煩悩の酒に酔いて 【高蔵 大樹】



さてさて、、私は今、勤式という所で儀礼に関する事を学んでおります。なんとも有り難い雰囲気の声明や、自然と背筋がピンとしてしまうような、そんな儀礼の役割だとかについて学ばせて頂いているのですが。その辺の話はまたいつか。

いや、実は私は、元々バンドマンでして。大学の時、軽音楽部に所属していたんです。しかも、今学ばせて頂いている、仏様から賜る背筋が自然とピンと伸びる有り難い儀礼空間。とはあまりにもかけ離れている、ハードコアといわれる音楽のジャンルでボーカルをしてました。

ハードコアのライヴは凄惨です。

地下深く、暗く、、集った人々がその狭いなかで体をぶつけ合い、鬼のように拳を振り回し、飛んだり跳ねたり暴力的に奇声をあげる。(ヴォーカルだったので奇声をあげる側でした)阿鼻叫喚まさに地獄絵図。

そんな場所で日頃の鬱憤を爆発させてました。あぁ、そろそろライヴしたいなぁ、、笑
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文化の歴史というのは娯楽の歴史であったりもするのかもしれませんが、今でもライヴハウスやクラヴ、居酒屋など、そういう所に行くのは嫌いではありません。もう一度言います。嫌いではありません。笑

そういった場所にはだいたい決まってこのような貼り紙があったりします。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

ハメをはずしすぎて、なにかトラブルに巻き込まれたとしてもそれはあなたのせいですよ。そんな意味だと思います。

そういった場所では恐ろしいトラブルに巻き込まれてしまう事も、ニュースをみてると、あるみたいです。

 

さて、仏教では私の中にあるトラブルの種の事を煩悩と呼んでいます。

煩悩の数、諸説ありますが、その中の代表的な三つの煩悩の、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)をまとめて、三毒の煩悩と呼んでいます。

貪欲(とんよく)とは、貪りの心です。あれがほしい。これもほしい。もっとほしい。もっともっとほしい。

瞋恚(しんに)とは怒りの心です。なんで俺だけ。腹立つわー。きにいらん。このやろう。

愚痴(ぐち)とは自分の都合に囚われて真実を見ようとしない心です。

困ったことに煩悩の三毒はとても美味しく、迷いの私にとって、これらを完全に断つ事はかなり、難しいです。

10836480_729122890507510_1656777299_nさらに水のようにぐびぐび飲めるのでそれが毒である事は、なかなか、なかなか、きづけません。

わしゃダイジョブよ、これは毒でしょ、分かっとんじゃけ、大丈夫。自覚しとんじゃけ大丈夫。もういっぱいだけなら大丈夫。ほら大丈夫じゃった。まだ飲んでも大丈夫なんじゃけ。

そんな風に、いつのまにやらグビグビのんで失敗。気づけば欲に溺れて溺れて、トラブルに、、

薬があるからといって毒を進んで飲むような事はしなさんなよ。と、昔からたしなめられておる事ではございますが、

あぁ、、あぁ。なんてこった。こんなはずじゃ。なんて事にも。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

阿弥陀仏という仏様は、ほっとけば地獄行きまちがい無しのこの私に、この張り紙のように「あなたのせいよ。わしゃしらん。勝手につぶれなさい。」なんてそんな仏様ではありません。

地獄に惹かれてしまうこの私の弱さ、不完全さに気づいているからこそ、

我が名を呼ぶ者を必ず浄土に生まれさせ、煩悩から離れた悟りの世界に導くぞ。それができぬなら私は仏にならないぞ。と

私の弱さ醜さを一身に背負い、手を変え、品を変え、お念仏となって、足元おぼつかない私をトラブルのない浄土にわたすぞ、と、はたらきつづけてくださっています。

元来またやってしまった。なんて事すら思えぬ私ですし、毒と薬の区別もつかぬ私ですし、わかっちゃいるけど止められない、そんなスーダラな私です。

そんな私が、迷いや過ちに気づかせて貰う時。そこには私を必ず救うぞ。という仏様の願いの光が絶えず照してくださっておったのでした。これからもお酒片手の迷いの私と共に歩んでくださるのでした。

