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「浄土真宗の法話案内」の設計とシステム開発を担当しています。滋賀県の大谷派末寺のネコ好き住職です。好きな動物はもちろんネコ。大事なことなので二度言いました。

方便法身と仰ぐ【筑後誠隆】

師匠と出遭ったのは、20歳の時だった。龍谷大学が封鎖されていた時に学長代行をしており、学長選挙規定を設定して新しい学長を選出したので、雑務から逃れてアメリカへ一年間の海外留学‥‥という名目のご褒美から帰ってきたときだった。
こちらは3回生となり、そろそろまともに勉強しようかなと思っていた時だったから、師匠の「現代思想批判」という講義は、アメリカ帰りのオッサンのお気楽なヨタ話だと思って聞いていた。
ところが、この講義が面白い。キルケゴールから始まって、初期仏教・チベット仏教・唯識まで、縦横無尽に話が飛んでいく。こちらは、2年間の紛争でほとんどまともな勉強をしていなかったから、分からん話を聞くたびに「そんなアホな」と合いの手を入れて、解説を追加してもらったものだった。

あの先生に就いてほしかった

師匠に就いたのを一番喜んだのは母親であった。師匠は、得度の習礼で仏教を教えていたのだった。母親もその話を聴いて、息子はこの先生に就けたいと思ったらしかった。
師匠は、龍谷大学の仏教学の最長老が得度の習礼で教えるべきだと、後々も言っていた。でないと、本当の仏教が分からなくなる、とも主張していた。
ボクの得度習礼の時も、師匠が教えてくれた。往生浄土が目的ではない、成仏が目的なのだ、と明確に説明してくれたのが、みょうに心に残った。

背表紙を見るんじゃ

師匠の研究室に入って最初の課題は、必要な本を図書館から探し出してくることだった。「誰某の〇〇という本を採ってこい」という課題に、すぐに閉架書庫に入って探し出してくるのだが、最初は難しかった。
師匠の「本は背表紙を見て覚えるんや」の言葉で、毎日、書庫に入ってすべての棚の背表紙を見て覚えた。そのお陰で、カテゴリーを把握し、誰がどのような本を書いたのかが分かるようになった。
マ、和綴じ本を毎日触っていたので、手の皮は一枚剥けてしまった。しかし、図書館の掃除のオバチャンと仲良くなって、ボクの専門の書架だけは、いつも綺麗にしてくれていた。

つまみ食いをするな

どの経典、どの注釈書でも、必要な部分だけ引用しようとすると、「全部読んだか?」と叱られた。すべて読み通さないと、何をどう言おうとしているのか分からない。ひょっとすると、正反対の論証で取り上げているかもしれない。
今は『般若心経』を講じているので、『八千頌般若経』と『大般若経』を通して読んでいるが、分量が多いので大変だ。が、やはり読み通さないと誤解していた部分があった。夏からは『大智度論』をもう一度読み通さなくてはならないと思っている。
こういう指摘が、お聖教を読む時にも必要なことだろうと思う。

経典は縁起のように、お聖教は信心をいただくように

経典を読んでいた時に、「そんな読み方をしたら、縁起にならん」と叱られたことがある。経典はすべて縁起を説くために書いているんだから、縁起のように読むんだと、繰り返し言われた。同じように、御開山のご著書をいただくときは、信心をいただくように読むのだ、と教えられた。そう読めない時は、読み方が間違っているんだから、もう一度読み直せ、と言うことである。
「我々が学んでいるのは哲学じゃない。仏教なのだから、答えは決まっている。勝手な読み方をしてはいけない」と何度も言われた。

弟子は師匠を選べるが、師匠は弟子を選べんからナァ

こういう話をして行くと、さも立派な弟子のように思われるだろうが、研究室の中でもボクは本当に最後の方の弟子だったから、かなり甘やかされて指導されたと思う。
逆らった時に「昔ならドツいていたけどナァ」と言われたり、研究が小さくまとまった時には、「中身が小さいんやから、題なと大きくしとけ」と笑われた。そして、挙句に「弟子は師匠を選べるけど、師匠は弟子を選べんからナァ」という言葉だった。
小さな指導はほとんどなかった。ただ、方法論と体系については揺るぎがなかった。自分が考える時の指針はちゃんと伝えてくれた。
ボクにとっては、師匠というより方便法身であった。浄楠院釋尚邦 享年90歳。今年は十三回忌となる。

執筆者:筑後 誠隆(ちくご のぶたか)
もとマイコン坊主。ニフティのfbudの初代主催者。 龍谷大学大学院単位取得退学 仏教学専攻 専攻は因明と唯識。 本願寺派輔教。徳勝寺前住職。 昭和26年生まれ。 趣味 庭木の剪定と若い坊主を蹴飛ばすこと。(Facebook

「師と仰ぐ」ということ【柳衛法舟】

2年前の5月初旬、僕は真宗大谷派にて「人生二度目の得度」をしました。それから現在に至るまでの間、僕は心の中のどこかで、一つの矛盾のようなものを常に感じていたように思えます。

その矛盾とは、「『全ての人々を摂め取って捨てない』という本願に基づく真宗教団において、何故『疎外感』のようなものを時折感じるのだろうか? この『疎外感』の正体とは、一体何なのだろうか?」というものでした。
この矛盾は簡単に答えが出せるようなものではなく、恐らく一生問い続けていかなければいけない問題だと思います。

僧侶の方と浄土真宗について語り合おうとした時、「(私が学んでいる)○○先生は、このように仰っていた」という発言を繰り返すばかりで、こちらの意見を殆ど受け止めてもらえなかったことが、今までに何度かありました。おそらく本人は「○○先生の言葉は間違いないから、是非知ってもらいたい」という親切心で発言しているのでしょう。けれども、僕の心の内に湧き起こったのは、教えて戴いた感謝の気持ちではなく、押しつけがましさに対する不快感でした。白状すると、○○先生の話を聞きたいと思うどころか、「意地でも聞くものか」とすら思いました。
僕は何故、不快な気持ちになったのでしょうか。それは「○○先生に学べた私は幸せ者だ」という「選民意識」のようなものを感じてしまったからです。写真のポジにはネガがあるように、「選民意識」の裏には必ず「選ばれなかった民への眼差し」が伴います。言葉の裏に「今まで○○先生に学ぶご縁のなかったあなたは可哀想だ」という眼差しを感じ、とても嫌な気持ちになったのです。
以下、この出来事を念頭に置きながら、皆さんと一緒に「師と仰ぐ」ということについて、考えてみたいとおもいます。

この出来事に限らず、浄土真宗の僧侶の世界では「師との出遇い」をとても大切にします。その背景には「『師との出遇い』が無ければ、本当に本願念仏の教えに出遇ったとはいえない」という考え方があります。これは、親鸞聖人が本願念仏の教えと出遇う上で、師である法然上人との出遇いが決定的な意味を持ったことを根拠としています。僕も、「師との出遇い」が大切であるという点に、異論はありません。
しかしながら、「しっかりとした先生の下で学ぶことで、必ず教えと出遇える」ということにはならないはずです。事実、法然上人の下には数多くの門弟が集っておりましたが、浄土真宗の立場から言えば、本願念仏の教えに出遇えた者は数えるほどだったからです。
むしろ逆に、「教えに出遇えた」という事実に立った時にはじめて、その縁となった方が「師」として見出されるのではないでしょうか。もっと言えば、今まで出会っていたはずの方と、師として出遇い直すということがあるのだと思います。

少し意地悪な言い方になりますが、「○○先生はこう仰っている」という方は、本当に○○先生を「師と仰いでいる」のでしょうか。自分自身が本願念仏の教えに出遇った、救われたという体験がなければ、○○先生との関係は単なる教員と学生との関係でしかありません。そうした表明も不十分なまま、「私は○○先生に学べて幸せだ」「私は××学校で学べて幸せだ」とことのほか言い立てる裏には、自分自身の歩みに対する自信の無さすら感じられてしまいます。
何より、他人が本当に教えと出遇えたかということは、心の奥底の話になりますから、外見や経歴から窺い知ることは出来ないはずです。もし、自分とは違う経歴であること、例えば龍谷大学や大谷大学といったしっかりとした教育機関で学んでいないことから、「この人は教えに出遇っていない」と決めてかかるのであれば、それは傲慢な姿勢と言われても仕方ないのではないでしょうか。

