「リレーコラム」カテゴリーアーカイブ

花粉症と阿弥陀様 【平野 正信】

僕のつれあいは花粉症です。
花粉がいよいよ飛び出した時期には、毎年花粉メガネに花粉カットマスクという完全防備の姿になります。

先日、今年もその時期が来たかとつれあいは準備していたメガネとマスクを装着したのですが、まだ一歳に満たない息子は母親のその姿が、かなり恐ろしかったらしく、母の姿を見るなり大泣きしてしまったのです。
普段は母親べったりで、あまり僕にすがりつくようなことは無いのですが、その時ばかりは完全防備お母さんから逃げ惑い、恐怖の表情でもって僕にすがりついて来たのでした。

すると、息子が泣きながら逃げていくというのがショックだったのか、つれあいまでポロポロと涙を流し出したのです。
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僕はというと、一人でその状況が面白くなってしまい、二人が泣いているのを見ながら一人で大笑いしていました。(ひどい男です)

そして、騒動が終った後、つれあいに
「あっくん(息子の呼び名です)に逃げられたのがそんなに泣くほどにショックやったん?」
と聞くと
「それもあるけど『目の前のお母さんが急にいなくなってしまった』っていうあっくんの気持ちを思うと泣けてきたんだよ。」
と答えてくれました。

これは僕にしたら想定外の答えでした。
僕はてっきり「息子に嫌われたから泣いた」と思っていたのです。しかし、それだけでなく「息子に共感してしまって泣いてしまった」のでした。

「お母さんはずっとココにいるのに
『お母さんがいなくなった!こわいよー!』
と不安になって泣いている。
お母さんはココにいるよー
気付いてよー
大丈夫だよー」
という気持ちで泣いたのだそうです。

この気持ちって「私がいるからまかせてくれよ」と喚び続けているのに、その声に気付かずに目の前で泣いている衆生を見ている仏様のようじゃないですか。
僕は「二人で泣いてにぎやかで面白いなー」程度に思って一人で楽しんでいたのですが
「なんとまあ、母親というのはそんな気持ちになるものなのか…」
とえらく驚いて、感動したのです。

「親がココに居るのに、居ないと思って苦しんでいる子の気持ちに共感してしまって辛い」という気持ち。僕はそんな気持ちにはなったことが無いけれど、最も身近な母子をご縁にそんな気持ちがあるのだなと聞かせてもらいました。

なるほど、阿弥陀様は悲しんでこられたのだなと思ったのです。
ずっとずっと。南無阿弥陀仏を完成されてからも、ずっと悲しんでこられた。
阿弥陀様を悲しませていたのはだれか?
それは、お慈悲のど真ん中にいるのに、阿弥陀様なんて居ないと泣いていたこの私。

そんな風に聞かせていただけた日でした。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

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地下鉄サリンから20年【瓜生崇】

今日はあの地下鉄サリン事件から20年ということでテレビや新聞でも大きく扱われているようです。あの事件の時、私は新宿駅にいました。何が起きたのかはわかりませんでしたが、突如として訪れた騒然とした空気を感じたのをよく覚えています。

当時の私は都内の大学に通う大学生でしたが、浄土真宗親鸞会という、かなりの問題を抱えた新宗教教団の一員でした。その時も確か4月の大学入学シーズンの勧誘の準備のため、都内の教団の拠点への移動中だったと思います。拠点につくとみなざわざわと浮足立った感じでテレビのニュースを見ていました。

その後、事件がオウム真理教によるものだと明らかになり、上九一色への強制捜査などのニュースがテレビや新聞を埋め尽くしました。私のいた教団では宗教に対するネガティブなイメージを払拭するために、勧誘のトークを工夫したりする一方、今いる信者に対しても「私達の教団はオウムとは違う」どころか「オウムのような邪教に迷う人に泥水をすする人を無くすために、私達が真実の清水を提供しなければならない。」という法話が随分なされました。

私は言われた事を言われたままに受け止め、「オウムに迷うような人を救いたい」と思って必死で活動をしたのです。そして家族の反対を押し切って大学を中退して身ひとつで教団に飛び込みました。目が覚めたのは12年後です。多くの人に迷惑をかけ、そして何もかも失って私はその教団を脱会しました。

