こんにちは。この原稿を書いているのは12月の初頭。初雪が降るか降らないかのまさに「冬本番」です。
毎日色々なことがありますが、私たちの人生ってどちらかというと「嫌なこと」や「辛いこと」のほうが多くないですか??
かくいう私も、生まれ育った土地で過ごし、お坊さんとして生活していると良いこともありますが、やはり「嫌なこと」や「辛いこと」も
たくさんあります。
例えば人間関係。田舎で過ごしているとどうしてもお会いする方は限られてきますし、自宅=職場ですので、家族とも長い時間を共にしています。
皆仲良くニコニコ暮らしていければいいのですが、そこは煩悩丸出しの凡夫。やはりケンカしたりうまく噛み合わなかったり。
他にも息子の将来のこと、健康のこと、これからのお寺の事…
悩みのタネは360℃、どこにでも転がっています。
私達はつらい事や悲しい事があってくじけそうになると、「目の前が真っ暗」になります。そしてそれが長引くと、ずーーっと真っ暗闇。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
中国の曇鸞大師がこんな例え話を説かれています。
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、
すなはち明朗なるがごとし。
すなはち明朗なるがごとし。
闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
(教行信証・信巻)
(教行信証・信巻)
–現代語訳–
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるの です。
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このお話を聞くと、「一筋の光で目の前がバーッと明るくなった」というイメージになります。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
「一筋の光でバーッと明るくなったとかいう話ではなく、これは光が差し込んだことによって『あぁ、自分は闇の中にいたのだなぁ』と気づかされたという
意味ではないですか?」
なるほど。
確かに千年もの間、真っ暗だった部屋がイッペンポンで明るくなるというのも中々解せない。
それよりも、「そうか、今まで自分は暗闇にいたのか」と気づく方が何だか大切なことを教わっているような気がするのは私だけでしょうか?
そもそも生まれてから死ぬまで暗闇にいたのなら、光を知らないまま一生を終えることになる。
空しく一生を終えることとなる。
別にバーッと明るくなる必要もない。よーく目を凝らしていけば暗闇にも慣れてくるし、その部屋が狭いのか広いのかもよくわかる。
私達は「救われた」というのをどことなく「バーッと目の前が開ける」ようなイメージを持ってはいないでしょうか。
少し乱暴な言い方ですが、どんなに尊い教えを聴いたって自分の悩みは解決しません。暗闇は暗闇のまんま。
だけど、「真っ暗闇でシアワセ」な生き方、暗闇と仲良く付き合っていけそうな生き方が見つかれば、それはそれで「救われた」と感じられないでしょうか。
『はい、僕は悩みで目の前が真っ暗です。これからもそうでしょう。でもナンマンダブツで平気です。』
そんな生き方が出来たら素晴らしいなぁと思うのですが、如何でしょうか??
(ある意味、ただの「開き直り」とも言えますが…(^_^;))