さて、皆さんは「師との出遇い」について、どのようなイメージを持っておられるでしょうか。恐らく、多くの方は実際に顔を突き合わせた師弟関係、所謂「面授口決」の関係をイメージされるかと思います。確かに、多くの方が「私の師」として挙げられるのは、学校や私塾で教鞭をとられた教学者がほとんどです。
勿論、「師との出遇い」のオーソドックスな形が、教育機関における教学者との師弟関係であることは間違いないと思います。けれども、例えば僕のように教育機関に所属して教学者から直接学ぶ縁になかった者はどうしたら良いでしょうか。「師との出遇い」が成り立たないから、教えと本当に出遇うことは出来ないのでしょうか。
僕は、「師との出遇い」は、直接の師弟関係に限定せず、もっと広いつながりでもって捉え直して良いのではないかと考えています。それこそ、極論かもしれませんが、自分が根底からひっくり返されるような教えとの出遇いがあれば、本を通じて「師と仰ぐ方」と出遇うことも出来るのではないでしょうか。既に亡くなった方であっても、書かれた文字を通して、それこそ時空を超えて出遇うことが出来るのであれば、それはとても素晴らしいことではないかとも思うのです。

なお、これはあくまで僕の個人的な意見ですが、自分の師が誰かについて、あまり積極的に表明していく必要もないように感じます。勿論、教学理解に対する議論などで自分自身の立ち位置を示す必要がある時には「名告る」べきでしょうし、ことさら隠す必要もないでしょう。ただし、わざわざ「○○先生が私の師だ!」言い立てなくても、本当に師と仰いでいるのであれば、自ずと言葉や行動に表れてくるはずです。これこそ、師と仰ぐ方への敬意を表しているのではないでしょうか。
僕は「師の言葉」よりも「師を縁として、出遇った教えとは何か」「教えと出遇ったことで、自分自身にどのような転換を迫られたのか」ということが重要だと考えています。ですから、「教えによって、転換を迫られた自分」というものを、自分自身の言葉でもって表現していきたいし、そのような表現に出会っていきたいと思っています。本願念仏の教えが僕一人に届くまでに、そのような営みが絶えること無く続いてきたはずであり、その担い手の方を心より尊敬するからです。

最後になりますが、生まれや経歴を問わず、一人でも多くの方が様々な縁のもとで御念仏の教えと出遇い、先達の中から「師と仰ぐ方」を見出して戴きたいと念じています。そして、ご自身が「師と仰ぐ方」と同様に、ご自身の言葉でもって、御念仏の教えを喜んで戴きたいと念じております。
そうして紡がれた言葉が、新たな念仏者を生んでいく。そうした広がりこそが、浄土真宗の僧伽の本質ではないかとも思うのです。

執筆者 柳衛 法舟(やなぎえ ほうしゅう)
1982年東京都生まれ
学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程史学専攻修了、真宗大谷派教師。現在、真宗大谷派成真寺衆徒として法務に携わる一方で、東京にて団体職員として仏教書の出版事業に従事。(Facebook
著書に『ニセ坊主 僧伽をおもう―本願寺維持財団と真宗大谷派』(響流書房)

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり【朝戸臣統】

熊本で、大きな地震が起きました。何十人もの命が失われたばかりでなく、未だに余震が続いていて、多くの人たちが不安な日々を過ごしておられるようです。家が崩れ、道路が寸断され、命が失われていく中で、当たり前のようにあった目の前のものが、ガラガラと音を立てて崩れていくかのようです。
自然は、時に豊かな恵みを与えてくれるけれども、時には残酷な災害ももたらしてしまいます。

ここ数十年で、私たちは様々な大災害に見舞われ、その度に力を合わせて復興の道を歩んできました。同時に、人間の力の無力さを知らされ、自分の力の限界もイヤと言うほど知らされました。
住む家も、道路も、水や食料も、そして家族や知人がいてくれることを「当たり前」だと思い込んでいた私から、その当たり前が奪い取られてしまう。「どうしてこんな目に遭わないといけないのか!」と叫びたくなるばかりです。
どんなにお念仏申したからといっても、お念仏で災害に遭わなくなるわけではありません。お念仏で経済的な支援をいただけるわけでもありません。
あらためて、私たちにとってのお念仏とは、いかなる意味を持つのでしょうか。

歎異抄 第四条には、「お慈悲」には二通りあるのだという、親鸞聖人のお言葉が示されます。

 あるとき、親鸞さまはこう言われた。
「慈悲」というものについて、私たち他力門と、自力をたのむ聖道門とでは、考え方がちがう。
 聖道門の慈悲とは、他人やすべてのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、自力のちからでたすけようとする気持ちと、その行為のことである。
 しかし、はたしていったい、ほんとうに自分のちからで他の人びとを根底から救うことなどできるものなのだろうか。
 我々の信じる他力の慈悲というのは、すべての人は念仏によってまず浄土に生うまれ、そこで仏となる。その結果、新たな力を得えて人びとを救うことができるという考えかたである。
 この世において、どんなに他人があわれで可哀相に思われても、自力で思うがままにそれを救済することなどできないことなのだ。そのことを思えば、自力の慈悲にたよることだけでは十分ではない。だからこそ、ただひたすら念仏することに徹底することが、ほんとうの慈悲の心と言うべきだろう。
(五木寛之氏『私訳歎異抄』より)

多くの命が失われ、避難所でつらい思いをしておられる方々の映像をテレビで見ながら、「かわいそうだなあ、何とかしてあげたいなあ。」と思う自分がいるのも事実です。
でも、そう思いながら、いつもと同じようにごはんを食べれば、ちゃんとのどを通ります。いつものように晩酌をし、ぐっすり眠っている自分がここにいます。
私の中からわき上がってくる、何とかしてあげたいという「お慈悲」の思いは、あまりにいいかげんで、頼りないものでしかありません。

目の前にある「当たり前」が崩れ去っていくのは、災害ばかりではありません。突然の事故や、大病を患うなど、様々な人生の苦難に遭わねばならないのが、私の現実でもあります。
私自身は、四年前の交通事故で、今までの当たり前が私の手から奪われていきました。与えられていた仕事もすることができず、家族や周りに心配をかけ、ただベッドに横たわるしかない現実の中で、「どうしてこんな目に遭わないといけないのか!」と強く思いました。
その一方で、「当たり前」を失ったことで、何が本当に大切なことなのかを知ることができたように思います。家族をはじめとして、多くの仲間たちに支えられ、今まで暮らしていたことに、あらためて気付いたのです。「当たり前」ではなく、実は「有難がたい」ものに支えられている私でありました。
「有り難い」ということは、ずっと有り続けることが難しい、ということでもあります。私が普段から大切にしているものは、いつまでもアテにはならない、ということです。家族も、健康も、お金も、地位も、場合によっては家や食べ物さえも奪い取られていく私である、ということです。
アテにならないものをよりどころとして生きているのが、私の姿なのです。自分の中にあると思っていた慈悲の心も、全くアテになりませんでした。
 「他人やすべてのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、自力のちからでたすけようとする気持ち」さえも末通ることなく、平気で食べ物がのどを通るのが、私の姿なのです。

親鸞聖人は、そのような私が自分の力で行おうとする慈悲は、どうしても末通らないものなのですよ、と示されました。
同時に、本当に末通ったはたらきは、阿弥陀様のお慈悲の心であると示されます。
「必ず救うぞ。我われにまかせよ。」
という阿弥陀様の願いが、私のよりどころとなるのです。
災害に遭わないのが当たり前、事故に遭わないのが当たり前、平穏無事に暮らしているのが当たり前だと思い込んでいた私から、その当たり前が奪い取られたときにこそ、
「どんなことがあっても、汝を必ず救いとるぞ。」
という、どんな条件も付けることのない阿弥陀様の救いが、私のためであったと確かに頷けるのです。
残念ながら私の中には、末通ったお慈悲はありませんが、その私を必ず救い、仏と成らせていくという大きなお慈悲の中にあるのだと知らされます。それは、どんなことがあっても私を捨てることがないという、摂取不捨のお誓いです。
そのお慈悲のはたらきの中にあればこそ、私の中にある慈悲の思いが末通らないものであることを自覚することができるのです。阿弥陀様のお慈悲の心こそがホンモノの善であるならば、私の中にある慈悲は全くのニセモノですから、「偽善」でありましょう。
だから、私が行うことは全て偽善であると自覚しながら、今回の震災にも関わっていきます。ボランティアも、義援金も、災害支援の活動や思いは、私の中にある偽善でしかないけれども、できることを積み重ねていきたいと思っています。
阿弥陀様のお慈悲のぬくもりに、少しでもかなう生き方をめざしていきたい。お念仏を申しつつ、偽善を積み重ねながら、「困ったときはお互い様」の支援を共にしていけたらと思います。

神通寺報2016年4月号より(朝戸臣統)