南無阿弥陀仏。

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真っ暗闇でシアワセ 【小林 智光】

こんにちは。この原稿を書いているのは12月の初頭。初雪が降るか降らないかのまさに「冬本番」です。
毎日色々なことがありますが、私たちの人生ってどちらかというと「嫌なこと」や「辛いこと」のほうが多くないですか??
かくいう私も、生まれ育った土地で過ごし、お坊さんとして生活していると良いこともありますが、やはり「嫌なこと」や「辛いこと」も
たくさんあります。

例えば人間関係。田舎で過ごしているとどうしてもお会いする方は限られてきますし、自宅=職場ですので、家族とも長い時間を共にしています。

皆仲良くニコニコ暮らしていければいいのですが、そこは煩悩丸出しの凡夫。やはりケンカしたりうまく噛み合わなかったり。

他にも息子の将来のこと、健康のこと、これからのお寺の事…
悩みのタネは360℃、どこにでも転がっています。
私達はつらい事や悲しい事があってくじけそうになると、「目の前が真っ暗」になります。そしてそれが長引くと、ずーーっと真っ暗闇。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
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中国の曇鸞大師がこんな例え話を説かれています。
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、
 すなはち明朗なるがごとし。
 闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
 (教行信証・信巻)
–現代語訳–
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるの です。
このお話を聞くと、「一筋の光で目の前がバーッと明るくなった」というイメージになります。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
「一筋の光でバーッと明るくなったとかいう話ではなく、これは光が差し込んだことによって『あぁ、自分は闇の中にいたのだなぁ』と気づかされたという
意味ではないですか?」
なるほど。
確かに千年もの間、真っ暗だった部屋がイッペンポンで明るくなるというのも中々解せない。
それよりも、「そうか、今まで自分は暗闇にいたのか」と気づく方が何だか大切なことを教わっているような気がするのは私だけでしょうか?
そもそも生まれてから死ぬまで暗闇にいたのなら、光を知らないまま一生を終えることになる。
空しく一生を終えることとなる。
別にバーッと明るくなる必要もない。よーく目を凝らしていけば暗闇にも慣れてくるし、その部屋が狭いのか広いのかもよくわかる。

私達は「救われた」というのをどことなく「バーッと目の前が開ける」ようなイメージを持ってはいないでしょうか。

少し乱暴な言い方ですが、どんなに尊い教えを聴いたって自分の悩みは解決しません。暗闇は暗闇のまんま。
だけど、「真っ暗闇でシアワセ」な生き方、暗闇と仲良く付き合っていけそうな生き方が見つかれば、それはそれで「救われた」と感じられないでしょうか。
『はい、僕は悩みで目の前が真っ暗です。これからもそうでしょう。でもナンマンダブツで平気です。』
そんな生き方が出来たら素晴らしいなぁと思うのですが、如何でしょうか??
(ある意味、ただの「開き直り」とも言えますが…(^_^;))

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人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し 今すでに聞く 【朝戸 臣統】

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三帰依文といわれる文章の言葉で、地元の仏教会がポスターを作成しました。

今ここで、リレーコラムご覧になって、この言葉にフッと目がとまったあなたへ。
何か引っかかりましたか? 何か心に残りましたか?
もしかしたら、内側に抱え込んでいる漠然とした問題意識がわき上がってきた方もあるかも知れません。
忙しい日々の日常の中で、当たり前と思っていたことが当たり前でなくなることを、「有ること難し」といいます。そうです、それが「ありがたい」ということなのです。
なぜ自分が人間としていのちをいただいたのか。なぜ自分がこのコラムで仏法の言葉にであえたのか。全ては、私たちの常識を越えた、ありがたいご縁に依るのです。
仏教は特別な教えではありません。お念仏も特殊な教えではありません。一緒にお参りしましょう。ご法話をお聴聞しましょう。受け難い人間のいのちを授かり、聞き難い仏法を聞かせていただけるのは、他でもない、私自身なのですから。

観覧車 【山岸 幸夫】

息子がまだ小学校に上がったばかりの頃、家族4人で初めて遠くの遊園地に行きました。
よほど嬉しかったのでしょう、入場ゲートを通ったかと思うと、「わーい」と歓声をあげて行ってしまいました。
放送してもらっても見つかりません。お母さんはおろおろするばかり、「事故にあったのではないか、誘拐されたのではないか、警察に連絡して捜索してほしい。」とまで言い出す始末。
涙の再会を果たしたのはそれから2時間も経ってのことでした。

