京都新聞で紹介されました

京都新聞の2014年1月9日夕刊にて「真宗法話サイト」が紹介されました。ウェブ版はこちらをご覧ください
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以下本文ーーーーーー
『法話案内をネットで配信 浄土真宗若手僧侶ら』

 全国の浄土真宗系の寺院で行われる法話の開催予定を掲載したインターネットの情報サイト「浄土真宗の法話案内」を、同宗の若手僧侶たちが開設した。「誰もがいつでも聞きに行ける法話の身近さをアピールしたい」としている。

 浄土真宗は、親鸞を開祖とする国内最大級の仏教宗旨。現在、浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など代表的な10宗派と諸派に分かれ、全国に2万カ寺以上ある。

 サイトを立ち上げたのは東近江市の玄照寺住職瓜生崇さん(39)を中心とする若手僧侶11人。2012年末から準備にかかり、13年11月下旬から本格運用を始めた。画面のデザインやシステム構築など全て手づくりだ。

 掲載する情報は、浄土真宗の各派の寺院や大学、会館などで開かれている法話や講演で、開催日や講師、地域などから簡単に検索できる。情報の入力は、主に法話の主催者側が行い、毎日約10~20件の更新があるという。

 瓜生さんは「仏教といえば葬式や法事と思われがちだが、法話も毎日、どこかで開かれている。若者ら仏教に関心が低い人たちにも、人生の悩みや苦しみに応えられる力がまだあることを知ってもらう契機にしたい」と話している。

医者に癌だと言われて思い出したこと 【吉峯 教範】

先日、胃癌で胃を全摘しなければならないとお医者さんに言われた時、ふと二十代に読んだ次の様な話を思い出しました。

 

座禅

ある高僧が臨終間近になった時、集まった弟子や信徒たちが師に向かってこう言った。
「老師よ、師の業績はまことに多岐に渡り、また大勢の弟子を育てられ、その功績は頗るございます。師を慕う一同で老師を讃える碑を建立したいと存じますので、御自身の御生涯を顕すことのできるような句を一句お遺しください。
すると、老師は即座に次のような句を読んだ。
「食って寝て、起きたら出して、また食って、時々屁をひく糞袋」

長年立派に寺を守り、弟子を育てただけでなく、橋を架け、道を整え、大勢の貧民の救済なども行った立派な老師が、自身の生涯を振り返って詠んだ歌が、「食って寝て 起きたら出して また食って・・・」というこの歌だったという話で、若い頃に読んでとても印象に残っておりました

言われてみればそのとおり、どんな人でも一生50年乃至100年の間、一体何をしてきたのかといえば、確かに食って 寝て 出しての三つが最も多く時間と労力を割いて成してきたことであることに間違いはありません。
仕事だの学問だの趣味だの生き甲斐だのと言っても、所詮はその合間に屁をしていた程度のものであるとは、流石だなと感心したことです。
一生かかって食べたものを糞に変える仕事を続けてきたのが「生きる」ということに他ならない。
あるがままを あるがままに見る とはそういうことなのかな。
息を吸って、またそれを吐く。ただ当たり前のようなそれだけのことが実は有難い。尊いことなのだなと、あらためて気づかさせて頂いたような気がしました。

うさぎ喜ぶべきことを なかなか喜ぶことができずに 苦しむ私たちを、憐れみ 哀しみ 慈しんでは、なんとかその苦悩を除きたい、たすけたいと呼ばずにはおられない、願わずにはおられないという みほとけの切なるお心が南无阿弥陀佛の親心なのでしょうね。
もったいないことです。
南无阿弥陀佛。

【執筆者はこちら】

サーバーメンテナンスのお知らせ

平素より法話情報の地道なアップなど当サイトの運営にご協力頂きまして有難うございます。
開設以来順調にアクセスが伸びており、当初使っていたサーバーでは今後の運営に支障の出るおそれが出てきました。
つきましては本日の夜、サーバーの移転作業を行います。それに伴いまして、1月3日夜10時より翌朝6時まで一時的に法話情報の入力ができなくなります。ご了承下さい。(閲覧は可能です)
今年はTwitterとの連動や、他サイトへの組み込み機能、スマートフォンでの閲覧機能など、様々な機能強化を予定しております。
これからも「浄土真宗の法話案内」をよろしくお願いいたします。

開発担当 瓜生

お寺にお参りください! 【平井 裕善】

ochoumonn 「どうぞ、お寺にお参りください」

とお誘いしても、お寺にご縁の無い方にはわかりにくかもしれません。もう少し具体的に
 「お寺にお参りして、◯◯しましょう!」
とお誘いする方がわかりやすいですよね。では、この◯◯に何を入れましょう?

