きかんしゃトーマスと極楽浄土 【小林智光】

私には1歳7ヶ月になる息子がいます。
この息子が『きかんしゃトーマス』が大好きで、よく観ています。
そして一緒になって観ているうちに親である私もすっかりハマってしまいました。

thomasこのアニメには色々な機関車がキャラクターとして出てきます。
パワフルな機関車、スピードの出る機関車、小回りのきく機関車、美しい機関車…
それぞれに性格があるのですが、時には「無いものねだり」をする機関車がいます。
小さな機関車が重い貨物を引っ張ってみたり、大きな機関車が無理やり狭い小路に入ってみたり…
それぞれの機関車は自分に無い能力を憂い、他の機関車のマネをしようとします。
しかし結局は失敗に終わり、周囲の困った顔や助言で「自分は自分のままで大切な役割のある機関車なんだ!」と
気づいていきます。

『佛説阿弥陀経』には


しょうしきしょうこう
青色青光
おうしきおうこう
黄色黄光
しゃくしきしゃっこう
赤色赤光
びゃくしきびゃっこう
白色白光

という一文があります。
自分は自分のままの色で輝く。他の色になる必要はないのです。浄土とはそういう「そのまま」の世界です。
南無阿弥陀仏の み教えは、何か形が変わったりどこかの世界に行ったりするようなものではありません。

死んで助かる教えでなく
生きてはたらくこの世から

今、まさにこの瞬間から「あなたのまま」と信じて両の手を合わせてまいりましょう。

南無阿弥陀仏

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ひそかな楽しみ 【蕚 慶典】

インターネットの普及で、メディアの世界が大きく変わりました。今までテレビで見ていたものやレンタルで借りていたものが、動画とくくられPC上ですぐに手に入るようになりました。生中継としてライブでいろいろなイベントが見られたり、過去のものも検索して見つけることが容易です。読書と視聴の幅がうんと広がっています。

そんな中で、「ひそかな楽しみ」があるのです。それは閲覧できる様々な表現の中に、ほのかであっても「仏教や真宗の味わい」を見出し感じ取ることです。
akb48たとえば 「AKB48」を「A=あみださまが、K=きっと B=ブッダにするぞ との48願」と読むのです。NMB48は明らかに「NMB=南無阿弥陀仏、48願」と読むのでしょう(笑)。わざとらしくてもいいのです、テイストですから。

若い人たちが支持するアイドルやミュージシャンの歌やダンスにも、生老病死や無常を説いたフレーズがあったりして、「おお」と驚くこともあります。バリバリのロックバンドに阿弥陀さまのおはたらきを思わせる世界を感じ取ることができたりもするのです。

さらに、ドラマや映画のシーン。お葬式に法事、墓参り。お寺やお仏壇にお墓が映ると、ブディストアンテナがびんびんになります。「このお仏壇はお西!」「ああ、 御文章を読んだはるがな」「ははん、わざと真ん中に位牌をおいて撮影して、宗旨をごまかしとるな」「けったいな僧侶の格好やなあ、どの宗派かわからんようにという配慮か」「うむ、1カット写った墓標に釈○○と法名があるからこの家は真宗である」……等々。

時には推理を加えて、本筋とは関係ない人物や家族の背景を想像して楽しみます。耳を澄まして、「おお。これは阿弥陀経だ」「ありゃ、正信偈さんやないか」と、寺内のもので盛り上がったりします。 お経さまの世界の浸透や広がりを感じ、一人ほっこりすることもしばしばです。また、お説教の話題にもなって一挙両得?でもあります。

あなたもひそかに、この楽しみに参加しませんか?

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任せるということ 【山岸 幸夫】

reikyuusya霊柩車の運転を、タクシードライバーさんがなさることがあるのだそうです。
霊柩車は大きくて、取り回しがむずかしいですから、プロの運転手さんが運転してくださる方が安心なわけです。
ですが、当の運転手さんにしてみれば、業務命令だから運転しているんだけど、本当は怖かったんだそうです。それで思いあまって同席のお坊さんに打ち明けたそうです。「怖いんですけど」って。
そうしたら、そのお坊さんが言うには、
「どんな人も、この間亡くなりましたので、焼いてくださいといって来る人はいませんよ。だれかにお任せしないと死んでいくこともできないんですよ。その人生最後のお手伝いを、どんなご縁か、他人のあなたがなさっておられる。こんな尊いことがありますか。亡くなった方が、あなたにありがとうと言っているように思いますよ。」
そのお話を聞いて、ドライバーさんは、
「自分の仕事に誇りがもてるようになりました。」とおっしゃったんです。
私がよいお話しをお聞かせいただきました。

亡くなっていくときはそうですが、生まれて来たときはどうでしょうか。
赤ちゃんって、自分ではオッパイ飲めないんですよね。お母さんがだっこしてくれてはじめてオッパイが飲めるし、げっぷだって、お母さんが背中をトントンしてくれないとできない、何もかもお母さんにお任せしないと生きていけないんですよね。
でも大きくなるにつれて、いろんなことを任されるようになります。
お留守番、お使いにはじまって、大人になると仕事を任されたり、部下や会社や、人によっては国を任されたりしますよね。ホントにまかせていいのかなって人もいますけど。
私たちって、どうやら任されることに成長を感じるみたいですね。人から認められたいのでしょうね、いろんなことができるということを。