こうして半日が過ぎたあと、レストランでお昼ごはんを食べて、僕はなにか乗り物にでも乗ってみようかなと思っていると、息子はお母さんの手をひっぱります。

池の近くで手をたたけば、鯉やアヒルが寄ってきますし、その次は噴水だったり、花壇だったり、お菓子の試食だったり。
こちらは肝をつぶす思いで待っていたのに、そのあいだ息子は、このひろい遊園地の中を家族がむやみやたらと歩き回ることなく、エッセンスを楽しんでもらおうと、先発隊員としての使命を果たして、家族を案内してくれているわけです。
私は思わずげんこつを食らわしてやりたい気持ちをぐっと我慢して、後をついていきました。

10728862_652180871554577_1131384094_n家族に一通り遊園地の案内をして得意満面の息子を前にして、お母さんがいいました。「お母さん、あれにに乗りたいな、やっくん(息子の名前)あそこまで、お母さんを連れて行ってほしいな。」お母さんが指さしたその先には観覧車が小さく見えていました。「やっくん、お母さんを観覧車まで連れてってくれる?」

「うんわかった。」また得意な顔をして息子はお母さんの手をひっぱります。
歩いてみると広い遊園地で、ときおり立ち止まってはちょっとづつ大きくなっていく観覧車を見上げながら、「お母さんもう少しだからね、がんばって。」そう言って息子はお母さんの手をひっぱります。

こんな時の息子を見ていると、頼もしくもあれば滑稽でもあります。息子はついさっきまで、はしゃぎすぎて疲れていて、ホントはもう歩きたくないのだけれど、お母さんを観覧車まで案内するという使命をもっていますから、へこたれるわけにいかないのです。もしここでへこたれてしまって、「じゃあお父さんとお母さんとお姉ちゃんの3人で観覧車に乗ってくるから、やっくんはここで待っててね。」そういわれてしまってはそれこそ実もふたもありません。「お母さんがんばって」というかけ声は、おかあさんに向けられていますが、その実自分を励ましているのです。
やっとの思いでそこについたときは4人とも汗をかいてハアハアと息をしていました。

観覧車に乗って(近頃の観覧車はエアコンがついているのですね。涼しくてびっくりです。)高いところに上がっていくと、さっき息子が案内してくれたところが見えてきます。池があったり広場には噴水があってそこで大道芸をしています。お菓子を試食した土産物店もあります。遠くの方からはジェットコースターの轟音と歓声が聞こえてきます。

お母さんはこういいました。「やっくん、こんどお父さんやお母さんがいなくなったら、観覧車の下で待っててね。お父さんもお母さんも観覧車の下で必ず待ってるから、約束できる。」

「うん、わかった。」

この日、息子は自分が迷子になったことすらわからずに一日を過ごしました。それでも、自分がおとぎの国のどこにいても観覧車はちゃんと見えるところにあって、たとえどんなに遠くはなれていても、仰ぎ見ればそこにお父さんとお母さんが必ず待っていてくれることを学んだようです。

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ひそかな楽しみ 【朝戸 臣統】

布教のご縁をいただいたり、研修会や会議でお出かけする機会があるときには、ちょっとした楽しみがあります。
それは、「ラーメン」。ご当地ラーメンをいただくのがとても楽しみなのです。
地元、飛騨高山から、岐阜・京都・大阪・北九州・広島。今年味わったラーメンを振り返ってみましょう。
地元で大好きなお店は3軒。
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高山市 麺屋伊吹 塩つけ麺が美味しいですが、季節限定メニューもあります。白エビつけ麺は香ばしいエビの香りが漂う秀逸な味です。

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高山市 甚五郎らーめん 醤油と鶏ガラベースの、飛騨中華そばです。途中からすり下ろしニンニクと酢を投入して、味の変化を楽しみます。

高山市 麺屋しらかわ スープにコクを感じることができる、飛騨中華そば。店長の人柄も美味しさを倍増させます。
http://shirawass.hida-ch.com

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北九州市 月天 豚骨ラーメンもありますが、ちゃんぽんをいただきました。奇をてらわず、また食べに行きたくなる優しい味です。

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北九州市 麺屋まるいち 小倉駅前にある豚骨ラーメン。濃厚なのにクセがなく、たっぷりのネギがアクセントになっています。