祝・登録法話件数2万件突破!とそのちょっとした分析

こんにちは。浄土真宗の法話案内の開発・保守担当の瓜生です。このサイトも運用を開始してそろそろ三年が経とうとしています。月日の経つのは早いですね。

その間皆さんが地道に法話情報を入力して下さり、少し前にサイトの登録法話件数が2万件を突破しました(ぱちぱち)。最近はどこに法話に行っても「法話案内を見て来ました」という方をよく見るようになりました。

また、データベースを共有して法話情報の掲載をして下さってるサイト様も出てきました。「浄土真宗本願寺派安芸教区布教団」様、また「真宗大谷派北海道教区第4組」様、ありがとうございます。(当サイトとデータを共有して連携したいサイト管理者様は是非ご相談下さい)

さて、その2万件突破したという法話の情報を、ちょっとだけ分析してみたいと思います。リリースから2016年04月27日までの法話情報の簡単な分析です。なんでこんな中途半端な日にって?、それは4月27日が僕の42歳の誕生日だからですよ。

掲載数と期間

さて、最初にサイトに情報が掲載されたのは2013年11月19日、それから2016年04月27日までの890日間の分析となります。

この間に登録された法話情報は21,350件。1日あたりの平均登録件数は約24件です。

グラフはクリックすると拡大表示されます。

県別統計

都道府県別法話登録件数
都道府県別法話登録件数

まず県別の統計です。赤色の濃いところが入力件数の多いところです。

京都・広島・石川といった、真宗の盛んなところがやはり濃い赤になっているほか、北海道や東京が意外に健闘しています。

人口10万人あたりの法話登録件数
人口10万人あたりの法話登録件数

先ほどの法座件数を元に、人口10万人あたりの法座数を計算してみました。人口統計は2010年国勢調査のものを使っています。富山県や福井県といったところが上位に入っていますね。

統計を表にしてみました。

順位 都道府県 登録件数 10万人あたり
1 京都府 4895 185.70
2 広島県 1764 61.66
3 石川県 1737 148.46
4 大阪府 1467 16.55
5 北海道 1402 25.46
6 東京都 1374 10.44
7 愛知県 1285 17.34
8 岐阜県 1097 52.72
9 富山県 782 71.55
10 滋賀県 724 51.31
11 福井県 642 79.65
12 福岡県 408 8.04
13 鹿児島県 400 23.45
14 兵庫県 395 7.07
15 大分県 360 30.08
16 三重県 276 14.88
17 新潟県 229 9.65
18 熊本県 226 12.44
19 奈良県 196 13.99
20 山口県 186 12.82
21 香川県 185 18.57
22 島根県 173 24.13
23 佐賀県 166 19.53
24 神奈川県 120 1.33
25 千葉県 111 1.79
26 和歌山県 99 9.88
27 宮城県 92 3.92
28 長崎県 66 4.63
29 埼玉県 64 0.89
30 岡山県 53 2.72
31 鳥取県 41 6.96
32 山形県 40 3.42
33 栃木県 30 1.49
34 茨城県 28 0.94
35 福島県 25 1.23
36 秋田県 23 2.12
37 静岡県 22 0.58
38 愛媛県 18 1.26
39 高知県 18 2.36
40 宮崎県 18 1.59
41 岩手県 13 0.98
42 山梨県 13 1.51
43 青森県 9 0.66
44 長野県 5 0.23
45 沖縄県 5 0.36
46 徳島県 2 0.25
47 群馬県 1 0.05

こうしてみると、京都が圧倒的なのは東西本願寺の本山があるので当然として、山口県のような強力な本願寺派の地盤があるところが案外少なかったりします。法座があっても入力する人がいないのでしょう。

それにしても、群馬県は一体どうしたんでしょう。群馬県には浄土真宗はないのか?(あります)こんなの絶対おかしいよ!

宗派別法話登録割合
宗派別法話登録割合

宗派別の法話登録件数の割合です。真宗高田派が少ないのが少し気になりますが、だいたい実際の法話件数を反映していると言えるかもしれません。

各月別法話登録数
各月別法話登録割合

最後は、各月別の集計です。期間の偏りを補正して割合(%)で表しています。これはちょっと意外な結果です。7月が多かったり1月がこんなに少ないのはなぜかと思います。

法話案内への法話登録は、一般寺院よりも別院などの公開講座が多めに入るので、そのためにこのような結果が出ているのかもしれません。

以上が簡単な分析です。特に意外な結果は出てないかもしれませんが。ただ、私がうれしいのは、確実にここ数年で「法話案内をみて来ました」という人と法座でお会いする機会が増えていることです。

入力しなければ来られません。法座案内はユーザー登録すれば誰でも無料で法座情報を登録することが出来ます。ほんの少しの手間でお念仏の救いに出遇われる方があります。是非登録して下さい。

私はamazonで「注文」される僧侶【瓜生崇】

amazonで僧侶を「注文」し、法事・法要に来てもらえるというサービスが話題を集めています。

アマゾンお坊さん便 僧侶から登録希望殺到も仏教界は批判的

私も地方の末寺の住職ですから、いわゆるこの事についての同業者の声を随分聞きましたが、世の中の大きな流れとして受け入れる覚悟を見せる人はいても、僧侶を商品扱いするようなこの取り組みを好意的に捉えている人はあまりいません。

前置きはともかくとして、この僧侶手配、「みんれび」という会社が行っている「お坊さん便」というもので、窓口にamazonが加わっただけでサービス自体は以前からあったものでした。他にも業界最大手の「小さなお葬式」を初め、最近はちょっと乱立気味と言えるくらいに似たような事業が出てきています。その内容は「ネットや電話から申し込み」できて「定額」というのが特徴で、細かい違いはあってもかかる費用も中身もそんなに変わりません。

で、実は私も僧侶派遣会社に登録していて、「お坊さん便」も含めてこの手のは色々とやっていました。日本の伝統仏教の衰退が言われる中、賛否両論のこれらのサービスが、現役の住職から見てどんなものなのか、少し書いてみようと思っています。

生活の成り立たない「住職」という職業

リンク先の記事には「登録したいという僧侶が多いのに驚いた」というみんれびの担当者のコメントが載っています。こうしたサービスは僧侶にとって決して素直に受け入れられるものではないと思いますが、それでも登録を望む人は多いでしょう。

最近になってマスコミもとり上げるようになりましたが、「高額なお布施をとって外車に乗って贅沢している坊さん」や「京都の祇園で飲み歩く宗教貴族」というのは存在はしていますがごく一部で、実際のところは住職の過半はそれだけでは生活が成り立たず「兼業」しているわけです。田舎で育った方は、学校の先生がお寺の住職さんだった、なんて経験を持っている方は少なく無いでしょう。しかも寺の基盤は原則世襲され、他の土地に移ることも容易ではありません。

最近は格差の固定化ということが社会の問題として話題になることが多いのですが、住職の世界はそれよりずっと階層化され固定化された格差社会と言うことも出来ますし、私のように外からこの世界に入った人間には不思議なのですが、なぜかこの格差を是正しようと言う取り組みや問題提起は仏教界からほとんどなされることがありません。

だからといって別に卑屈になったりしているわけではありません。私が所属している宗旨は浄土真宗(真宗大谷派)ですが、元々宗祖の親鸞聖人は山を降りて民衆と共に歩まれた方ですから、一人の労働者として生計を立てつつ、住職として御門徒(いわゆる檀家のこと)と一緒にお念仏の道を歩むということを、かえって大切に思っている住職も多いのです。

とは言え現代ではそれが困難になりつつあるのも実態です。何しろ生計の成り立たない寺は地方の人口減少地にあることが多く、そこでは働き口を見つけるのも大変ですし、兼業では雇い主の理解をうるのも簡単ではないでしょう。

家族の中に他に僧侶がいてうまく仕事を分担できればいいのですが、それが出来ないと平日は都市部の会社に通って、土日は田舎に帰って寺の仕事という一年中休みなしの生活。葬式が入れば上司に頭を下げて仕事を休んで駆けつけるという住職も少なくありません。

この手の苦労話は働き盛りの年代の住職が集まればよく話題になります。お寺のことをもっと一生懸命にやりたいと思っていても経済的な事情がそれを許さないのです。

そして、私もそんな中のひとりだったわけです。ウェブサービスの受託開発という副業をしながら住職をしていた私にとっては、こうした派遣だろうと定額だろうとなんだろうと「お坊さんとしての仕事をしながら家族を養える」可能性のあるサービスは魅力的に思えました。

