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「門徒もの知らず」という生き方 【西光 義秀】

浄土真宗の信者は「門徒」と呼ばれます。その門徒のことを揶揄して、「門徒もの知らず」といわれることがあります。浄土真宗の信者は、世間の常識を知らないという意味として使われています。
たとえば、結婚式は大安の日を選んだり、葬儀を友引の日には出さないという六曜による日の良し悪しを問いません。方角や、名前の画数などにも無頓着です。おもしろいのは、葬儀後の四十九日が三ヶ月にまたがるってはいけないのは、、「始終苦(四十九)」が「身につく(三月)」からという語呂合わせによるのですが、けっこう真剣に考えている人が多くいるようです。しかし門徒は一笑にふしてしまいます。
それは浄土真宗が仏法の王道を歩んでいることの証です。仏教は、社会をよりよく生きる方法を教えてくれるのではありません。社会をよりよく生きるというのは、わが煩悩を満たしている状態ですから、それも迷いであると教えています。仏法が目指すところは、迷いの生き方から「めざめる」ことです。「門徒もの知らず」というのは、その迷いを教えによって払拭した生き方を示しているのです。
仏法によるめざめや、仏法によって育てられることを見失ってしまったとき、世間の常識が優先する生き方にならざるをえません。「門徒もの知らず」というのは、世間の常識を身に付けて生きる生き方ではなく、仏の教えを中心にするという生き方や価値観を身に付けてきたということなのです。ですから、世間の常識があって、その上に真宗の価値観を教え込むから形だけ、知識だけの身に添わない教えに終わってしまうのです。
浄土真宗も仏教である限り、「出世間」の法であることを心得なければなりません。しかし私の身がこの娑婆にある限り世間との関わりを断つことはできません。断つことができない世間との関わりが絶たれていく、破られてゆくことに気づかせてもらうのが仏法を聞くということなのです。

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