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大阪市 金龍ラーメン 言わずと知れた、道頓堀の人気店。ノーマルスープにニンニク、ニラ、キムチを投入して、味の変化を楽しみながらいただきます。

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広島市 三公 駅前のビルにある尾道ラーメン。甘めのスープと背脂が絶妙な味。

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広島市 どとんこつ良 スープがぬるめで、ちょっとガッカリ。

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京都市・岐阜市 天下一品 京都北白川の本店と、岐阜県庁前店が美味しい。定番は、並・コッテリ・細麺・ネギスープ大。

で、オススメは、神通寺のご法座でいただける中華そば。ご門徒さんが提供してくださる麺を、住職自らが茹で上げて提供致します。塩ラーメン・醤油ラーメン・醤油豚骨ラーメン・冷やし中華などが振る舞われます。お寺にお参りして、お聴聞の後は、中華そばをいただきながらの仏法談義。お腹をすかせてお参り下さいね。
www.jinzuji.com
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お坊さんになりたい! 【釋 慧空】

私は今、お坊さんになりたいと思っています。

そこには、私とお念仏とのであいがありました。
81o-77aWlCL私は「落語でブッダ」というテレビ番組がきっかけでお念仏を知りました。 初めて番組を見たとき、お念仏の素晴らしさにすごく感動したのです。
実を言うと、私は4歳くらいから、ある仏教系の新宗教に入っていたので、小さいときから仏教に関わってはいたんです。なので、仏教には親しみを持っていたけど、お念仏のことは知りませんでした。
けれど、「落語でブッダ」のあと、お念仏のことが気になり、どんどん好きになりました。
何か、今までの自分と違う感じがしました。
私は、そのお念仏をもっと学びたいし、もっと弘めたい。
そして、大好きなお念仏をよりどころとする、お坊さんになりたいと思いました。

でも、私の思いをそのまま受け止めてくれる人ばかりではありません。
お坊さんになりたいという私の思いを伝えても、怪しんだり、疑ったりする人がいます。
「仏教なんて危ないよ。いつ詐欺等に会うか分からないよ。だから辞めておいたほうがいいよ」って。
その人たちは、仏教の中身を知ろうとせずに、世間体しか見ずに、疑いや批難をしているように思えてなりません。
仏教やお念仏は、決して怪しくなんかないのです。
でも、そんな人たちに話を聞くと、必ずと言って良いほど共通の言葉が返ってきます。
「どうせ救われないよ。」って。

10584273_1477968915795372_1425052148_n私は、それは違うと思います。
疑いなく念仏を称えたとき、ご信心により救われるんです。
私はそう聞かせていただくんです。
だから私は、お念仏を喜ぶ人だけでなく、お念仏を疑い、避難する人たちにも、阿弥陀様のみ教えをきちんと伝えられる、そんなお坊さんになりたいです。

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自己一人(いちにん)を育てる。【三浦まゆみ】

このコラムの読者の皆さんは、「仏教婦人会」というのをご存知ですか?

うちのお寺にもあるわ、私も会員です、というお方もいらっしゃるでしょうし、ご存じない方もいらっしゃるでしょう。

特に本願寺派では、仏教婦人会の活動が大変盛んです。聞法に、奉仕に、キッズサンガ(子ども会活動)、おとき作りにと、お寺の活動は略称「仏婦(ブップ)」さんなくては行き詰ってしまいます。でもこの仏婦、自称仏教ジェンダー論者の私としては、いろいろ問題があると考えています。

私の所属する西順寺の仏教婦人会は、大変熱心で、お寺の者がいなくてもどんどん進みます。みなさん何をすればよいか十分心得ていらっしゃるので、指示する必要がないのです。

では、問題がないか、といえば、あります。

一つは、「婦人」という名称です。この言葉には既婚女性というイメージがあります。実は、西順寺の中でも、私は結婚もしていないし子どももいないので、居心地が悪い、と仏婦を辞められた方がいらっしゃいます。

反対に、お連れ合いに先立たれた男性が、順番なので、と役員を引き受けて下さることもあります。

仏教婦人会の大会などでは、「仏教婦人会綱領」というのを、読み上げるのですが、この「綱領」は、

「私たち仏教婦人は、真実を求めて生きぬかれた親鸞聖人のみあとをしたい、人間に生まれた尊さにめざめ、深く如来の本願を聞きひらき、み法の母として念仏生活にいそしみます。 」