意外だった「僧侶派遣サービス」の実態

そんなわけで登録した「僧侶派遣」ですが、早速矢継ぎ早に依頼が入ってきて東奔西走の毎日が始まりました。

当初こういうサービスを選ぶ人というのは、坊さんなんか付き合いたくもないけど儀式上仕方なしに呼んでいるのだ、と思っていました。実際にこれらのサービスの中には「檀家になる必要がなく一回限りのご縁」ということを「売り」にしているものもあるのです。

しかしそれは勘違いでした。通夜や法事では通常法話をしますが、みなさん本当に関心を持って頷いて聞かれ、様々なことを相談して来られるし、少なくない方がその後の法事の依頼もされます。手紙を頂いたりもっと話を聞きたいと言われる方も少なくありませんでした。

よくよく考えれば地元の付き合い寺との関係やしがらみもないのに、数万円という安くないお金を払われてこうした「サービス」を申し込むというのは、仏教のことを大事に思っているという証拠です。

「仏教が大事なんじゃなくて、亡くなられた方のことを思ってのことだろう」と言われる方もあるかもしれませんが、お葬式はともかく法事はお坊さん無しでする人も今は多く、わざわざネットで探して依頼するというのは、そこに何かしら仏教への気持ちがあるのだと思うのです。

何しろ随分いろんなところに行きましたから、その中から近くのお寺の法話に参詣されたり、仏教書を読まれる方も出てこられました。浄土真宗の法話案内というこのインターネットの法話案内サイトや、響流書房という仏教書の電子出版の取り組みも、こうした人達との交流から必要性を感じて始まったものです。

寄せられる批判の声

こうした「派遣で坊さんしています」という話は隠さずいろんな人に話したのですが、住職仲間からは相当批判されました。結構激しい喧嘩になったこともあります。

批判する人の思いはよく理解できます。おおまかに言うと、

(1)お布施が定額というのは本来の姿に反している。
(2)業者へのお布施のキックバックの問題。
(3)葬送儀式が疎かになるのではないか。

というだいたいこの三点に集約されるように思います。中でも一番は(1)の問題で、お布施はそもそも自由意志によるものだという原理原則論です。額が決められてしまったらそれは法要儀式の商品化に繋がるし、払えない人は排除されてしまうのではないかという懸念です。

これについては慎重な議論が必要ですが、実際のところはお布施は自由意志とはいいながら結構「定額」になっている部分も少なくないのです。例えば多くの寺院が取り組んでいる「納骨堂」はどこも大きさによって「◯◯万円以上」とお布施額が決められていますし、トップである本山そのものが「割り当てられたお布施」を末寺に課している事実もあり、「院号」の申請も定額です。

それらをこの問題と一緒にはならないと思いますが、少なくともお布施は自由意志という「原理原則」は、かえってこちらの都合で割りと勝手に破られてきたようにも思います。

依頼される方についても大体はお気持ちというよりも、親戚やお寺に詳しい人に聞いたり、ネットで「相場」を調べたりして額を決めているのではないでしょうか。

額を決めると払えない人が排除されるというのはその通りです。ただ、ネットでこういうサービスを申し込んだ人は、お寺とのつながりが無いがゆえに、どこに頼んだらいいのかもわからず、更に僧侶を呼んだら法外なお布施を要求されるのではないかという恐れがあり、その不安からためらっていた人が多いのです。

一部ネットで言われるように「戒名に百万円請求された」なんて事は「そんなのマジかよ絶対にありえねぇ!」「そんなのはごく一部だろ、一緒にするな!!」と思う僧侶がほとんどでしょう。しかし、事実としてそういうことをした僧侶はいたわけで、不安を与えてきた私達の有様は事実です。

額を決めることで排除される人もいれば、額を決めないことで排除される人もいるのです。定額が僧侶を呼ぶ不安を軽減して仏教に出遇う道を開いたのなら、それもひとつのお布施のあり方として認めてもいいのではないでしょうか。

(2)のキックバックの問題については、私は業者を紹介料を払うのは当然だと思っていますが、少なくとも依頼者に対しては、どこまでがお布施でどこまでが紹介料であるのかを明示するべきだと思っています。

以前はこのどこまでが紹介料でどこまでがお布施なのかということが明示してある業者もあったのですが、現在は消えているようです。なのでここであえて明らかにしますが、皆さんがこれらのサービスを利用して僧侶に「お布施」を払うと、その中から通常3割から5割、平均で4割くらいがキックバックとして僧侶から仲介業者に払われます。(この問題については新たな記事を書きました。「お坊さん便」と新たな搾取の構造

(3)の葬儀儀式が疎かになるというのは儀式を執行する僧侶次第という面もありますが、経験上これらの業者による葬儀式は設備の回転を高めるために無茶な組まれ方をすることが多く、確かに指摘は当たっていると思います。法事にしてはその限りではないでしょう。

共感する僧侶

そんな中で色々と喧嘩しながらもやって来ましたが、「俺達のシマを荒らすのか」みたいな明らかに理不尽な批判は数えるほどで、批判する人は殆どが葬儀を大切に思って、なんとかご遺族の悲しみに向き合う場を維持したいという思いにあふれた人ばかりでした。それらのこだわりや優しさに触れることが出来たのは自分の僧侶人生の中でも特に得難いことでした。

一方で、共感してくださる方もあったのです。これは「開教寺院」と言われる、最近になって建立されたお寺の方々です。開教寺院は門徒さんゼロか極少ない段階からスタートしますが、戸別訪問して布教するというような形態はとれませんから、多くのお寺はお葬式を通じて門徒さんを増やしていくのです。

こうしたお寺は地元の葬儀屋さんと良好な関係を維持して、葬儀を紹介してもらう中で仏教を伝えていきます。つまり葬儀が布教の場ということです。

そう言われると嫌な感情を持たれる方も少なく無いと思いますが、私たちはご遺族の言葉にならない程深い悲しみの場に何度も身をおくと、人間の「寄り添い」の限界を感じますし、それを知らされる度に、本当の仏様の慈悲を伝えたいとやはり思うのです。

開教寺院の人もずっと定額のお布施やキックバックという問題に悩んできました。しかしある意味で、仏法を伝えるという大きな使命の前にそのことをあえて「呑んできた」人たちです。名刺を持って葬儀屋さんに営業に出かけて頭を下げて来た人たちです。だから様々な問題は問題として共有しながらも、お互い共感と苦労話は尽きることはありませんでした。

私はある研修会で大寺院の住職さんから「葬儀屋に頭を下げて門徒を増やすようなみっともないマネはしたくない」と言われたことがあります。しかし、みっともなくてももっと大事な事があるからするのです。何もしなくても葬儀法要の依頼が入り、ハイヤーで寺に迎えに来てもらえるような人には、到底わからないでしょうが。

私はこういうお坊さんがいることを知ってほしし、これらの人もまた、一人ひとりの仏道を歩んできた尊い人です。批判する人も、賛同する人も、共に如来に動かされて来た人たちです。

僧侶としての歩み

最近知り合ったある住職さんは、「それでも自分にはお布施の額を言わないというのは自分にとっての最後の砦なんだ。やっぱり定額は受け入れられない」といいました。葬儀のお布施を開けたら5,000円だった時も文句ひとつ言わなかったそうです。

私たちは僧侶であるにもかかわらず、出家もしてないし酒は飲むし結婚はするし、自分の生活のことも考えるし子どもを学校にも行かせなければなりません。会社でデスクを並べて仕事をしている人の中にも僧侶がいるかもしれません。もちろん宗派によっては一定期間修行をしたり剃髪したりということもあるでしょうが、普段の生活において僧侶でない人と僧侶にはほとんど差異はありません。

そんな私たちになぜ何万円も払って法事に呼んでくださるのか。それはそこに深い仏教の教えがあるとどこかで感じてくださっているからだろうと思います。

だから私に限って言えば別に商品と思っていただいても構いません。amazonの「みんれび」をはじめとする僧侶派遣サービスには大きな問題のあることを認めつつ、「でも、求められたら私は行き、出来る限り悲しみに向き合い、その中で仏法を伝えるために最大限の努力をします」という事になります。

それが受け入れられないという人がダメだと言っているのではありません。何処に「僧侶」「住職」としての私を置くかという問題だと思うのです。

そして、こうしたネットでの僧侶派遣サービスというのは、寺院間の固定化された経済格差をある程度解消し、お寺の仕事で生計を立てて仏法を弘めたいと思っていてもなかなか叶わなかった人に、突破口を与える機会になるのではないか、という期待もあるのです。

もちろん上に上げたような問題性や、地域性の問題もありそう簡単には行かないだろうという現実も知っています。しかし世の中のあらゆるサービスがインターネットを窓口とした大資本に収斂されることは、猛烈な勢いで進行中の事実で、お寺だけがそれで無縁でいられるとは思いません。