ここ数日間報道されるオウム関係の報道を見ながら、あの日々のことをいろいろと思い出していました。人は自分の世界観とあまりに違う生き方をする人を見ると、どうしても「洗脳」とか「マインド・コントロール」という言葉を使ってそれを「納得」しようとします。確かにその要素は非常に大きいと思います。ただ、それだけでは決してなく、やはり私は人生の真実を知りたかったのです。オウムに入った人たちもきっとそうだったろうと思います。矛盾だらけの世界の中で、正しい道を知りたく、正しい道を歩みたかったのです。

教団を脱会して、今度はカルト問題の解決への取り組みをするようになっても、「一体本当は何が正しいのか」という問いは私を苦しめ続けました。縁があって浄土真宗の僧侶になってからも「正しい教え」を探し続けました。ようやくこの問いから解放されたのはごく最近のことです。それは、何が正しいのかわからない、迷ってしか生きていけない私が、そのまま決して見捨てられない如来のはたらきの中に生きていたという気づきでした。安心して迷っていけばいいという念仏の教えでした。

 

私がいた浄土真宗親鸞会という教団は、オウムのような暴力も殺人もなかったし、薬物もヘッドギアもありませんでした。しかし一旦中に入れば嘘と誤魔化しばかりの活動で、じわじわと常識的な感覚を奪ってゆくような教団でした。

カルトへの取り組みを続けて、いままで随分多くのメディアの取材を受けてきましたが、みな「わかりやすい悪質さ」を求めます。しかし皆さんに知っていただきたいのは、オウムのような極めて明確な事件性を持ったところは少数派だということです。相談が多数あるような教団でも、表面的には何が問題かすぐにはわからないようなところが多いのです。

そして、世界を震撼させるような事件を起こしたオウムでさえ、中沢新一や山折哲雄をはじめとして好意的なコメントをした学者や知識人は少なくなかった。

もしあなたが「問題がある」と言われているような教団に行けば、真面目で親切そうな信者が丁寧に迎えてくれるでしょう。そして、洗脳されてる、マインド・コントロールされてると思い込んでいた人たちが、案外自分の考えをしっかり持っていて、質問にも一生懸命答えてくれることに驚くかもしれません。私達と同じように趣味を持ち、最近の映画や音楽の話題で盛り上がるかもしれません。教団や教義の確信に触れる話をしなければ、あなたの前にいる信者はどこにでも居るごく普通の人でしょう。

いやかえって、普通よりずっと親切で真面目で信念を持っているではないか、と思うかも知れません。社会的に大きな事件も起こしてないし、それどころか、既存の教団以上にボランティアなどの社会貢献に、一生懸命に見えるかも知れません。

しかしその裏では、長い時間をかけて教団から離れられなくなった信者に対して、その人生を搾取し続けるような事をしているかもしれない。少なくとも私はそういう教団にいたし、カルト問題に関わる過程でもいくつも見てきたのです。入り口だけみて教団の問題なんて絶対にわかりません。私がいた浄土真宗親鸞会も、幾人かの宗教学者や知識人が好意的な評価を与え、それを教団は徹底的に利用していました。

だからどうか学者や知識人のみなさんは、自分の見た事実だけで簡単に教団に利用されるような言葉を発しないで欲しいのです。具体的には書きませんが、ぞっとするような言葉を幾つか見てきました。皆さんの言葉はたとえ何気なく発したものでも利用されます。覚えておいて欲しいです。

そしてマスコミや大学は、大きな事件や問題がなくても、少なくとも入学シーズンには「誰にでも問題のある宗教にハマる可能性はある」という事を伝えて欲しい。でも近年は随分取り組みがなされるようになってきましたが。

 

最後に伝統仏教教団、特に浄土真宗の僧侶の皆さんへ。つまりこれは私が私自身に言っていることです。私は、オウムの信者が「寺は風景でしかなかった」と言った気持ちがよくわかります。お寺にはなにもないと思っていた。たとえ仏教に大事なことが教えられていると思っても、お寺にそれが残っているとは全く思えませんでした。

でも、私は浄土真宗親鸞会を出て確かにお寺でお念仏の教えに出遇いました。それがなければ、あの教団でのたうちまわった日々はただの失われた月日、迷って苦しんだだけの人生になってしまうところでした。お念仏に出遇っていまようやくあの日々が、自分にとってかけがえの無い道だったのだと思えるようになりました。