 「お寺に参って、仏に成りましょう!」
とお誘いするのが正解のような気がしますが、ちょっと壮大すぎますね。初めて聞く人なら引いてしまわれるでしょう。

浄土真宗のお寺は「お念仏のみ教えを伝える」ための道場です。読経も、本堂のお飾りもすべてそのためです。その中で聞くお話が「法話」です。
法話は仏さまの話です。仏様のお話を聞くと、「心あたたまる、深い話で、癒やされるんですよね!」と思われる方がおられることでしょう。心あたたまる話もたくさんありますが、なかには自分の身の浅ましさ、醜さ、愚かさを突きつけられ、思わず息が止まるような思いをする話もあります。そういった自分の身のどうしようもない愚かさと同時に、それを目当てとして救う阿弥陀さまの「お心」や「おはたらき」、そしてそういった事すべてが南無阿弥陀仏のお念仏としてこの私の身に届いていることをお聞かせいただくのです。それを【聴聞(ちょうもん)】といいます。

浄土真宗ではその聴聞こそが大切なことですから、
「お寺にお参りして、お聴聞しましょう!」
というお誘いが良いかなぁと思います。さらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すことも強調したいことです。ですので、
「お寺にお参りして、お聴聞され、『南無阿弥陀仏』と申しましょう!」
という誘い文句はいかがでしょう。ちょっと長すぎるでしょうか。それなら、
「お寺に参って、お念仏しましょう」
とする方がすっきりします。

確かに「なんまんだぶ」のお念仏は、どこでも、いつでもできます。私の所へ「なんまんだぶ」と声の仏さまになって届き、はたらいてくださっているのですから。
一人でお念仏することもできます。しかし、お寺にお参りいただき、荘厳な雰囲気の中でおつとめをし、お念仏のいわれのお話を聞いて「なんまんだぶ」とお念仏することのよろこびを共に味わいたいのです。日常の生活の中では「なんまんだぶ」となかなか口に出すことができない人にこそ、そういう雰囲気の中でお念仏することをお誘いしたいのです。

そんなことを思いながら、しばらくの間のお誘いの文句は、
「お寺に参って、お念仏しましょう!」
でいきたいと思っているのです。なんまんだぶつ。

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声と共に生まれ、生きる仏 【國分 大慶】

赤ちゃん人間は産まれてくる時には必ず産声を上げます。赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる時は、羊水に浸かり、へその緒を通じて酸素と栄養を供給されています。やがて月が満ち時を迎えると、産道を通ってこの世に生み出されます。その時に、それまで肺の中を満たしていた羊水が鳴き声と共に押し出され、肺の中を血液がめぐるようになり、自発的な呼吸を始めるそうです。
「いのち」という言葉は「いきのち」という言葉がその語源だと聞いています。息をし、血が巡っているということが命が生きているということを表わすことに由来しているのでしょう。
悲惨な災害現場では、言葉になっていなくても「う~ん」という呻き声がすれば、生存者がいると認識され、早速、救出作業が始められます。つまり、声が生きていることを具体的に表しているわけです。
従って、我々に先だって亡くなった人は身は滅びても、後に残った人が姿や言葉・声を思い出す時、亡くなった人は後に残った人の心の中に生きて現れていると言えます。また、たとえその人の声はなくても、後に残った人に言葉を発させます。
南無阿弥陀仏の声は、私達の声を通じて、いつでもどこでも誰のいのちにも寄り添うことを願われた仏自らが現れたということができるでしょう。

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クリスマス 【青井 和成】

christmas12月に入ると、たまに「お寺さんはクリスマスをしないのですか?」と聞かれることがあります。その時は、私は「はい、仏教徒だからしません。」と答えることに最近してます。私の息子も、保育に通っている時「サンタクロースは来るかなぁ?」と聞いてきたこともあります。その時は「クリスチャンでないからこないんだよ。」と応えました。
私は、クリスマスをしないのは「仏教徒だから」という理由もあるのですけど、もう一つあるのです。それは、失礼な言い方になるかもしれませんが、クリスマスだと言って馬鹿騒ぎをしていること、ただプレゼントを贈ったり要求している、あの様子が何か疑問に思うのです。クリスマスだと騒いでいる割には、キリスト教のこと、イエスキリストのことを知ろうともしない有様が嫌というか、失礼なような気がしてならないのです。キリスト教徒の方に対して失礼な行為をしている気がしてならないのです。
だから、仏教でない他の宗教の行事だからクリスマスをしないというよりは、宗教者として日本のクリスマスのありようが好きになれないのです。自分がクリスマスパーティーを開くことはあり得ないことでしょうが、もし、友人であってキリストの教えを大事にしている方が「クリスマスをするからおいでよ」って誘ってくれることがあったのならば、参加しようかと思っているのです。