<唱和>

一、ひたすら聞法につとめ、慈光に照らされた日々をおくります。

一、念仏にかおる家庭をきずき、仏の子どもを育てます。

一、「世界はみな同朋」の教えにしたがい、み法の友の輪をひろげます。

というものです。特に二番目の「念仏にかおる家庭をきずき、仏の子どもを育てます。」というのは、前述のシングルの女性には、疎外感を感じさせることでしょう。

どうすれば、ジェンダー、つまり、男は仕事、女は家庭などの、性差による決めつけを固定しない会にできないだろうか、とずっと考えていました。

ところが、ある先生のお話を聞いていて、思わず「あっ」と声を出しそうになりました。

それは、決して初めて聞くお話ではありません。「真宗仏教と祈り」という題でした。「祈り」ということは、浄土真宗ではあまり用いませんが、真宗の祈りは、如来が一切衆生のために祈る、ということがテーマでした。祈りというと、衆生が仏に祈ることというのが一般的だが、真実の祈りとは、如来が私を祈っていてくださることだ、というお話でした。こういう方向性の逆転は、決して初めて聞く話ではありません。

写真は、1985年4月、写っているのは亡くなった祖母と、長女です。この長女もすでにお母さんです。
写真は、1985年4月、写っているのは亡くなった祖母と、長女です。この長女もすでにお母さんです。

その時突然「仏の子どもを育てる」ということは「自己一人(いちにん)を仏の子どもとして育てる」ということだ、という声が聞こえたのです。

「子ども」と聞いて、自分の産んだ子どもだと思い込んでいたので、結婚していない子どももいない女性には疎外感を感じる、と思っていました。育児を女性の仕事と決めつけている、とも感じていました。

「子ども」とは、自分以外の小さい人のことではありません。他ならない自分自身なのです。このわが身一人を「仏の子ども」として育てることが、私自身の大仕事なのです。ほかの誰でもない、自分自身の責任なのです。

私の居場所が家庭です。私の居るこの場所を念仏の香る場所にする責任は自分にあります。

そう考えると、この「綱領」は、「婦人」だけのものではありません。

男性であるあなた、あなた自身を「仏の子」に育ててくれるのは、お母さんでもお連れ合いでもありません、あなた自身です。

このことがはっきりしたので、私のもやもやしていた「仏教婦人会」に対する思いは、明確に見えてきました。もちろん住職の独断では決められませんが、一つの形が見えてきました。

女子会流行の昨今、女性たちだけで話したいこともあるでしょう。男性だけで盛り上がりたいこともあるかもしれません。その場は尊重しつつ、女性も男性も、「御同朋・御同行」として、共に歩める同朋会に発展させていきたいと考えています。

【執筆者はこちら】

サンキュー・ブッダ 【藤堂 尚夫】

ある講演で、海外布教をなさった方のお話を聴きました。

その方は「南無阿弥陀仏」をどのように英語に訳したらよいか、ずいぶんと思案したそうです。
ある時、寺に集まった子供たちに「南無阿弥陀仏」を英語でなんと言ったらよいかと質問をしたそうです。

その答えが「サンキュー・ブッダ」(仏さま、ありがとう)。

私たちは、漢字ばかりで書かれた「南無阿弥陀仏」を難しいものと思いこんで遠ざけてしまっているのではないでしょうか。
しかし、この話によって「南無阿弥陀仏」はきわめて身近な感謝の言葉であることに気づかされます。
阿弥陀如来は法蔵菩薩と呼ばれていた頃、摂取不捨のお誓いをたてられて仏となられました。
衆生すべてを一人残さず救う仏さまです。
私たちは、どんなにがんばっても煩悩を離れられない凡夫です。
普通ならばこのような私たちを救うとは考えにくいのですが、阿弥陀如来は自ら救うとお誓いになったのです。
このような広大なお慈悲を私たちは感謝せずにはいられない。

その感謝の言葉が「南無阿弥陀仏」なのです。

【執筆者はこちら】

電子書籍で仏教書を出版しませんか?【瓜生 崇】

sayonaraみなさん、電子書籍ってご存知でしょうか。スマートホンとかタブレットで本が読めるというものですね。いま急速に普及が進んでいるもので、私も今や読む本の半分くらいは「電子書籍」になりました。