私は自分みたいな人がたくさんいるに違いないと思っているのです。だから、一生懸命み教えを伝えたいです。寺も教団も必ずなくなります。でもお念仏は人から人に伝わっていくはず。伝わればそこにサンガが生まれ、さらに出遇っていかれる人がいるはずです。

間違ってる人に正しいことを伝えようという、何かしら思い上がった気持ちで言っているのではなく、教えを真剣にお伝えしようとすることで、人生を真面目に考えて真実を求めたあの思いに、私が帰っていけると思っているのです。

 

自力無功 【吉峯 教範】

もう随分と前になるが、つてがあって東大寺の修二会を特別に参観させていただいた時のことです。

その折にご解説方々ご案内をしてくださった華厳宗の教学部長のSさんのお話が強く印象に残っています。
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「修行楽しいな!修行楽しいな!」とお話の合間合間に楽しそうに言葉を挟みながら、

「私たちが一生かかって積むことができる功徳なんて、薄い薄いそれこそオブラートのような薄っいペラペラの修行しかできないんですよ。
その薄い薄いオブラートを何年もかけて重ねていく。でも、ちっとも厚みなんか出てこない、薄っいままなんです。
で、一生かけてその薄いオブラートを重ねてきて、ようやく薄いナイロン袋ほどの厚みが出てきたな〜と、思った頃にくしゃみのひとつもしますでしょう。
で、どうなるか⁈
今まで積み上げたもんがいっぺんに吹っ飛んでバラバラになって飛んでしまいますわ(笑

いや、バラバラになるくらいならまだええけど、鼻水や唾も一緒に飛んだら、オブラートに穴が空いてしまいまっしゃろ。もう使いもんにはなりません。そやから、また一からオブラートの積み直しですわ」
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「それこそ、私ら十数箇寺の塔頭でこの大きな寺を護持してまっしゃろ。人生の最後に管長の椅子なんかを巡って争いでもしてみなされ。やっと積み上げたナイロン袋の上に土砂降りの雨が降りそそいで、もう跡も残らんほどぐちゃぐちゃですわ。
それが、人間というもの。その度にまた、一からオブラートを積み重ねていく。
これが修行というものですわ〜(^^)」
「あ〜、修行楽しいな!修行楽しいな!・・・」

自力無功と知りつつ、なお修行を続けながら道を歩んでいく。
あー、なるほど、これが聖者の方々が歩んでいかれる難行道(行き難き道)なのだと、お気付かさせをいただいたことです。

親鸞聖人は、華厳の教えは実の大乗(必ず仏果〔さとり〕に至ることのできる真実の大乗仏教)の教えだと位置付けられておられます。
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天台や華厳は、実の大乗。
しかし、根気も智慧もなく、積み上げても積み上げても厚みが出ない薄いオブラートを黙って積み続けることができない愚かな凡夫。結果や成果が見えなければ何もできない、一度や二度失敗すればたちまちに意欲を失って、道を歩むことのできない愚かな身には、行じ難く、行き難い。

そこに、この低下の悪凡夫の為に説き示されたのが他力の易行道。
その易行道の中の真実の大乗を親鸞聖人は、「真宗」とお呼びになられたのだなと。

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人知は病んでいる 【小林 智光】

こんにちは。
ひさびさにコラムを書かせて頂きます。
新潟では冬も深まり、 ウチのお寺もやっとこさ雪降ろしです。
お寺は本堂から庫裡から広いので、業者さんにお願いして雪を降ろしてもらっています。
年末に一部、「離れ」の雪を下したのですが、今年の雪は重たい
重たい。
下の方はシャーベット状になっていてガチガチです。
おかげで私の腰も疲労でガチガチ…(^_^;)
さて、今日は「三帰依文」について書こうと思います。
浄土真宗の、特に大谷派のでは法話の前にこの「三帰依文」というのがよく読まれます。
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人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、
いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの
生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、
至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。

この真ん中の三行、「自ら~」の部分は全員で読み、冒頭と最後の方は講師の方が読まれます。
最初、私はこの「人身受け難し」というところを『なかなか人間には生まれないんだから、人間に生まれて良かったね。牛や豚、犬や猫に生まれたら仏法を聴けないからね』