ならば今度はそのフィールドで自分のできることをするというのも、ひとつの住職としての生き方ではないでしょうか。

最後に

最後に、これを読まれている一般の方へ。僧侶から法外なお布施を要求されるなんてことは、話題になりがちですが本当にごく一部の話です。

各宗派の本山に電話してくだされば地元のお寺を紹介してもらえます。敷居が高いのは申し訳ないかぎりですが、amazonでクリックする前にこちらも是非検討してみてください。

私の所属する真宗大谷派はこちら。
http://www.higashihonganji.or.jp/link/kyoumusho/

浄土真宗の法話案内を構成するメンバーは浄土真宗の僧侶ですが、それで良ければもちろんいつでも相談は伺っています。下記メールアドレスまでいつでも連絡ください。
support@shinshuhouwa.info

浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない【石田智秀】

このエントリは『浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない』の著者による自著紹介です。


cover5『浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない』は、わたしも大好きな、言わずと知れた超有名ラノベからいただいたタイトルです。キャッチー?な上に本の内容をきちんと表しているので、案外これは素晴らしいタイトかもしれません。ちなみに執筆当初の仮題は「ご信心をいただく」、ちょっとかためでした。

「浄土真宗の信心とフツウ一般的に言われる信心とは内容がちょっと違っていて、そのちょっとした違いを大事にするのが浄土真宗の伝統としてあったのだけど、現在は浄土真宗の中でもその違いが明確になっていない面があるように思う。そこをもう一度、明確にしてみたい。」

そのように思って書きました。

もともと純文学作家志望(ワナビ)なので、本を出すならきっと小説だろうと思っていました。しかし技量がまっったく伴わないからきっと無理だろうとも思っていました(今も思っています)。それが今回、小説ではなくノンフィクションを電子書籍で発刊することとなり、感無量というか、世の中よくわからないものだなあと思っています。

昔のわたしには、浄土真宗の信心は非常にわかりにくいものでした。また、わたし以外にもわかりにくさを感じている人がたくさんいるように感じられていましたし、今も時折そのように感じることがあります。一方で、今のわたしには、ご信心とは何なのか、その内容は、かなり明確になっています。

この本では、このわかりにくかった/わかりにくい「信心」を、わたしにでき得る限りの言葉を尽くして、わたしなりに明らかにしようと試みました。そして、その試みは一部では完全に成功している……かもしれません。

浄土真宗の中にいるはずだけど、ご信心のいただきかたがわからずに困っている、かつてのわたしのような人に。
浄土真宗とは違う場所にいて、信心なんて知らないし知る必要もないと思っている人に。
別の宗教を実存的に味わっていて、浄土真宗の「信」のあり方も知りたいと思っている人に。

浄土真宗という一つの宗教の、とある宗教経験の一つ、宗教的「回心」の一つのあらわれとして読んでいただければ幸いです。

石田智秀
浄土真宗本願寺派 妙法寺 衆徒 布教使。
1971年生まれ。北海道十勝在住。
マンガ・アニメ・ゲームヲタク(軽度)。稲城和上萌え。読書などの興味は、浄土真宗をはじめとする各宗教、時事系、生命学(森岡正博提唱)、SF、純文学など。
龍谷大学のミニコミ誌『りゅうこく』にブックガイドを書かせてもらったり、Amazonにレビューを投稿したりしています。
お聴聞するのも自分で話すのも、第十八願に基づく絶対他力を中心とするご法話が好きです。妙好人の逸話は奇行ではなく信を得る以前のご苦労話が好きです。ご法話を騙る自慢話や独自解釈、TVや新聞の「情報」を鵜呑みにするだけで事実をふまえない立場から得々と語られる虚言は苦手です。

ブログ
http://chishu.blog.so-net.ne.jp/

Twitter
https://twitter.com/i_chishu

なぜ念仏一つにこだわるのか【瓜生崇】

今、Facebook界隈で多少話題になっているものに、ある意見書があります。話題と言っても浄土真宗の僧侶を中心にごく狭い業界内の話ではありますが、起案した私のもとには賛同する意見もたくさんいただきましたし、やはり同様に「守旧派」「非寛容ではないか」「器が狭い」といった批判的意見も多数頂いています。

「アップデートする仏教ファイナル」同朋会館開催に対する意見書

11219118_1001109996606385_4233294689191724297_n[1]一度、この意見書を読んでくだされば幸いです。かいつまんで言えば、「同朋会館」という真宗大谷派の本山の施設の中において、「アップデートする仏教」という、藤田一照・山下良道の二師の宗教指導者が主導する講演と座禅や瞑想指導が行われることについて、考えなおしてほしいという意見を書いたものです。これは私と同じく一時期新宗教に身をおいたあとに真宗の僧侶となった、畠山浄さんの主導により出しているものです。

なお、このことは当サイト「浄土真宗の法話案内」のスタッフの意見ではなく、全く私瓜生崇個人の見解であることを付け加えさせて頂きます。

意見書をネットで拡散する理由

こうした意見書をネットで拡散して意見を募るというやり方には異議もあると思いますし、嫌な思いをされた方も少なく無いと思います。それについて説明します。

私は実は以前に大谷派の施設を使った行事を準備していた際に「出場者の中に大谷派を離脱した寺院の子弟がいる」という事を理由に、外すように圧力を受けたことがあります。宗派を離脱するということは周囲に様々な軋轢を生むものであり、それらの人たちの気持ちを考えると強行することは出来ないと判断した当時の実行委員は、出場者の変更という苦渋の決断を行いました。

ただそのことで最後まで納得できなかったのは、一体誰が関わりどういう議論と経緯でこの圧力をかけているのか、「それは話せない」と全く教えてもらえなかったことです。本山は私達への要求を文章にすることすら拒みました。今でもそのことを考えると、とても嫌な気持ちになります。

ですので、意見するならばオープンな場で、対話が可能かつ議論の経緯が誰にでも分かる形でしたいと思ってこのようにした次第です。

魅力的な「アップデートする仏教」の活動

誤解してほしくないのですが、「アップデートする仏教」の皆さんの活動自体を批判するものでは決してありません。今から行事を中止してほしいとか、他の会場でやってほしいと申し入れているのではありません。

宗派の施設をオープンにしていこう、開かれた教団にしていこう、という試みがいま盛んに行われている中で、私達が一体何のために教団の門戸を開き、関わっていかなければならないのか、ちゃんと考えていただきたいのです。

「アップデートする仏教」は私も読みましたが、とても力のある対談で引き込まれるものがあると思いますし、今の伝統真宗教団に足りないものを率直に表していると思います。

形骸化した伝統仏教の中において、日本の伝統仏教を「医療行為が行われていない不思議な病院」であると疑問を持ち、本当の仏教を求めて海外に行って修行してきた経験に多くの人が惹かれるのは当然のことです。

今の伝統教団においては当事者たる僧侶においても、自分のいる教団の教えが本当に人を救うことが出来るのかという疑問を持つ人は少なく無いでしょう。事実、浄土真宗の僧侶の中でも少なくない人たちが、こうした瞑想修行などに惹かれてその道を歩んでいます。

「アップデートする仏教」には「体感」「メソッド」という言葉が幾度も出てきますが、信仰を様々に思い悩んでいる人にとって、こうした言葉が持つ力強さというのは私も十二分にわかるつもりです。何かの「メソッド」によって「体感」するというのは、これ以上ないくらい説得力のある論理だからです。

どうして「念仏」ひとつなのか

しかし、浄土真宗の教えというのは、あえてそこを離れた教えなのです。瞑想や修行、更には祈祷など、あらゆる行から解放される教えと言ってもいいかも知れません。

瞑想や修行で救われたと言われる人がいても私はもちろん否定しませんし、その道を歩もうと言う人がいても全く咎める理由などあるはずはありません。でも、世の中はそんな人ばかりではないわけです。座禅も、瞑想も、何もかも出来ない、どうすることも出来ない存在がある。

例えば末期がんで今まさに死を目前にしている人に、瞑想したら救われると言ってもそれは無理な話でしょう。でも私だって本当は同じなのです。

だって、今日死ぬかもしれない身なのですから。

私は響流書房という小さな電子書籍の出版社を立ち上げて、いろんな方の手助けを頂いてなんとかやってきていますが、最近出した「妙なるいのちこのいのち」という本に、赤禰貞子さんという、病弱で小学校も四年生までしか行けなかった念仏者の話が出てきます。

身体が悪くて普通に働くことが出来ず、粗末な小さな部屋が全てだったけど、薄い小さな本から広大なお念仏の世界に出会われ、人の念仏との出遇いを自らの無上の喜びとして生きた女性の話です。