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きかんしゃトーマスと極楽浄土 【小林智光】

私には1歳7ヶ月になる息子がいます。
この息子が『きかんしゃトーマス』が大好きで、よく観ています。
そして一緒になって観ているうちに親である私もすっかりハマってしまいました。

thomasこのアニメには色々な機関車がキャラクターとして出てきます。
パワフルな機関車、スピードの出る機関車、小回りのきく機関車、美しい機関車…
それぞれに性格があるのですが、時には「無いものねだり」をする機関車がいます。
小さな機関車が重い貨物を引っ張ってみたり、大きな機関車が無理やり狭い小路に入ってみたり…
それぞれの機関車は自分に無い能力を憂い、他の機関車のマネをしようとします。
しかし結局は失敗に終わり、周囲の困った顔や助言で「自分は自分のままで大切な役割のある機関車なんだ!」と
気づいていきます。

『佛説阿弥陀経』には


しょうしきしょうこう
青色青光
おうしきおうこう
黄色黄光
しゃくしきしゃっこう
赤色赤光
びゃくしきびゃっこう
白色白光

という一文があります。
自分は自分のままの色で輝く。他の色になる必要はないのです。浄土とはそういう「そのまま」の世界です。
南無阿弥陀仏の み教えは、何か形が変わったりどこかの世界に行ったりするようなものではありません。

死んで助かる教えでなく
生きてはたらくこの世から

今、まさにこの瞬間から「あなたのまま」と信じて両の手を合わせてまいりましょう。

南無阿弥陀仏

【執筆者はこちら】

ひそかな楽しみ 【蕚 慶典】

インターネットの普及で、メディアの世界が大きく変わりました。今までテレビで見ていたものやレンタルで借りていたものが、動画とくくられPC上ですぐに手に入るようになりました。生中継としてライブでいろいろなイベントが見られたり、過去のものも検索して見つけることが容易です。読書と視聴の幅がうんと広がっています。

そんな中で、「ひそかな楽しみ」があるのです。それは閲覧できる様々な表現の中に、ほのかであっても「仏教や真宗の味わい」を見出し感じ取ることです。
akb48たとえば 「AKB48」を「A=あみださまが、K=きっと B=ブッダにするぞ との48願」と読むのです。NMB48は明らかに「NMB=南無阿弥陀仏、48願」と読むのでしょう(笑)。わざとらしくてもいいのです、テイストですから。

若い人たちが支持するアイドルやミュージシャンの歌やダンスにも、生老病死や無常を説いたフレーズがあったりして、「おお」と驚くこともあります。バリバリのロックバンドに阿弥陀さまのおはたらきを思わせる世界を感じ取ることができたりもするのです。

さらに、ドラマや映画のシーン。お葬式に法事、墓参り。お寺やお仏壇にお墓が映ると、ブディストアンテナがびんびんになります。「このお仏壇はお西!」「ああ、 御文章を読んだはるがな」「ははん、わざと真ん中に位牌をおいて撮影して、宗旨をごまかしとるな」「けったいな僧侶の格好やなあ、どの宗派かわからんようにという配慮か」「うむ、1カット写った墓標に釈○○と法名があるからこの家は真宗である」……等々。

時には推理を加えて、本筋とは関係ない人物や家族の背景を想像して楽しみます。耳を澄まして、「おお。これは阿弥陀経だ」「ありゃ、正信偈さんやないか」と、寺内のもので盛り上がったりします。 お経さまの世界の浸透や広がりを感じ、一人ほっこりすることもしばしばです。また、お説教の話題にもなって一挙両得?でもあります。

あなたもひそかに、この楽しみに参加しませんか?