というふうに解釈していました。

しかし、それは大きな間違いではないかと、ふと思いました。

【人知は病んでいる】というお話を聴いたことがあります。

「人知」というのは人間の知識、智恵です。つまり「人間の考えが及ぶところ」です。

この人間の知識や知恵というのは「病んでいる」、つまり健全ではないということなのです。

「病む」という字には「ヤマイダレ」という部首があります。「丙」の上のやつですね。

「知」という字にこの「ヤマイダレ」をかぶせたらどうなるでしょう。

『痴』という字になります。そうです。[愚痴]の「痴」です。

[愚痴]とは「モノの道理が分かっていない、正しいことが分かっていない」という意味で、仏教でいう所の三毒(さんどく)の一つです。

三毒とは「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つを表し、人間のもっとも解決すべき煩悩として仏教では説かれています。

私達は何かを「したい」と欲し(貪欲)、思い通りにならないと怒り(瞋恚)、うまくいかないものだから結局また同じことばかり繰り返す(愚痴)。

このスパイラルというか連鎖を堂々巡りしながら人生を送っています。このことを「空過」(くうか)といいます。

どうやったら「空しく過ぎ」ない人生になるか?が仏教、そして浄土真宗においても根本命題ですね。

話を戻しますが、私は「人身~」を上記のように解釈していました。

でもそれって、「牛や豚、犬や猫には仏法が届かない。人間こそ仏法が聴けるのだ」と思い上がっていただけなのです。

仏様の慈悲と智慧はそんなケチなもんだろうか、いや、そんなはずがない。生きとし生けるあらゆるものに届いてこそ仏法じゃないのか?

最近はそんな風に思っています。

聴聞してたって「俺は聴いてるぞ」みたいな顔ではそもそも聴けていないのかも。

逆に居眠りばかりしてたって、仏法聴聞の場に脚を運び、その身を投じていくほうがホントの意味での聴聞なのかもしれません、

極端ですが、ネコや蠅がお御堂をウロウロしているのも聴聞と言えるのかもしれません。

高僧和讃に

曠劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

とあります。

親鸞聖人は法然上人に出遇っていなければ「空しく過ぎ」る人生だったと言われています。

もかしたら人でなくても、動物でも虫でも石ころでも「お師匠さん」になりうるのかもしれません。

「そういう自覚を持ちにくい人間なんだぞ」 「知識や知恵がある人間てのはやっかいな生き物だぞ」

と三帰依文は私達に教えて下さっているような気がします。

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「門徒もの知らず」という生き方 【西光 義秀】

浄土真宗の信者は「門徒」と呼ばれます。その門徒のことを揶揄して、「門徒もの知らず」といわれることがあります。浄土真宗の信者は、世間の常識を知らないという意味として使われています。
たとえば、結婚式は大安の日を選んだり、葬儀を友引の日には出さないという六曜による日の良し悪しを問いません。方角や、名前の画数などにも無頓着です。おもしろいのは、葬儀後の四十九日が三ヶ月にまたがるってはいけないのは、、「始終苦(四十九)」が「身につく(三月)」からという語呂合わせによるのですが、けっこう真剣に考えている人が多くいるようです。しかし門徒は一笑にふしてしまいます。
それは浄土真宗が仏法の王道を歩んでいることの証です。仏教は、社会をよりよく生きる方法を教えてくれるのではありません。社会をよりよく生きるというのは、わが煩悩を満たしている状態ですから、それも迷いであると教えています。仏法が目指すところは、迷いの生き方から「めざめる」ことです。「門徒もの知らず」というのは、その迷いを教えによって払拭した生き方を示しているのです。
仏法によるめざめや、仏法によって育てられることを見失ってしまったとき、世間の常識が優先する生き方にならざるをえません。「門徒もの知らず」というのは、世間の常識を身に付けて生きる生き方ではなく、仏の教えを中心にするという生き方や価値観を身に付けてきたということなのです。ですから、世間の常識があって、その上に真宗の価値観を教え込むから形だけ、知識だけの身に添わない教えに終わってしまうのです。
浄土真宗も仏教である限り、「出世間」の法であることを心得なければなりません。しかし私の身がこの娑婆にある限り世間との関わりを断つことはできません。断つことができない世間との関わりが絶たれていく、破られてゆくことに気づかせてもらうのが仏法を聞くということなのです。