ところが、任せていくということになると、なかなかやっかいですね。後輩に仕事を任せるにしても、手順が自分のやり方とは違っていたりとか、ましてや結果が期待していたものと違っていたりすると、「任せちゃおれん」となりがちですよね。
子供たちも大きくなって、ご飯やお洗濯やお掃除のお手伝いをしてくれるようになると、手伝ってくれること自体は嬉しいですけど、やらせてみたら大変ですよね。一人でやった方がよっぽど早くてきれいですし。
しかも子供たちはそんなこと憶えちゃいません。自分一人で大きくなったみたいな顔してね。ホントに、任せるって難しいですね。

しかし、私たちは「任される」ことに成長を感じるとしたら、「任せる」ことができてこそ、人として成熟したと言えるのではないでしょうか。
そして、本当の意味での安心、あるいは安堵ということを考えるとき、この私そのものをおまかせする拠り所(よりどころ)がありますか、ということを問われているように思うのです。
このことに対して、阿弥陀さまは、「生きとし生けるものを私の国に生まれさせずにはおれないのだ」そんな願いをかけてくださっておられるのです。

「ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ」
「あみださまにおまかせなさい」親鸞さまはそうおっしゃいます。

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限りなき道を共に 【畠山 浄】

どれだけ頑張ってみても、老いと病と死の苦しみからは逃れることはできません。戦争や圧政、経済格差などによってこの世にあふれる愁い嘆く声も限りがありません。だからこそ私たちは道を求めずにはおれないのですが、道を求めているにも関わらずかえってお互いを傷つけあってかえって迷いを深くしていっているのが私たちが開いている世界のすがたではないでしょうか。

そんな私たちのすがたを悲しんでくださって阿弥陀さまは、苦しみ悲しみにおしつぶされてうごめいている私たちに南無阿弥陀仏という声となってはたらいてくださるのです。受けとめてくださっているのです。娑婆の苦しみには限りがないからこそ、南無阿弥陀仏と今ここで悲しみの中に立ち上がり、未来へと歩む力をたまわるのです。

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阿弥陀さまの真(まこと)が、私の上に南無阿弥陀仏と実(みのり)になる。真実を宗(むね)として生きていく私が誕生するのです。真宗門徒の誕生です。南無阿弥陀仏とご信心をたまわり、阿弥陀さまのお浄土への往生の道を歩かせていただくのです。

人間が人間として実っていくことを願って。未来のいのちが清らかならんことを願って。どこまで歩めるかとか結果が出るかどうかとかは関係ありません。自分一人救われる道ではなく、同じ願われてあるいのちとして他者と共に生きていくことを願いとする道なのですから。この世のありとあらゆるのいのち生きるものが皆、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と浄土を願わずにはおれんいのちを生きている、そんな世界をたまわって生きる。限りなき終わりなき道を共に歩んで往くのです。

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ぞうきん 【藤堂尚夫】

ぞうきん最近は、ぞうきんを絞って掃除をしているという方は少なくなってしまったのでしょうか。掃除機?モップ?化学ぞうきん?あなたは、何を使って掃除をしておられますか?
ぞうきんで掃除をするという機会は少なくなったかもしれませんが、ぞうきんは私たちに大切なことを教えてくれているようです。「ぞうきん」と題された一編の詩があります。

ぞうきん

ぞうきんは
他のよごれを
いっしょけんめい拭いて
自分は よごれにまみれている
(榎本栄一 『群生海』)

ぞうきんはほかの汚れをきれいにぬぐい去ってくれます。しかし、ぞうきん自体はぬぐうたびに、どんどんよごれにまみれてしまいます。
ほかの物をきれいにし、光らせるために自分の身をよごす、このぞうきんのあり方は、なかなか私たちにまねのできるものではありません。
仏教では「利他」ということを大切にします。知らず知らずのうちに、私たちは煩悩を起こし、よごれにまみれていきます。自分のことしか考えない、というのは、私たちの日常の姿なのでしょう。そういうわが身ではありますが、「他」を利するということを意識すると、普段気がつかないでいる自分のよごれに気がつくのではないでしょうか。
そのよごれを気づかせてくださるのが「阿弥陀様のみ光」。ぞうきんという存在は、私たちに「阿弥陀様」のあり方を教えてくれているのかもしれません。そしてそのことを知ったとき、私たちは「南無阿弥陀仏」とお応えしたいものですね。

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アンパンマンとあみださま 【朝戸臣統】

anpanmannアンパンマンは、自分の顔を食べさせるという異色のヒーローです。そんなアンパンマンが大好きな子どもたちは、彼を通して大切なことを学びます。生みの親であるやなせたかしさんは、「困っている人、お腹が空いている人を助けることが正義です。正義は、自分を犠牲にする痛みが伴うのです。」というメッセージを、アンパンマンに託されたのだとお聞きしました。
私が手を合わせるあみださまは、「苦悩・煩悩を抱えて生きているあなたを、必ず救って仏と成らせるぞ。」という願いを私に届けてくださいます。法然さまや親鸞さまは、真実の救いのはたらきがあみださまとなり、この世におしゃかさまを誕生させて、私たちにその救いを明らかにされたと受け止めていかれました。真実の救いである、あみださまの願いが先にあり、この世におしゃかさまを誕生させてくださった。だから、おしゃかさまがこの世を去られても、あみださまの救いは苦悩を抱えたこの私に届き続けるのです。
もしかしたら、正義のメッセージがアンパンマンとなり、この世にやなせたかしさんを誕生させて、子どもたちに姿を現してくださったのかも知れません。やなせたかしさんはこの世を去りましたが、アンパンマンは子どもたちに正義のメッセージを伝え続けるのです。

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浄土真宗のなかまによる連載コラム