【執筆者はこちら】

任せるということ 【山岸 幸夫】

reikyuusya霊柩車の運転を、タクシードライバーさんがなさることがあるのだそうです。
霊柩車は大きくて、取り回しがむずかしいですから、プロの運転手さんが運転してくださる方が安心なわけです。
ですが、当の運転手さんにしてみれば、業務命令だから運転しているんだけど、本当は怖かったんだそうです。それで思いあまって同席のお坊さんに打ち明けたそうです。「怖いんですけど」って。
そうしたら、そのお坊さんが言うには、
「どんな人も、この間亡くなりましたので、焼いてくださいといって来る人はいませんよ。だれかにお任せしないと死んでいくこともできないんですよ。その人生最後のお手伝いを、どんなご縁か、他人のあなたがなさっておられる。こんな尊いことがありますか。亡くなった方が、あなたにありがとうと言っているように思いますよ。」
そのお話を聞いて、ドライバーさんは、
「自分の仕事に誇りがもてるようになりました。」とおっしゃったんです。
私がよいお話しをお聞かせいただきました。

亡くなっていくときはそうですが、生まれて来たときはどうでしょうか。
赤ちゃんって、自分ではオッパイ飲めないんですよね。お母さんがだっこしてくれてはじめてオッパイが飲めるし、げっぷだって、お母さんが背中をトントンしてくれないとできない、何もかもお母さんにお任せしないと生きていけないんですよね。
でも大きくなるにつれて、いろんなことを任されるようになります。
お留守番、お使いにはじまって、大人になると仕事を任されたり、部下や会社や、人によっては国を任されたりしますよね。ホントにまかせていいのかなって人もいますけど。
私たちって、どうやら任されることに成長を感じるみたいですね。人から認められたいのでしょうね、いろんなことができるということを。

ところが、任せていくということになると、なかなかやっかいですね。後輩に仕事を任せるにしても、手順が自分のやり方とは違っていたりとか、ましてや結果が期待していたものと違っていたりすると、「任せちゃおれん」となりがちですよね。
子供たちも大きくなって、ご飯やお洗濯やお掃除のお手伝いをしてくれるようになると、手伝ってくれること自体は嬉しいですけど、やらせてみたら大変ですよね。一人でやった方がよっぽど早くてきれいですし。
しかも子供たちはそんなこと憶えちゃいません。自分一人で大きくなったみたいな顔してね。ホントに、任せるって難しいですね。

しかし、私たちは「任される」ことに成長を感じるとしたら、「任せる」ことができてこそ、人として成熟したと言えるのではないでしょうか。
そして、本当の意味での安心、あるいは安堵ということを考えるとき、この私そのものをおまかせする拠り所(よりどころ)がありますか、ということを問われているように思うのです。
このことに対して、阿弥陀さまは、「生きとし生けるものを私の国に生まれさせずにはおれないのだ」そんな願いをかけてくださっておられるのです。

「ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ」
「あみださまにおまかせなさい」親鸞さまはそうおっしゃいます。

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限りなき道を共に 【畠山 浄】

どれだけ頑張ってみても、老いと病と死の苦しみからは逃れることはできません。戦争や圧政、経済格差などによってこの世にあふれる愁い嘆く声も限りがありません。だからこそ私たちは道を求めずにはおれないのですが、道を求めているにも関わらずかえってお互いを傷つけあってかえって迷いを深くしていっているのが私たちが開いている世界のすがたではないでしょうか。

そんな私たちのすがたを悲しんでくださって阿弥陀さまは、苦しみ悲しみにおしつぶされてうごめいている私たちに南無阿弥陀仏という声となってはたらいてくださるのです。受けとめてくださっているのです。娑婆の苦しみには限りがないからこそ、南無阿弥陀仏と今ここで悲しみの中に立ち上がり、未来へと歩む力をたまわるのです。

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阿弥陀さまの真(まこと)が、私の上に南無阿弥陀仏と実(みのり)になる。真実を宗(むね)として生きていく私が誕生するのです。真宗門徒の誕生です。南無阿弥陀仏とご信心をたまわり、阿弥陀さまのお浄土への往生の道を歩かせていただくのです。

人間が人間として実っていくことを願って。未来のいのちが清らかならんことを願って。どこまで歩めるかとか結果が出るかどうかとかは関係ありません。自分一人救われる道ではなく、同じ願われてあるいのちとして他者と共に生きていくことを願いとする道なのですから。この世のありとあらゆるのいのち生きるものが皆、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と浄土を願わずにはおれんいのちを生きている、そんな世界をたまわって生きる。限りなき終わりなき道を共に歩んで往くのです。

【執筆者はこちら】

浄土真宗のなかまによる連載コラム