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日本人は異なる宗教に寛容なのか【瓜生崇】

私がカルト宗教という問題に取り組んで早いもので十年になります。その間、宗教や信仰の問題についての相談を随分受けてきました。

以前、地域の集会で講演を依頼されたことがあります。そこではとある新宗教の教団施設の建設の予定が明らかになり、地域住民の人達が反対運動に立ち上がったのです。私が日本で起きているカルト問題の概略や、そもそもカルトとは何かという講演をしたあとに、集まった人達による議論が始まりました。代表者の方の「あんなカルトを街に入れる訳にはいかない」という言葉の後に、挨拶に来た教団職員の目つきがおかしかったとか、服装が変だとか、マインドコントロールされているという意見が言われました。

その教団に懸念すべき点が無いとはとても言えませんが、特に何か事件を起こしたわけでもなく、ここ最近で言えば社会的に問題となるような活動も見受けられません。しかし住民の皆さんの議論を聞くと、悪く言えば「異質な人達を受け入れたくない」という感情があまりに前面に出ているように思いました。私は帰りに主催者から「もう少し(その教団の)怖さや問題点について、危機感を与えるような話をして欲しかった」と言われ、すこしうなだれてそこを後にしました。

最近、松山大耕氏という臨済宗の僧侶の書いた、「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とはという記事が話題になっています。私が今見ただけでもFacebookの「いいね」数が5.4万と、相当な支持を集めているように見えます。その記事から松山氏の主張をかいつまんで言うと、「キリストの誕生日であるクリスマスをお祝いし、年末にはお寺で除夜の鐘を聞いて、そしてお正月には神社に初詣に行く」というのが日本の宗教の「寛容性」であり、そうした宗教観に世界の宗教家が期待し、注目していると言いたいようです。

世界の宗教家が本当に期待しているのかどうかは置いておいて、この記事の主眼である、宗教をお互いに尊重し理解し合うというのはとても大事なことであって全く異論はありません。ただ、果たして日本だけそんな特別に素晴らしく寛容な宗教観があると言えるのでしょうか。

神社にお参りしない人たち

私の友人のある家族は神社にはお参りしません。七五三にも行きません。クリスマスも祝いません。それはそこが浄土真宗に生きる人の家庭だからです。しかしそうした生き方をすると毎度のごとく「視野が狭い」「非寛容だ」「子供がかわいそう」という声を聞くそうです。

私自身は浄土真宗の僧侶ですが、神職や牧師の友人も多くいますし、お互いにその宗教を敬って生きているつもりです。でも私の家族にはクリスマスも初詣もありません。敬ってないのではありません。浄土真宗の自分たちには必要ないというだけです。

しかし不思議なことに私もまた「原理主義的」とか「非寛容」とか「かわいそう」と言われてしまうのです。これは今だけの話ではありません。江戸時代には浄土真宗の門徒が東北に多く移住していますが、信仰上の理由から神社に参拝せず祭事にも参加しない彼らの生き方は、元からの住民の間に深い軋轢を生じさせたといいます。

私は神社にもお寺にもクリスマスにも行くというのは、それはそれでひとつの立派な宗教観だと思います。それがおかしいとは全く思っていません。しかしそれは決して「寛容」なのではなく、ただその人にとっての宗教がそうであるというだけのことではないでしょうか。少なくともそのくらいのことなら外国の人が観光で日本を訪れて神社仏閣を敬うのと大差あるとは思えず、日本に特有のものとも思えません。

カルトの問題への様々な取り組みを続けていると、個別の宗教のもつ社会的な問題性を論ずる前に、宗教を真剣に信仰する人たちを冷ややかに見下す思いを根底に感ずることが少なくありません。しかし宗教というのは得てしてその人の全存在を支える根拠になりうるものです。私の人生が宗教そのものであるという信仰もあるのです。そのような信仰であれば価値観や生き様が根底から変わっていくのは当然ありうることで、そこには衝突も当然生ずるでしょう。

本当の寛容さというのは、神社も参りクリスマスも祝うという所にあるのではなくて、神社にいかずクリスマスにも参加しない人がいても、つまり我々の価値観や習慣と全く異なる宗教を持った人がいても、それを認めて理解していく所にあるのではないでしょうか。