その方がこんな歌を残しています。

「通ずるの心ほとけの世界なり南無阿弥陀仏の世界なるかな」

浄土真宗の救いとは、ただ「南無阿弥陀仏」という真実の言葉に触れることです。その言葉に触れた時に、独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬだけの人生ではなかったと知らされるのです。

私も、共同署名した畠山さんも、様々な紆余曲折の末にこの言葉に触れた人間です。だから、声を大にして言いたいんです。この言葉を伝える教団であるかぎりは、「医療行為が行われていない不思議な病院」なんかじゃないって。

南無阿弥陀仏と念仏を称え、他の全ての行を捨てることを教えた法然上人を「偏執ではないか」と批判した明遍上人が、天王寺の西大門の数えきれないほどの衰弱した病人に、一人ひとり重湯を与えている法然上人の夢を見て、念仏とはこの重湯のことであったのかと考えを改め、法然上人に弟子入りしたという伝承があります。

この病人のひとりは私です。

寛容であるところと、こだわるところ

今、多くの真宗教団がお参りの減少に悩んでいます。来られている方も多くはお年寄りで、若い人は極少数にとどまります。少なくない人がこの現実に危機感を感じて様々な対策を練っています。

私も多くの人たちと助け合いながら出来ることを地道に取り組んでいる最中です。この「法話案内」のサイトもその一つです。

今回の「アップデートする仏教」のイベントが行われる同朋会館にしても、今までお寺に関心のなかった人を呼び寄せるような意欲的な取り組みを多々しています。

そして中でも一つの宗派の中にとどまらない、宗派や宗教を超えた試みは重要になってくるでしょう。伝統真宗教団はいつの間にか自分たちの宗派の中でしか通用しないような言葉ばかりを生み出して、その中に甘えてどっぷり浸かってきました。そうした垣根を取り払って、お互いの差異や共通する部分を知ることは、そのまま教団外の多くの人に教えを伝える大切な土台を作ると思います。

しかし絶対に外してほしくないのは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という浄土真宗の教えなのです。そのこと一つを守り、伝えられなくなったら真宗大谷派は浄土真宗では無くなります。

「アップデートする仏教」の人たちにはもちろん何の問題もありません。もちろんどちらが優れているという話でもありません。

講演や講義だけなら構いません。しかし、「ただ念仏」ということを唯一の本当の拠り所としてやってきた真宗教団の本山で、瞑想や座禅などの行を行うイベントが、殆どの人が知らないところで決定されるという事があってはならないと思います。やるならやる意味をもっと考えて公にして議論して欲しいのです。

私は過去にはこんなことも書きました。

日本人は異なる宗教に寛容なのか

なんでもやることが器が大きいのではないと思います。本当に大事にしていることがなければ800年も教団は続きません。そこを行動から明らかにした上で、他者を認めていくことが私たちに求められているのではないでしょうか。

地下鉄サリンから20年【瓜生崇】

今日はあの地下鉄サリン事件から20年ということでテレビや新聞でも大きく扱われているようです。あの事件の時、私は新宿駅にいました。何が起きたのかはわかりませんでしたが、突如として訪れた騒然とした空気を感じたのをよく覚えています。

当時の私は都内の大学に通う大学生でしたが、浄土真宗親鸞会という、かなりの問題を抱えた新宗教教団の一員でした。その時も確か4月の大学入学シーズンの勧誘の準備のため、都内の教団の拠点への移動中だったと思います。拠点につくとみなざわざわと浮足立った感じでテレビのニュースを見ていました。

その後、事件がオウム真理教によるものだと明らかになり、上九一色への強制捜査などのニュースがテレビや新聞を埋め尽くしました。私のいた教団では宗教に対するネガティブなイメージを払拭するために、勧誘のトークを工夫したりする一方、今いる信者に対しても「私達の教団はオウムとは違う」どころか「オウムのような邪教に迷う人に泥水をすする人を無くすために、私達が真実の清水を提供しなければならない。」という法話が随分なされました。

私は言われた事を言われたままに受け止め、「オウムに迷うような人を救いたい」と思って必死で活動をしたのです。そして家族の反対を押し切って大学を中退して身ひとつで教団に飛び込みました。目が覚めたのは12年後です。多くの人に迷惑をかけ、そして何もかも失って私はその教団を脱会しました。

ここ数日間報道されるオウム関係の報道を見ながら、あの日々のことをいろいろと思い出していました。人は自分の世界観とあまりに違う生き方をする人を見ると、どうしても「洗脳」とか「マインド・コントロール」という言葉を使ってそれを「納得」しようとします。確かにその要素は非常に大きいと思います。ただ、それだけでは決してなく、やはり私は人生の真実を知りたかったのです。オウムに入った人たちもきっとそうだったろうと思います。矛盾だらけの世界の中で、正しい道を知りたく、正しい道を歩みたかったのです。

教団を脱会して、今度はカルト問題の解決への取り組みをするようになっても、「一体本当は何が正しいのか」という問いは私を苦しめ続けました。縁があって浄土真宗の僧侶になってからも「正しい教え」を探し続けました。ようやくこの問いから解放されたのはごく最近のことです。それは、何が正しいのかわからない、迷ってしか生きていけない私が、そのまま決して見捨てられない如来のはたらきの中に生きていたという気づきでした。安心して迷っていけばいいという念仏の教えでした。

 

私がいた浄土真宗親鸞会という教団は、オウムのような暴力も殺人もなかったし、薬物もヘッドギアもありませんでした。しかし一旦中に入れば嘘と誤魔化しばかりの活動で、じわじわと常識的な感覚を奪ってゆくような教団でした。

カルトへの取り組みを続けて、いままで随分多くのメディアの取材を受けてきましたが、みな「わかりやすい悪質さ」を求めます。しかし皆さんに知っていただきたいのは、オウムのような極めて明確な事件性を持ったところは少数派だということです。相談が多数あるような教団でも、表面的には何が問題かすぐにはわからないようなところが多いのです。

そして、世界を震撼させるような事件を起こしたオウムでさえ、中沢新一や山折哲雄をはじめとして好意的なコメントをした学者や知識人は少なくなかった。

もしあなたが「問題がある」と言われているような教団に行けば、真面目で親切そうな信者が丁寧に迎えてくれるでしょう。そして、洗脳されてる、マインド・コントロールされてると思い込んでいた人たちが、案外自分の考えをしっかり持っていて、質問にも一生懸命答えてくれることに驚くかもしれません。私達と同じように趣味を持ち、最近の映画や音楽の話題で盛り上がるかもしれません。教団や教義の確信に触れる話をしなければ、あなたの前にいる信者はどこにでも居るごく普通の人でしょう。

いやかえって、普通よりずっと親切で真面目で信念を持っているではないか、と思うかも知れません。社会的に大きな事件も起こしてないし、それどころか、既存の教団以上にボランティアなどの社会貢献に、一生懸命に見えるかも知れません。

しかしその裏では、長い時間をかけて教団から離れられなくなった信者に対して、その人生を搾取し続けるような事をしているかもしれない。少なくとも私はそういう教団にいたし、カルト問題に関わる過程でもいくつも見てきたのです。入り口だけみて教団の問題なんて絶対にわかりません。私がいた浄土真宗親鸞会も、幾人かの宗教学者や知識人が好意的な評価を与え、それを教団は徹底的に利用していました。

だからどうか学者や知識人のみなさんは、自分の見た事実だけで簡単に教団に利用されるような言葉を発しないで欲しいのです。具体的には書きませんが、ぞっとするような言葉を幾つか見てきました。皆さんの言葉はたとえ何気なく発したものでも利用されます。覚えておいて欲しいです。

そしてマスコミや大学は、大きな事件や問題がなくても、少なくとも入学シーズンには「誰にでも問題のある宗教にハマる可能性はある」という事を伝えて欲しい。でも近年は随分取り組みがなされるようになってきましたが。

 

最後に伝統仏教教団、特に浄土真宗の僧侶の皆さんへ。つまりこれは私が私自身に言っていることです。私は、オウムの信者が「寺は風景でしかなかった」と言った気持ちがよくわかります。お寺にはなにもないと思っていた。たとえ仏教に大事なことが教えられていると思っても、お寺にそれが残っているとは全く思えませんでした。

でも、私は浄土真宗親鸞会を出て確かにお寺でお念仏の教えに出遇いました。それがなければ、あの教団でのたうちまわった日々はただの失われた月日、迷って苦しんだだけの人生になってしまうところでした。お念仏に出遇っていまようやくあの日々が、自分にとってかけがえの無い道だったのだと思えるようになりました。