別に電子書籍という特別な本があるわけではなく、そのほとんどは紙の本と同じものをそのままタブレットで読めるというだけのものです。それなら紙の本でいいじゃないかって言われそうですが、電子書籍は本好きな人ほどハマる魅力があるのです。

それをまとめると、
1.電子書籍は軽いので手が疲れない-端末によりますが、KindlePaperWhiteというものが206g。スマホならそれよりもっと軽いわけで、電車の中でらくらく片手で持ってページめくりできます。ちなみに紙の本だとA5のハードカバーは平均478gだそうです。
2.文字を大きくできるので目が疲れない-電子書籍は一部の例外はありますが文字の大きさを自由に調整できます。目が衰えて普通の本が読めなくなったが、電子書籍のお陰でまた本が読めるようになったという人を知っています。
3.何百冊でも持ち歩ける-出張に行くときは荷物を軽くしたいので、どの本を持ってゆくか悩んだものですが、電子書籍にはその心配はいりません。必要な本はその場でダウンロードできますから、本屋まるごと持って歩くのと同じです。
4.読みたいと思った時に買ってすぐ読める-本屋に行かなくていいし、ネットで注文して届くのを待つ必要もありません。在庫切れもありません。
5.いろんな端末で読める-電車の中では小さなスマホで読んで、続きを家に帰ってから大きなタブレットで読むということも自由自在にできます。
6.暗いところでも読める-お布団の中に入っても読めます。明かりを本にあてることを考えなくていいので、寝っ転がって読むときの便利さといったらもう。
7.安い-同じ紙の本より安いことがほとんどです。

どうです?なんか電子書籍もいいかもって思えてきませんか?

私は紙の本の手触りをこよなく愛する人間ですが、これだけメリットがあると積極的に読みたいのは電子書籍になりますよね。そしてこれを見ると、実は電子書籍は「お年寄りにやさしい」と言う事がわかるかと思います。何しろ、買いに行ったりしなくていいし、文字を大きくできるんですから。

電子書籍の端末持ってない!って方も多いでしょうが、スマホなら結構持ってますよね。スマホで無料のアプリをダウンロードすればそれがそのまま電子書籍の端末になるんですよ。

Androidなら Android app on Google Play

iPhoneやiPadなら 

でも、残念ながら、

浄土真宗の本で電子書籍化されている本というのは極めて極めて少ないのです!!

仏教書で探しても目立つのはスマサラーナ長老の本や、自称仏陀ことエル・カンターレさんの本ばかり。(決してこれらの本を否定するわけではありませんが、少なくとも浄土真宗の本じゃない)

なら、自分で出しませんか?電子書籍。そんなに難しくないですよ。

長年お坊さんやっている人なら、昔施本で小冊子を作ったけど、印刷して配ってその後はどうなっているのか…みたいなものを持っていたりする事もありますよね。その中には埋もれるのがもったいないようないいものもあるはず。もちろん、なにか新しく書いてもいいわけです。これから電子書籍で浄土真宗の教えに出遇ってゆかれる方がきっといるはずです。

最近「さよなら親鸞会 脱会から再び念仏に出遇うまで」という本を出しましたので、それを通じて、大まかではありますが電子書籍の作り方をお教えします。ここではKindleというamazonがやっている電子書籍の最大手サービスでの出版の流れを解説します。他にも電子書籍サービスはいろいろありますが、とりあえずKindleで出すことを頑張ってみましょう。

データの準備と加工

最初に、ワードのデータでもテキストでもなんでもいいので、本にする文章を用意してください。そして、ブラウザ(これを見ているソフトです)から、「でんでんエディター」http://edit.denshochan.com/ を開いてください。

15a8ee6dec2b61f564c47f69cca65d18[1]こんな画面が出てきます。右上の「×」のオレンジのボタンを押して内容を消去します。そして、本にする文章を全部コピーしてバンッっと貼り付けてください。

d723af79eb1b0b0a8e70e659c62835a9貼り付けたら「H」のボタンで章の見出しを設定(見出しは目次を作るときに重要になりますので必ず設定します)、あと必要なのは、「引用」と「ルビ」くらいでしょう。

「引用」は文頭に半角で「>」をつけます。「ルビ」は単語を選択して「ruby」と書いてあるボタンを押します。「Preview」を押すと見栄えを確認することができます。