寛容という言葉で非寛容を裁いてしまえば、それはもう寛容とは言えないのです。

日本仏教の寛容性

松山氏はさらに日本の「寛容な宗教観」に神道の影響を受けた「日本で独自に洗練されてきた仏教のスタイル」があると主張します。しかしそもそも日本の神道や仏教とはそんなに寛容なものだったのでしょうか。

日本の仏教教団は歴史の中で常に様々な権力については離れ、必要とあれば自分たちを脅かす勢力を徹底的に潰してきた歴史があります。興福寺や延暦寺の僧兵が勢力争いの抗争を頻繁に繰り返してきた歴史は有名ですし、私の属する浄土真宗もその渦中で大きな弾圧を受け、大規模な戦争にも発展しています。

その浄土真宗も大教団となった後には権力と結びつき他の宗教の弾圧に加担しています。寺檀制度はそもそもキリスト教などの異端勢力の締め出しが大きな目的の一つでした。近代になってからは廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの仏閣はバーミヤンの大仏のように破壊され、仏教諸派は国家に服従して戦争協力の道を突き進みます。そして神道は国家主義と結びつき学校や公共施設では神棚への礼拝が強要され、一方大本教などの新宗教を弾圧するようになります。

つい最近までこうした抗争と弾圧の歴史を繰り返してきた日本の仏教や神道を、いまさらになって「1500年以上かけて洗練されてきた」寛容性のスタイルと言われても、歴史を多少でも知る人なら一体何を言っているのか訳がわからないでしょう。

この事実を見ると、日本人は宗教に特別寛容なのではなく、自分たちの共有する価値観と権威に対して寛容なだけだと言われても仕方がないような気がします。

本当に寛容な宗教観とは

記事には松山氏が提案した「画期的」なる宗教駅伝なるものが紹介されています。世界の異なる宗教家でつながる駅伝ということでこれ自体はとても素晴らしいことだと思います。ただ、少々意地悪な言い方をしてしまえば、「自分たちを脅かす可能性がない人たちとは仲良く出来る」だけの事のようにも私には思えます。

いまヨーロッパでは教会がモスクに鞍替えするというケースが多くみられるそうですが、日本の伝統的な寺院が改装され次々とモスクになるような事態が私達に訪れ、全く異なる価値観や生き様の人びとが大量に生まれるような事態が訪れたとしても、私達は寛容でおれるでしょうか。

400年前、浄土真宗が急激に拡大していった時に起こったことは、既存の仏教宗派との激しい衝突と弾圧でした。その浄土真宗も今は伝統教団の一角として日本の宗教を代表する存在の一つになっています。そう思うと、今後日本で宗教地図をひっくり返すような変化が訪れないとは誰も言えないでしょう。

異なる宗教観の対話や理解が大事なのは言うまでもないことです。そこを否定するつもりは全くありません。

ただ、今私達に必要なのは、イスラムとの衝突に揺れるヨーロッパを他人ごとのように見ながら「日本の寛容な宗教観に世界が期待している!」などと鼻高々に自負するのでなく、激動の世界の中でいつか私達も同じような事態に直面し、異なる生き様や価値観を許容しなければならないだろうという覚悟だと思います。

寛容になれないかも知れない私達が、それでも寛容になってゆこうとする謙虚さが、いま最も求められているのではないでしょうか。

「浄土真宗で良かった!と思ったこと。」 【朝戸 臣統】

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新しいリレーコラムの更新を楽しみにしておられる貴方へ。
更新が滞っておりますこと、まことに深くお詫び申し上げます。

そこで、ちょっと新しい形で、コラムを公開したいと思います。

「お題」を提示しますので、皆さんのコメントをどんどん挙げていただきたいのです!
つまり、読者参加型のリレーコラムにしてみたいと思います。

第1回目のお題は、「浄土真宗で良かった!と思ったこと。」
それぞれの想いを、コメントとして綴って下さい。
他の方の想いに「そうそう!」と反応していただくのもアリです。
皆さんのコメントをお待ちしております。

※誹謗中傷など、不適切なコメントについては、管理人権限で削除する場合がありますので、あらかじめご了承下さい。皆さんの「大人」なご対応をよろしくお願いします。<(_ _)>

