限りなき道を共に 【畠山 浄】

どれだけ頑張ってみても、老いと病と死の苦しみからは逃れることはできません。戦争や圧政、経済格差などによってこの世にあふれる愁い嘆く声も限りがありません。だからこそ私たちは道を求めずにはおれないのですが、道を求めているにも関わらずかえってお互いを傷つけあってかえって迷いを深くしていっているのが私たちが開いている世界のすがたではないでしょうか。

そんな私たちのすがたを悲しんでくださって阿弥陀さまは、苦しみ悲しみにおしつぶされてうごめいている私たちに南無阿弥陀仏という声となってはたらいてくださるのです。受けとめてくださっているのです。娑婆の苦しみには限りがないからこそ、南無阿弥陀仏と今ここで悲しみの中に立ち上がり、未来へと歩む力をたまわるのです。

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阿弥陀さまの真(まこと)が、私の上に南無阿弥陀仏と実(みのり)になる。真実を宗(むね)として生きていく私が誕生するのです。真宗門徒の誕生です。南無阿弥陀仏とご信心をたまわり、阿弥陀さまのお浄土への往生の道を歩かせていただくのです。

人間が人間として実っていくことを願って。未来のいのちが清らかならんことを願って。どこまで歩めるかとか結果が出るかどうかとかは関係ありません。自分一人救われる道ではなく、同じ願われてあるいのちとして他者と共に生きていくことを願いとする道なのですから。この世のありとあらゆるのいのち生きるものが皆、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と浄土を願わずにはおれんいのちを生きている、そんな世界をたまわって生きる。限りなき終わりなき道を共に歩んで往くのです。

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ぞうきん 【藤堂尚夫】

ぞうきん最近は、ぞうきんを絞って掃除をしているという方は少なくなってしまったのでしょうか。掃除機?モップ?化学ぞうきん?あなたは、何を使って掃除をしておられますか?
ぞうきんで掃除をするという機会は少なくなったかもしれませんが、ぞうきんは私たちに大切なことを教えてくれているようです。「ぞうきん」と題された一編の詩があります。

ぞうきん

ぞうきんは
他のよごれを
いっしょけんめい拭いて
自分は よごれにまみれている
(榎本栄一 『群生海』)

ぞうきんはほかの汚れをきれいにぬぐい去ってくれます。しかし、ぞうきん自体はぬぐうたびに、どんどんよごれにまみれてしまいます。
ほかの物をきれいにし、光らせるために自分の身をよごす、このぞうきんのあり方は、なかなか私たちにまねのできるものではありません。
仏教では「利他」ということを大切にします。知らず知らずのうちに、私たちは煩悩を起こし、よごれにまみれていきます。自分のことしか考えない、というのは、私たちの日常の姿なのでしょう。そういうわが身ではありますが、「他」を利するということを意識すると、普段気がつかないでいる自分のよごれに気がつくのではないでしょうか。
そのよごれを気づかせてくださるのが「阿弥陀様のみ光」。ぞうきんという存在は、私たちに「阿弥陀様」のあり方を教えてくれているのかもしれません。そしてそのことを知ったとき、私たちは「南無阿弥陀仏」とお応えしたいものですね。

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アンパンマンとあみださま 【朝戸臣統】

anpanmannアンパンマンは、自分の顔を食べさせるという異色のヒーローです。そんなアンパンマンが大好きな子どもたちは、彼を通して大切なことを学びます。生みの親であるやなせたかしさんは、「困っている人、お腹が空いている人を助けることが正義です。正義は、自分を犠牲にする痛みが伴うのです。」というメッセージを、アンパンマンに託されたのだとお聞きしました。
私が手を合わせるあみださまは、「苦悩・煩悩を抱えて生きているあなたを、必ず救って仏と成らせるぞ。」という願いを私に届けてくださいます。法然さまや親鸞さまは、真実の救いのはたらきがあみださまとなり、この世におしゃかさまを誕生させて、私たちにその救いを明らかにされたと受け止めていかれました。真実の救いである、あみださまの願いが先にあり、この世におしゃかさまを誕生させてくださった。だから、おしゃかさまがこの世を去られても、あみださまの救いは苦悩を抱えたこの私に届き続けるのです。
もしかしたら、正義のメッセージがアンパンマンとなり、この世にやなせたかしさんを誕生させて、子どもたちに姿を現してくださったのかも知れません。やなせたかしさんはこの世を去りましたが、アンパンマンは子どもたちに正義のメッセージを伝え続けるのです。

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浄土真宗のなかまによる連載コラム