法(苦悩を除くおしえ)」だと言われます。そのみ仏のお心から最も遠いところにいるのが私でありました。
まさに「初心忘るべからず」。五十歳となって迎えた今年こそ、あらためてこの思いで再スタートさせていただきたいと思います。

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ベテルギウスの光 【蕚 慶典】

orion冬の夜空をいろどる代表的な星座のオリオン座。日本ではその姿が「鼓星」といわれ、航海の目印になってきました。オリオンのベルトのあたる三連の星は、宗像三神や住吉三神であるともいわれて、月星の天体の運行と地上の生活が密接であった時代を知らせてくれます。
星の神話では、狩人オリオンは月の女神アルテミウスの想い人であったが、双子の太陽神・アポロンがそれをよく思わず、ある日海で泳ぐオリオンを海獣と偽って、弓の名手であるアルテミウスに射殺させてしまう。事実を知ったアルテミウスは悲しみに沈み月が見えなくなったのです。
父神ゼウスがこれを憐れみ、オリオンを天上に召してアルテミウス=月の通り道におき、二人が並んで夜空を運行するようにしたのだといわれます。
ところで、そのオリオンの右肩にあたる星、おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンで「冬の大三角」を構成するベテルギウスは、ひょっとしたらもう消滅しているかもしれない星なのです。実際地球上で、星の臨終=超新星爆発の光が観測された時には、本体は500光年から800光年かなたですから、その500年~800年前に消滅していることになります。
星でさえ無常の理の外ではないと、ベテルギウスの光が教えます。この宇宙の中で唯一変わらないものは、アミダー無限と名乗られて、はたらき続けられる如来さまの「本願力廻向」一つでありました。

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法話マップをリリースしました

map法話を検索した時に、この近くで他に法話は無いかなとか、自分の家の周りでどこで法話が行われているか一覧できたらいいなと思われることはありませんでしたでしょうか。この度GoogleMapを使って法話の情報を一覧できる『法話マップ』機能をリリースしました。知りたい月の法話の分布を地図上で見ることができます。

「法話マップ」

map2このマップ機能を使うと、地図上でどこで法話が開催されているかわかるのと、マーカーをクリックすることでその法話の詳細も見ることができます(更に吹き出しの中をクリックすると法話情報のページにジャンプします)。また、右にある都道府県のリストをクリックすると、都道府県ごとの絞込検索もできます。もちろんGoogleMapの機能として、拡大縮小や航空写真上での表示にも対応しています。見たい月を変えたい場合は、右上にある矢印をクリックして月を送って下さい。

システム上で法話の会所の位置を把握しているために、法話詳細ページから「近くの会所」も見られるようにもなりました。

尚、Googleのシステムの限界として、100%必ず正しい位置を示しているとは限りません。詳細ページの住所や会所の名称を見て、地図上の位置が正確かどうか判断して下さい。

どうぞご活用下さい。(開発担当 瓜生)

読売新聞で紹介されました

読売新聞京都版1月27日朝刊で、当サイトが紹介されました。ウェブ版へのリンクはこちらです。
yomiuri20140127以下記事記事本文ーーーーー

『法話聞きに来てHP 全国開催情報常時500件』

 宗教に親しむ機会を増やそうと、真宗大谷派(本山・東本願寺=下京区)や浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺=同)の若手僧侶らが、各宗派の法話情報を投稿・閲覧できるホームページ(HP)「浄土真宗の法話案内」を開設した。都道府県別に検索できる機能などを備えた本格的なHPで、常時約500件の情報を掲載。「誰もがいつでも法話を聞ける環境」を整えていく。(杉山正樹)

 浄土真宗では、法話を聞く「聞法」が重視され、諸派合わせて2万以上の寺院が年間10万回以上の法話を行っている。

 ただ、地域単位で顔なじみの人々が集まっていることが多い檀家(だんか)制度では、門信徒以外の人に寺側がどのように開催情報を発信するのか、ノウハウが見つけにくい現状がある。

 そうした中、2012年の冬、真宗大谷派玄照寺(滋賀県東近江市)の瓜生崇住職(39)が、インターネットで開催情報を発信する構想を会員制交流サイト「フェイスブック」に書き込むと、全国各地から「一緒にやりたい」との声が続々と寄せられた。