【執筆者はこちら】

煩悩の酒に酔いて 【高蔵 大樹】



さてさて、、私は今、勤式という所で儀礼に関する事を学んでおります。なんとも有り難い雰囲気の声明や、自然と背筋がピンとしてしまうような、そんな儀礼の役割だとかについて学ばせて頂いているのですが。その辺の話はまたいつか。

いや、実は私は、元々バンドマンでして。大学の時、軽音楽部に所属していたんです。しかも、今学ばせて頂いている、仏様から賜る背筋が自然とピンと伸びる有り難い儀礼空間。とはあまりにもかけ離れている、ハードコアといわれる音楽のジャンルでボーカルをしてました。

ハードコアのライヴは凄惨です。

地下深く、暗く、、集った人々がその狭いなかで体をぶつけ合い、鬼のように拳を振り回し、飛んだり跳ねたり暴力的に奇声をあげる。(ヴォーカルだったので奇声をあげる側でした)阿鼻叫喚まさに地獄絵図。

そんな場所で日頃の鬱憤を爆発させてました。あぁ、そろそろライヴしたいなぁ、、笑
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文化の歴史というのは娯楽の歴史であったりもするのかもしれませんが、今でもライヴハウスやクラヴ、居酒屋など、そういう所に行くのは嫌いではありません。もう一度言います。嫌いではありません。笑

そういった場所にはだいたい決まってこのような貼り紙があったりします。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

ハメをはずしすぎて、なにかトラブルに巻き込まれたとしてもそれはあなたのせいですよ。そんな意味だと思います。

そういった場所では恐ろしいトラブルに巻き込まれてしまう事も、ニュースをみてると、あるみたいです。

 

さて、仏教では私の中にあるトラブルの種の事を煩悩と呼んでいます。

煩悩の数、諸説ありますが、その中の代表的な三つの煩悩の、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)をまとめて、三毒の煩悩と呼んでいます。

貪欲(とんよく)とは、貪りの心です。あれがほしい。これもほしい。もっとほしい。もっともっとほしい。

瞋恚(しんに)とは怒りの心です。なんで俺だけ。腹立つわー。きにいらん。このやろう。

愚痴(ぐち)とは自分の都合に囚われて真実を見ようとしない心です。

困ったことに煩悩の三毒はとても美味しく、迷いの私にとって、これらを完全に断つ事はかなり、難しいです。

10836480_729122890507510_1656777299_nさらに水のようにぐびぐび飲めるのでそれが毒である事は、なかなか、なかなか、きづけません。

わしゃダイジョブよ、これは毒でしょ、分かっとんじゃけ、大丈夫。自覚しとんじゃけ大丈夫。もういっぱいだけなら大丈夫。ほら大丈夫じゃった。まだ飲んでも大丈夫なんじゃけ。

そんな風に、いつのまにやらグビグビのんで失敗。気づけば欲に溺れて溺れて、トラブルに、、

薬があるからといって毒を進んで飲むような事はしなさんなよ。と、昔からたしなめられておる事ではございますが、

あぁ、、あぁ。なんてこった。こんなはずじゃ。なんて事にも。

「自己管理でおねがいします。なにかトラブルがあった場合。当店は一切の責任を負いません。」

阿弥陀仏という仏様は、ほっとけば地獄行きまちがい無しのこの私に、この張り紙のように「あなたのせいよ。わしゃしらん。勝手につぶれなさい。」なんてそんな仏様ではありません。

地獄に惹かれてしまうこの私の弱さ、不完全さに気づいているからこそ、

我が名を呼ぶ者を必ず浄土に生まれさせ、煩悩から離れた悟りの世界に導くぞ。それができぬなら私は仏にならないぞ。と

私の弱さ醜さを一身に背負い、手を変え、品を変え、お念仏となって、足元おぼつかない私をトラブルのない浄土にわたすぞ、と、はたらきつづけてくださっています。

元来またやってしまった。なんて事すら思えぬ私ですし、毒と薬の区別もつかぬ私ですし、わかっちゃいるけど止められない、そんなスーダラな私です。

そんな私が、迷いや過ちに気づかせて貰う時。そこには私を必ず救うぞ。という仏様の願いの光が絶えず照してくださっておったのでした。これからもお酒片手の迷いの私と共に歩んでくださるのでした。