私は自分みたいな人がたくさんいるに違いないと思っているのです。だから、一生懸命み教えを伝えたいです。寺も教団も必ずなくなります。でもお念仏は人から人に伝わっていくはず。伝わればそこにサンガが生まれ、さらに出遇っていかれる人がいるはずです。

間違ってる人に正しいことを伝えようという、何かしら思い上がった気持ちで言っているのではなく、教えを真剣にお伝えしようとすることで、人生を真面目に考えて真実を求めたあの思いに、私が帰っていけると思っているのです。

 

日本人は異なる宗教に寛容なのか【瓜生崇】

私がカルト宗教という問題に取り組んで早いもので十年になります。その間、宗教や信仰の問題についての相談を随分受けてきました。

以前、地域の集会で講演を依頼されたことがあります。そこではとある新宗教の教団施設の建設の予定が明らかになり、地域住民の人達が反対運動に立ち上がったのです。私が日本で起きているカルト問題の概略や、そもそもカルトとは何かという講演をしたあとに、集まった人達による議論が始まりました。代表者の方の「あんなカルトを街に入れる訳にはいかない」という言葉の後に、挨拶に来た教団職員の目つきがおかしかったとか、服装が変だとか、マインドコントロールされているという意見が言われました。

その教団に懸念すべき点が無いとはとても言えませんが、特に何か事件を起こしたわけでもなく、ここ最近で言えば社会的に問題となるような活動も見受けられません。しかし住民の皆さんの議論を聞くと、悪く言えば「異質な人達を受け入れたくない」という感情があまりに前面に出ているように思いました。私は帰りに主催者から「もう少し(その教団の)怖さや問題点について、危機感を与えるような話をして欲しかった」と言われ、すこしうなだれてそこを後にしました。

最近、松山大耕氏という臨済宗の僧侶の書いた、「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とはという記事が話題になっています。私が今見ただけでもFacebookの「いいね」数が5.4万と、相当な支持を集めているように見えます。その記事から松山氏の主張をかいつまんで言うと、「キリストの誕生日であるクリスマスをお祝いし、年末にはお寺で除夜の鐘を聞いて、そしてお正月には神社に初詣に行く」というのが日本の宗教の「寛容性」であり、そうした宗教観に世界の宗教家が期待し、注目していると言いたいようです。

世界の宗教家が本当に期待しているのかどうかは置いておいて、この記事の主眼である、宗教をお互いに尊重し理解し合うというのはとても大事なことであって全く異論はありません。ただ、果たして日本だけそんな特別に素晴らしく寛容な宗教観があると言えるのでしょうか。

神社にお参りしない人たち

私の友人のある家族は神社にはお参りしません。七五三にも行きません。クリスマスも祝いません。それはそこが浄土真宗に生きる人の家庭だからです。しかしそうした生き方をすると毎度のごとく「視野が狭い」「非寛容だ」「子供がかわいそう」という声を聞くそうです。

私自身は浄土真宗の僧侶ですが、神職や牧師の友人も多くいますし、お互いにその宗教を敬って生きているつもりです。でも私の家族にはクリスマスも初詣もありません。敬ってないのではありません。浄土真宗の自分たちには必要ないというだけです。

しかし不思議なことに私もまた「原理主義的」とか「非寛容」とか「かわいそう」と言われてしまうのです。これは今だけの話ではありません。江戸時代には浄土真宗の門徒が東北に多く移住していますが、信仰上の理由から神社に参拝せず祭事にも参加しない彼らの生き方は、元からの住民の間に深い軋轢を生じさせたといいます。

私は神社にもお寺にもクリスマスにも行くというのは、それはそれでひとつの立派な宗教観だと思います。それがおかしいとは全く思っていません。しかしそれは決して「寛容」なのではなく、ただその人にとっての宗教がそうであるというだけのことではないでしょうか。少なくともそのくらいのことなら外国の人が観光で日本を訪れて神社仏閣を敬うのと大差あるとは思えず、日本に特有のものとも思えません。

カルトの問題への様々な取り組みを続けていると、個別の宗教のもつ社会的な問題性を論ずる前に、宗教を真剣に信仰する人たちを冷ややかに見下す思いを根底に感ずることが少なくありません。しかし宗教というのは得てしてその人の全存在を支える根拠になりうるものです。私の人生が宗教そのものであるという信仰もあるのです。そのような信仰であれば価値観や生き様が根底から変わっていくのは当然ありうることで、そこには衝突も当然生ずるでしょう。

本当の寛容さというのは、神社も参りクリスマスも祝うという所にあるのではなくて、神社にいかずクリスマスにも参加しない人がいても、つまり我々の価値観や習慣と全く異なる宗教を持った人がいても、それを認めて理解していく所にあるのではないでしょうか。

寛容という言葉で非寛容を裁いてしまえば、それはもう寛容とは言えないのです。

日本仏教の寛容性

松山氏はさらに日本の「寛容な宗教観」に神道の影響を受けた「日本で独自に洗練されてきた仏教のスタイル」があると主張します。しかしそもそも日本の神道や仏教とはそんなに寛容なものだったのでしょうか。

日本の仏教教団は歴史の中で常に様々な権力については離れ、必要とあれば自分たちを脅かす勢力を徹底的に潰してきた歴史があります。興福寺や延暦寺の僧兵が勢力争いの抗争を頻繁に繰り返してきた歴史は有名ですし、私の属する浄土真宗もその渦中で大きな弾圧を受け、大規模な戦争にも発展しています。

その浄土真宗も大教団となった後には権力と結びつき他の宗教の弾圧に加担しています。寺檀制度はそもそもキリスト教などの異端勢力の締め出しが大きな目的の一つでした。近代になってからは廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの仏閣はバーミヤンの大仏のように破壊され、仏教諸派は国家に服従して戦争協力の道を突き進みます。そして神道は国家主義と結びつき学校や公共施設では神棚への礼拝が強要され、一方大本教などの新宗教を弾圧するようになります。

つい最近までこうした抗争と弾圧の歴史を繰り返してきた日本の仏教や神道を、いまさらになって「1500年以上かけて洗練されてきた」寛容性のスタイルと言われても、歴史を多少でも知る人なら一体何を言っているのか訳がわからないでしょう。

この事実を見ると、日本人は宗教に特別寛容なのではなく、自分たちの共有する価値観と権威に対して寛容なだけだと言われても仕方がないような気がします。

本当に寛容な宗教観とは

記事には松山氏が提案した「画期的」なる宗教駅伝なるものが紹介されています。世界の異なる宗教家でつながる駅伝ということでこれ自体はとても素晴らしいことだと思います。ただ、少々意地悪な言い方をしてしまえば、「自分たちを脅かす可能性がない人たちとは仲良く出来る」だけの事のようにも私には思えます。

いまヨーロッパでは教会がモスクに鞍替えするというケースが多くみられるそうですが、日本の伝統的な寺院が改装され次々とモスクになるような事態が私達に訪れ、全く異なる価値観や生き様の人びとが大量に生まれるような事態が訪れたとしても、私達は寛容でおれるでしょうか。

400年前、浄土真宗が急激に拡大していった時に起こったことは、既存の仏教宗派との激しい衝突と弾圧でした。その浄土真宗も今は伝統教団の一角として日本の宗教を代表する存在の一つになっています。そう思うと、今後日本で宗教地図をひっくり返すような変化が訪れないとは誰も言えないでしょう。

異なる宗教観の対話や理解が大事なのは言うまでもないことです。そこを否定するつもりは全くありません。

ただ、今私達に必要なのは、イスラムとの衝突に揺れるヨーロッパを他人ごとのように見ながら「日本の寛容な宗教観に世界が期待している!」などと鼻高々に自負するのでなく、激動の世界の中でいつか私達も同じような事態に直面し、異なる生き様や価値観を許容しなければならないだろうという覚悟だと思います。

寛容になれないかも知れない私達が、それでも寛容になってゆこうとする謙虚さが、いま最も求められているのではないでしょうか。

電子書籍で仏教書を出版しませんか?【瓜生 崇】

sayonaraみなさん、電子書籍ってご存知でしょうか。スマートホンとかタブレットで本が読めるというものですね。いま急速に普及が進んでいるもので、私も今や読む本の半分くらいは「電子書籍」になりました。

別に電子書籍という特別な本があるわけではなく、そのほとんどは紙の本と同じものをそのままタブレットで読めるというだけのものです。それなら紙の本でいいじゃないかって言われそうですが、電子書籍は本好きな人ほどハマる魅力があるのです。

それをまとめると、
1.電子書籍は軽いので手が疲れない-端末によりますが、KindlePaperWhiteというものが206g。スマホならそれよりもっと軽いわけで、電車の中でらくらく片手で持ってページめくりできます。ちなみに紙の本だとA5のハードカバーは平均478gだそうです。
2.文字を大きくできるので目が疲れない-電子書籍は一部の例外はありますが文字の大きさを自由に調整できます。目が衰えて普通の本が読めなくなったが、電子書籍のお陰でまた本が読めるようになったという人を知っています。
3.何百冊でも持ち歩ける-出張に行くときは荷物を軽くしたいので、どの本を持ってゆくか悩んだものですが、電子書籍にはその心配はいりません。必要な本はその場でダウンロードできますから、本屋まるごと持って歩くのと同じです。
4.読みたいと思った時に買ってすぐ読める-本屋に行かなくていいし、ネットで注文して届くのを待つ必要もありません。在庫切れもありません。
5.いろんな端末で読める-電車の中では小さなスマホで読んで、続きを家に帰ってから大きなタブレットで読むということも自由自在にできます。
6.暗いところでも読める-お布団の中に入っても読めます。明かりを本にあてることを考えなくていいので、寝っ転がって読むときの便利さといったらもう。
7.安い-同じ紙の本より安いことがほとんどです。

どうです?なんか電子書籍もいいかもって思えてきませんか?