 その後、同サイトで連絡を取り合ってやりとりを重ね、システム開発やデザインを僧侶が考えた「お手製」のHP(http://shinshuhouwa.info/)が昨年10月に完成した。

 法話情報は、「本日の開催情報」「新着法話情報」「アクセスランキング」などに分けて掲載。一目で開催日が分かるカレンダーに加え、宗派や講師名から検索できる機能も設けた。

 情報の投稿もでき、ユーザー登録した後、メールで届いた様式に入力する。対象は同宗の本山か別院、教務所、末寺、関連団体の主催する法話や勉強会としている。

 反響は大きく、運用開始後、2000件以上の法話情報が掲載され、HPに賛同する僧侶らも府内外で100人を超えた。今後、スマートフォンやタブレット端末への対応、簡易投稿サイト「ツイッター」との連動も進め、「宗教離れ」が懸念される若い世代への利用拡大を目指す。

 事務局を担当する瓜生住職は「年間を通して法話がなされない日はほとんどない。縁のなかった人が『生きた宗教』に触れる機会にしたい」と話している。

(2014年1月27日 読売新聞)

菊は聞くなり 【青井 和成】

仏花(菊)仏壇に新しい花をお供えするため花屋などでセットになっているものを求めると大概菊の花が入っていますね。また菊の花はお葬式の花だと言って嫌う人もいるぐらいだそうです。そのことは極端というか行き過ぎですが、それだけよく仏華として菊がよく使われていたいうことなのでしょう。

昔、僧侶仲間が私に「なぜ仏華として菊がよく使われているか知っているか」と聞いてきたことがありました。私はわからないと答えたらその方は「本当は菊はキクでもこっちの菊なんだよ。仏教では聞くという事を大事にしてきたからなんだよと教えてくれました。

正直そのことは歴史的事実としては眉唾もの、嘘っぽくて疑わしいのですが、でもそういう説明もありかなっとも感じたのです。そのことは嘘でもそういう意味だと思ってこれからお供えして行くことは大事なことだと思ったのです。

多分この文章を読んだ皆さんも仏華としてお供えしていある菊の花を見て「菊は聞くなり」と思い出して浄土真宗の大事は聞法だと確認なされていくことでしょう。

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華やかさのかげで 【菅原 昭生】

あの水戸の黄門さま(徳川光圀)が、こんな歌を詠んでいます。

      ただ見れば     何の苦もなき水鳥の
      足に閑(ひま)なき     わが思ひかな

swan

湖面を滑るように泳ぎながら優雅な姿を見せる白鳥も、水面の下では、休むことなく足ひれを動かしている…。

つまり、外(側)からみれば、楽(簡単)そうに見えることでも、その影(裏) には他人の知らない苦労(努力)があるという意味でしょう。

米国野球で活躍しているイチロー選手は、他の選手ならとても追い着きそうもない打球をさり気なく、いとも簡単そうに捕球すると聞いたことがあります。それは、抜群に素早いスタート、的確な判断、鍛え抜かれた瞬発力に裏付けられたものです。

しかし、それを得るためにイチロー選手が平生から積み重ねている不断の努力を私たちは目にすることはありません。影の努力(苦労)が、大きければ大きいほど、表舞台はかえって 平然と見えるのかもしれませんね。(その反対もあると思いますが…。)

ところが、私たちは どうしても他人を自分の見える範囲で判断してしまいます。そのくせ、反対に他人が自分のことを、上辺だけで決めつけようとすれば、「何も知らないくせに…」と腹が立ちます。

思えば、葬儀の会葬者が故人の人生に対して、「幸せだった」とか「気の毒だった」と無責任に評することも要らぬお世話でしょう。人はだれも、他人に知られることのない苦しみ・悲しみを抱えて生きています。ただ、それを言わないだけ。聞かれたくないだけ。

仏さまは、人知れず苦しみ悩む私を知りぬいた上で、「何も言わなくていい。わかっているよ」と、ただ、黙って寄り添っていて下さいます。だから、こんな自分でも前を向いて歩いていけます。強くなくてもいい、立派でなくてもいい…そのままでいいと抱いていて下さるのですから。

笑顔の下に隠された涙…。さりげない言葉・仕草の中に込められた 優しさ。華やかさのかげにつつまれた悲しみ・苦しみは、その人生に深みと愛おしさを感じさせてくれるのかもしれません。

【執筆者はこちら】

浄土真宗のなかまによる連載コラム