南無阿弥陀仏。

【執筆者はこちら】

真っ暗闇でシアワセ 【小林 智光】

こんにちは。この原稿を書いているのは12月の初頭。初雪が降るか降らないかのまさに「冬本番」です。
毎日色々なことがありますが、私たちの人生ってどちらかというと「嫌なこと」や「辛いこと」のほうが多くないですか??
かくいう私も、生まれ育った土地で過ごし、お坊さんとして生活していると良いこともありますが、やはり「嫌なこと」や「辛いこと」も
たくさんあります。

例えば人間関係。田舎で過ごしているとどうしてもお会いする方は限られてきますし、自宅=職場ですので、家族とも長い時間を共にしています。

皆仲良くニコニコ暮らしていければいいのですが、そこは煩悩丸出しの凡夫。やはりケンカしたりうまく噛み合わなかったり。

他にも息子の将来のこと、健康のこと、これからのお寺の事…
悩みのタネは360℃、どこにでも転がっています。
私達はつらい事や悲しい事があってくじけそうになると、「目の前が真っ暗」になります。そしてそれが長引くと、ずーーっと真っ暗闇。
もう光なんて差し込まないのでは…このまま永遠に真っ暗闇か…と悩むこともあるかもしれません。
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中国の曇鸞大師がこんな例え話を説かれています。
『たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、
 すなはち明朗なるがごとし。
 闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。』
 (教行信証・信巻)
–現代語訳–
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。
この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。
千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。
同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるの です。
このお話を聞くと、「一筋の光で目の前がバーッと明るくなった」というイメージになります。
しかし、先日聴かせて頂いたご法話の先生がこう解釈されていました。
「一筋の光でバーッと明るくなったとかいう話ではなく、これは光が差し込んだことによって『あぁ、自分は闇の中にいたのだなぁ』と気づかされたという
意味ではないですか?」
なるほど。
確かに千年もの間、真っ暗だった部屋がイッペンポンで明るくなるというのも中々解せない。
それよりも、「そうか、今まで自分は暗闇にいたのか」と気づく方が何だか大切なことを教わっているような気がするのは私だけでしょうか?
そもそも生まれてから死ぬまで暗闇にいたのなら、光を知らないまま一生を終えることになる。
空しく一生を終えることとなる。
別にバーッと明るくなる必要もない。よーく目を凝らしていけば暗闇にも慣れてくるし、その部屋が狭いのか広いのかもよくわかる。

私達は「救われた」というのをどことなく「バーッと目の前が開ける」ようなイメージを持ってはいないでしょうか。

少し乱暴な言い方ですが、どんなに尊い教えを聴いたって自分の悩みは解決しません。暗闇は暗闇のまんま。
だけど、「真っ暗闇でシアワセ」な生き方、暗闇と仲良く付き合っていけそうな生き方が見つかれば、それはそれで「救われた」と感じられないでしょうか。
『はい、僕は悩みで目の前が真っ暗です。これからもそうでしょう。でもナンマンダブツで平気です。』
そんな生き方が出来たら素晴らしいなぁと思うのですが、如何でしょうか??
(ある意味、ただの「開き直り」とも言えますが…(^_^;))

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人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し 今すでに聞く 【朝戸 臣統】

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三帰依文といわれる文章の言葉で、地元の仏教会がポスターを作成しました。

今ここで、リレーコラムご覧になって、この言葉にフッと目がとまったあなたへ。
何か引っかかりましたか? 何か心に残りましたか?
もしかしたら、内側に抱え込んでいる漠然とした問題意識がわき上がってきた方もあるかも知れません。
忙しい日々の日常の中で、当たり前と思っていたことが当たり前でなくなることを、「有ること難し」といいます。そうです、それが「ありがたい」ということなのです。
なぜ自分が人間としていのちをいただいたのか。なぜ自分がこのコラムで仏法の言葉にであえたのか。全ては、私たちの常識を越えた、ありがたいご縁に依るのです。
仏教は特別な教えではありません。お念仏も特殊な教えではありません。一緒にお参りしましょう。ご法話をお聴聞しましょう。受け難い人間のいのちを授かり、聞き難い仏法を聞かせていただけるのは、他でもない、私自身なのですから。