私は紙の本の手触りをこよなく愛する人間ですが、これだけメリットがあると積極的に読みたいのは電子書籍になりますよね。そしてこれを見ると、実は電子書籍は「お年寄りにやさしい」と言う事がわかるかと思います。何しろ、買いに行ったりしなくていいし、文字を大きくできるんですから。

電子書籍の端末持ってない!って方も多いでしょうが、スマホなら結構持ってますよね。スマホで無料のアプリをダウンロードすればそれがそのまま電子書籍の端末になるんですよ。

Androidなら Android app on Google Play

iPhoneやiPadなら 

でも、残念ながら、

浄土真宗の本で電子書籍化されている本というのは極めて極めて少ないのです!!

仏教書で探しても目立つのはスマサラーナ長老の本や、自称仏陀ことエル・カンターレさんの本ばかり。(決してこれらの本を否定するわけではありませんが、少なくとも浄土真宗の本じゃない)

なら、自分で出しませんか?電子書籍。そんなに難しくないですよ。

長年お坊さんやっている人なら、昔施本で小冊子を作ったけど、印刷して配ってその後はどうなっているのか…みたいなものを持っていたりする事もありますよね。その中には埋もれるのがもったいないようないいものもあるはず。もちろん、なにか新しく書いてもいいわけです。これから電子書籍で浄土真宗の教えに出遇ってゆかれる方がきっといるはずです。

最近「さよなら親鸞会 脱会から再び念仏に出遇うまで」という本を出しましたので、それを通じて、大まかではありますが電子書籍の作り方をお教えします。ここではKindleというamazonがやっている電子書籍の最大手サービスでの出版の流れを解説します。他にも電子書籍サービスはいろいろありますが、とりあえずKindleで出すことを頑張ってみましょう。

データの準備と加工

最初に、ワードのデータでもテキストでもなんでもいいので、本にする文章を用意してください。そして、ブラウザ(これを見ているソフトです)から、「でんでんエディター」http://edit.denshochan.com/ を開いてください。

15a8ee6dec2b61f564c47f69cca65d18[1]こんな画面が出てきます。右上の「×」のオレンジのボタンを押して内容を消去します。そして、本にする文章を全部コピーしてバンッっと貼り付けてください。

d723af79eb1b0b0a8e70e659c62835a9貼り付けたら「H」のボタンで章の見出しを設定(見出しは目次を作るときに重要になりますので必ず設定します)、あと必要なのは、「引用」と「ルビ」くらいでしょう。

「引用」は文頭に半角で「>」をつけます。「ルビ」は単語を選択して「ruby」と書いてあるボタンを押します。「Preview」を押すと見栄えを確認することができます。

完成したら、左上の「Untitled Document」のところにファイル名を入れて(必ず半角英数字で)、その右の青いボタンを押して保存します。ここでは仮に「book.txt」というファイルで保存したということにします。

c8ada9844b08a205939bfdf7305dfa41次は「でんでんコンバーター」http://conv.denshochan.com/ を開きます。ここで電子書籍の標準フォーマットであるEPUB形式のファイルを作るのです。

先ほど作った「book.txt」をアップロードして、タイトルと作成者を入力。ページ送り方向を設定してください。そして、「変換」です。「作成したEPUBをプレビューする」にチェックを入れて、変換後のイメージを確認しましょう。拡張子が「.epub」のファイルが落ちてくると思います。

47a2ba1ae6d5a407995a2b9ad863fca6次は表紙画像を作ります。これは持っている適当な画像作成ソフトを開いて作ってください(写真はFireWorks)。

注意するべき点は、画像の長辺(この場合は縦幅)が1000ピクセル以上であること、フォーマットはJPEG、そして、ファイル名は半角英数字であること。

ファイル名については、ここでは素直に「cover.jpg」としておけばいいと思います。

 

 

Amazon Kindle ダイレクト・パブリッシングへの登録

81cbe3c71a67f6cf4244ba086f868394さて、必要なデータが揃いました。いよいよamazonに本のデータを登録します。amazonのアカウントがない人は作ってください。

https://kdp.amazon.co.jp/ にアクセス。Amazonアカウントを使用してサインインして、「新しいタイトルを追加」を選択、必要事項を記入してゆきましょう。

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必要事項を記入し、カバー写真とepubファイルをアップロードするのですが、右カラムに「よくある質問」もあり、入力に不備があればシステムが教えてくれるので、基本的にあまり迷うところは無いと思います。いくつか上げるならば、

・KDPセレクトに登録するべきかどうか-90日以内に他の電子書籍ストアなどで販売する予定がなければ登録すべきでしょう。
・縦書でepubを作っている場合ページめくり方向で再度縦書を選択するのか?-そうです。
・デジタル著作権管理はどうするか?-適用するにしておきましょう。
・出版地域は?-全世界でいいでしょう。
・価格はどうしたらいいのか?-余程の大作でなければ、100円~200円程度にするのが無難です。300円以上ですと条件が揃えば70%の印税がもらえたりするオプションもあるのですが、みんなに読んでもらうことを優先させたほうがいいように思います。

epubファイルと画像をアップロードすると、「シンプルプレビューツール」でちゃんと本がオーサリングできているか確認することができます。 これは必ずやっておきましょう。

少し面倒というかよくわからないのが、「米国源泉徴収に関する租税条約の恩典を受けるための証明書W-8BENの提出」というものです。これはAmazonがアメリカの会社なので、アメリカで税金を払わず日本で払いますよという申告なのですけど、Amazonのガイダンスに従って必要事項を記入し「続行」ボタンを押していれば終わります。

bb124aa64adadaedb545cbac863946a2これが終わって、いよいよ出版です。審査のために最大48時間かかると出ますが実際はもっと早く出版されます。

自分の書いた本がAmazonで買えるようになるというのは結構感慨深いです。本を出すのは知名度かお金が必要ですし、余程のいい本でなければ継続して書店に置かれるということもありません。電子出版ならいつまでもコストを掛けずにみんなが手に取れる位置に書籍を販売することができます。ありがたいです。

さて、気になるのが「どのくらい売れるのか」ということ。

私が出版したのは「さよなら親鸞会 脱会から再び念仏に出遇うまで」という本です。これは実際に書籍化されている本で、今までに約3000部程が売れているものです。出版当初はかなり売れて仏教書のランキングで1位になったりもしましたが、現在は一日数冊がコンスタントに売れている状況です。

儲かるというところまではいきませんが、継続的にきちんと宣伝をしてゆけば、少量であってもしっかりと売れてゆくものなのだろうと思います。

電子出版のこと、わかっていただけましたか?やり方を書いてきましたが、そんなに難しく無いとは言いながら、誰にでもできるというものでもありませんね。

ここからは宣伝ですが、私は仏教書の電子書籍の発行を専門に行う出版組織を立ち上げることになりました。皆さんの手元に電子出版にできる原稿はありませんか?録音でも構いません。良ければ教えて下さい。しっかり本にして、宣伝して販売をさせていただきます。原稿をデータ頂けるのならば、出版費用の自己負担も必要ありません。

電子メール uryu(あっと)genshoji.net か、あるいは私のフェイスブックページまでご連絡ください。

これから、若い人からお年寄りまで、電子書籍から浄土真宗に出遇ってゆくという人も出てくるでしょう。入り口は多くあったほうがいいと思います。ぜひともご協力をいただければと思います。よろしくお願いします。