完成したら、左上の「Untitled Document」のところにファイル名を入れて(必ず半角英数字で)、その右の青いボタンを押して保存します。ここでは仮に「book.txt」というファイルで保存したということにします。

c8ada9844b08a205939bfdf7305dfa41次は「でんでんコンバーター」http://conv.denshochan.com/ を開きます。ここで電子書籍の標準フォーマットであるEPUB形式のファイルを作るのです。

先ほど作った「book.txt」をアップロードして、タイトルと作成者を入力。ページ送り方向を設定してください。そして、「変換」です。「作成したEPUBをプレビューする」にチェックを入れて、変換後のイメージを確認しましょう。拡張子が「.epub」のファイルが落ちてくると思います。

47a2ba1ae6d5a407995a2b9ad863fca6次は表紙画像を作ります。これは持っている適当な画像作成ソフトを開いて作ってください(写真はFireWorks)。

注意するべき点は、画像の長辺(この場合は縦幅)が1000ピクセル以上であること、フォーマットはJPEG、そして、ファイル名は半角英数字であること。

ファイル名については、ここでは素直に「cover.jpg」としておけばいいと思います。

 

 

Amazon Kindle ダイレクト・パブリッシングへの登録

81cbe3c71a67f6cf4244ba086f868394さて、必要なデータが揃いました。いよいよamazonに本のデータを登録します。amazonのアカウントがない人は作ってください。

https://kdp.amazon.co.jp/ にアクセス。Amazonアカウントを使用してサインインして、「新しいタイトルを追加」を選択、必要事項を記入してゆきましょう。

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必要事項を記入し、カバー写真とepubファイルをアップロードするのですが、右カラムに「よくある質問」もあり、入力に不備があればシステムが教えてくれるので、基本的にあまり迷うところは無いと思います。いくつか上げるならば、

・KDPセレクトに登録するべきかどうか-90日以内に他の電子書籍ストアなどで販売する予定がなければ登録すべきでしょう。
・縦書でepubを作っている場合ページめくり方向で再度縦書を選択するのか?-そうです。
・デジタル著作権管理はどうするか?-適用するにしておきましょう。
・出版地域は?-全世界でいいでしょう。
・価格はどうしたらいいのか?-余程の大作でなければ、100円~200円程度にするのが無難です。300円以上ですと条件が揃えば70%の印税がもらえたりするオプションもあるのですが、みんなに読んでもらうことを優先させたほうがいいように思います。

epubファイルと画像をアップロードすると、「シンプルプレビューツール」でちゃんと本がオーサリングできているか確認することができます。 これは必ずやっておきましょう。

少し面倒というかよくわからないのが、「米国源泉徴収に関する租税条約の恩典を受けるための証明書W-8BENの提出」というものです。これはAmazonがアメリカの会社なので、アメリカで税金を払わず日本で払いますよという申告なのですけど、Amazonのガイダンスに従って必要事項を記入し「続行」ボタンを押していれば終わります。

bb124aa64adadaedb545cbac863946a2これが終わって、いよいよ出版です。審査のために最大48時間かかると出ますが実際はもっと早く出版されます。

自分の書いた本がAmazonで買えるようになるというのは結構感慨深いです。本を出すのは知名度かお金が必要ですし、余程のいい本でなければ継続して書店に置かれるということもありません。電子出版ならいつまでもコストを掛けずにみんなが手に取れる位置に書籍を販売することができます。ありがたいです。

さて、気になるのが「どのくらい売れるのか」ということ。

私が出版したのは「さよなら親鸞会 脱会から再び念仏に出遇うまで」という本です。これは実際に書籍化されている本で、今までに約3000部程が売れているものです。出版当初はかなり売れて仏教書のランキングで1位になったりもしましたが、現在は一日数冊がコンスタントに売れている状況です。

儲かるというところまではいきませんが、継続的にきちんと宣伝をしてゆけば、少量であってもしっかりと売れてゆくものなのだろうと思います。

電子出版のこと、わかっていただけましたか?やり方を書いてきましたが、そんなに難しく無いとは言いながら、誰にでもできるというものでもありませんね。

ここからは宣伝ですが、私は仏教書の電子書籍の発行を専門に行う出版組織を立ち上げることになりました。皆さんの手元に電子出版にできる原稿はありませんか?録音でも構いません。良ければ教えて下さい。しっかり本にして、宣伝して販売をさせていただきます。原稿をデータ頂けるのならば、出版費用の自己負担も必要ありません。

電子メール uryu(あっと)genshoji.net か、あるいは私のフェイスブックページまでご連絡ください。

これから、若い人からお年寄りまで、電子書籍から浄土真宗に出遇ってゆくという人も出てくるでしょう。入り口は多くあったほうがいいと思います。ぜひともご協力をいただければと思います。よろしくお願いします。

夏祭りの思い出。 【高蔵 大樹】

先日、本願寺で、納涼盆踊り大会が催されてました。その日はあまりの暑さにダラーと家で過ごしていたのですが、友人がネットに盆踊りの様子の写真をあげていたので、あー。ダラダラせずにいけばよかったなー。なんて。

10420150_664215993664867_1269347974171164476_n赤いちょうちん、かき氷、人混みに、浴衣にうちわ、線香花火に盆踊り。

さてさて、そういった風景を見ると。思い出されることがあります。

あれはいつかの夏祭り。当時小学生だった私。

的当てゲームの出店がありました。

それは的に二回ボールを投げて出た点数で景品がもらえる、というもので、たしか一回500円くらいだったかしら。

そのお祭りの前、こっそり父か母から、「お祖母ちゃんからよ」と、小学生にはもう、大金も大金である、5000円を渡されていました。その五千円を財布に忍ばせ意気揚々の高蔵少年。

この文章からは想像もできないかもしれませんが。当時の私は非常に頭がいい子でした。おまけに顔がいい。さらに器量もいい。おまけに背も180センチもあって、て、全部うそなんですけど。

計算高き少年は、この五千円は祭りでいっさい使わず、帰って当時ほしかったゲームソフトを買おう。と。思っておりました。

10552447_664215976998202_8181451975736272920_nさて、先程の的当て。景品を見ると、150点より下の景品はその辺で五百円くらいで手にはいるような雑貨ですが、150点以上の景品はなかなか!200点なら当時流行していたデジモン(またもやゲーム)!

三回くらいならやってもゲーム購入するのに支障はありませんでしたのでやってみることにしました。

ドキドキしながら投げた1投目、振りかぶってバシッ!なんとまさかの100点!!これはっっ!!!デジモンっっ!

1投目で百点とれる腕なら、次も百点間違いなし!2投目振りかぶってバシッ!

15点!ガクーーン!

はい、、、これ景品。で、よくわからんキーホルダーを頂きました。

 

僕には百点をとれる腕があるのです。間違いなく!二投目は何かの間違いでしくじっちゃいましたけど。一回目で百点とれるんだから、できないわけがない!

もう一度挑戦、1投目振りかぶってバシッ!90点!なかなか!

2投目振りかぶってバシッ!

15点!

おっちゃんボールに細工してない?!

してないよー。はい、キーホルダー。

白熱してきた、的当てゲーム。

振りかぶってバシッ!80点!

振りかぶってバシッ!30点!

振りかぶってバシ!25点!

振りかぶってバシ!70点!

振りかぶってバシ!

振りかぶってバシ!

バシ!

はい、キーホルダー。

バシ!

はい、キーホルダー。

バシ!

 

よし今度こそ!振りかぶって、、

 

あ、あ、あれ?

お金があらへん!!!

 

残念やったなぼっちゃんまた明日な。

 

欲というのは怖いもので。一度甘い汁を吸ってしまうと、どんどんどんどん膨らんでいくんです。一回百点とったことで歯止めがきかなくなっちゃったんですね。

鍵に縁なんてないのに、じゃらじゃらキーホルダーだらけで家に帰った少年。叱られましたとも。ええ、そらしこたま叱られましたとも。

それからは、出店のおじちゃんが鬼に見えて憎らしくて憎らしくて仕方なかったです。こどもをこんな目にあわせて!僕の五千円!金の亡者!鬼!悪魔!ひとでなし!なんてな具合。

いやぁ。今にしてよくよく思い返せば、欲の鬼、お金の亡者になっちゃってるのは、いつも私の方なのネ。

 

鬼の気配を感じるとき、おそるおそる、ふりかえってみると、、

 

お前だ!

 

ヒェーわたしだった!ガクガクブルブル。

 

それは、鬼の私を鬼にしてはなるものかという、仏様のお慈悲のはたらき。

南無阿弥陀仏。

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浄土真宗のなかまによる連載コラム