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「お坊さん便」と新たな搾取の構造【瓜生 崇】

僧侶を定額のお布施で派遣する「お坊さん便」が、お盆になってまた取り上げられるようになってきました。

アマゾン「お坊さん便」、反発する仏教会に想定外の批判(朝日新聞デジタル)

私もこの事については自分の経験から当コラムで以前に書きました。(私はAMAZONで「注文」される僧侶)その後、テレビや宗教誌などの取材を随分受けてきましたが、最近になってまた何件か取材が来たので驚いています。

この話題、大体が上記の朝日新聞の記事に見られるような、全日仏の対応に代表される硬直化した仏教界と、一般の人のニーズに応えた新しいサービスとの対立が先にあって、そこに「高額なお布施を請求してきた僧侶」に反発する人たちと、「経済的に成り立たない過疎寺院」の問題が加わるという構図が加わるというのがいわゆるこの手の記事の「既定路線」という事になります。

私自身も、「こうしたネットでの僧侶派遣サービスというのは、寺院間の固定化された経済格差をある程度解消し、お寺の仕事で生計を立てて仏法を弘めたいと思っていてもなかなか叶わなかった人に、突破口を与える機会になるのではないか、という期待もあるのです。」と以前コラムで書いたこともあります。ある意味、僧侶が救われるサービスであるという認識は今も変わりません。

さて、上の朝日新聞の記事のインタビューによると、「みんれび」の秋田将志副社長自身も、このサービスを「経済的に困っている僧侶の方のお手伝いをさせていただいているつもりです。」と語っています。

前述のようにそういう一面もあることを認めつつも、実情として果たして手放しにそう言えるのかどうかという事も、このコラムでは考えてみたいと思います。

お布施の4割は紹介料

「月刊住職」の2016年8月号に「アマゾン僧侶派遣の紹介料4割はお布施の搾取ではないのか」という記事が載っています。この取材には自分も協力しましたが、記者は多くの関係者にあたって丁寧にこのサービスの実態を解明しています。

実にストレートなタイトルの通り、お坊さん便の紹介料は4割。これはつまり、僧侶に渡した(と思っていた)お布施の大体4割を「みんれび」がバックマージンとして徴収している、ということです。

具体的には35000円で法事を依頼したら、うち15000円は「みんれび」に入り、僧侶に入るのは20000円。僧侶はその中から交通費等も出すので実際には半分以下くらいしか「お布施」にはならないということです。そしてこれは戒名(法名)なども同じです。記事では一例として、院居士・大姉号の戒名のお布施20万のうち、5割にあたる10万円が「みんれび」の取り分になると書かれています。

実は「みんれび」にかぎらず多くの先行業者も同様の割合のバックマージンを設定していました。中には5割を超える要求をされたという話も聞いています。

さらに記事では、《弊社規定額以上のお布施を納められたいというお客様のご対応の際は、全体費用の40%の手数料を頂く形となります》との「みんれび」内部資料をあかし、規定されたお布施額の他に、「お気持ち」で僧侶に渡される志についても、40%のバックマージンを収めるように定めていたとあります。つまり決まった額の他に別途お志を包んだり、少し多めにお布施を出しても、それすら4割は業者が持っていくというのです。

また、法要後新たな依頼を受けてもすべて「みんれび」を経由する必要があるともあります。「いいお坊さんを紹介してもらった」と信頼関係を構築し、お葬式の後に四十九日、一周忌と同じ僧侶がお参りしても、すべて都度4~5割のバックマージンを間接的に支払うことになるわけです。

新たな搾取構造

さて、こうした業務にはバックオフィスでのサポート業務が不可欠ですし、広告宣伝費、葬儀社との提携に関わる営業活動等経費もかかるわけですから、バックマージンがなくていいとは思っていません。

ただ、少なくともこのサービスを申し込む人は、例えば人材派遣会社に払った費用の半分くらいしか実際の労働者にわたらないのと同じように、支払った「お布施」の4~5割は業者に抜かれるという事実は知っておいていいでしょう。

在庫も倉庫も持たず、僧侶の教育コストは各教団に丸投げで、保険や交通費の負担もなく、ネットで注文を受けて僧侶に指示をだすだけでこのマージンが適正かどうかは、実際にサービスを使う人が判断したらいいと思います。

そしてそれらは、コツコツと本堂を修繕したり、法話会を開いて仏教を伝えたり、子ども会を開いて仏様の心を伝えたりといった、全国のお寺が地道に進めている活動には一円も使われることはありません。

私は前回の「お坊さん便」を扱ったコラムで、こうしたサービスの勃興には寺院間の格差問題が背景としてあると論じました。

かつては多くの末端の寺院は格上の大寺院の下請けとして、葬儀や法事、月参りの仕事を受けて生計を立てていました。現在はそうした慣習は一部地域を除いてありませんが、代わりに都市部と過疎地の寺院の間に深刻な格差が生じています。そして全日仏はもちろん、各寺院が所属する教団や宗派が、貧窮寺院に経済的な支援をしたという話を私は聞いたことがありません。

有り余るほどの財を成す寺院が存在する一方で、今まで何百年と教団を支えてきた困窮寺院は経済的に破綻するに任せているのが今の仏教界であり、経済的に成り立たなくなった寺院が新宗教に譲渡されるという事件まで起こっているのが現状です。

私はなんとか仏教を伝えるご縁を維持し、お寺の仕事で生計をたてたいと思う住職が、こうしたサービスに活路を見出すのは当然の流れであり、留めることは出来ないと思っています。

その一方で、かつての寺院間の搾取構造が復活し、その頂点に位置していた大寺院がこうした営利企業に取って代わられつつあるのではないかという危惧も感じます。今は多くの業者が入り乱れてサービスを展開していますが、いずれ淘汰されて寡占が始まれば、真っ先に搾取されるのは「こうしたサービスに頼るしかない」僧侶なのでしょう。

「お坊さん便」のHPを見ると、「お布施料金は定額35000円」というタイトルの下に、「一般的にはお布施の他に、お車代・お膳料・心づけなどが必要になり、合計50万円程度が相場です。」とあります。

「みんれび」が35,000円と提示するのは法事のお布施ですが、私は自分に関しても他の僧侶に関しても「法事で50万円」というお布施を聞いたことも頂いたこともありません。この「相場」っていったい何処の星の話なのでしょうか。

ネットでは「今まで散々高額なお布施をせしめておいて、こういうサービスが出来ると反対するなんて」といった感想がよく見られるのですが、あなた方がこういうサービスを申し込んで来る僧侶の多くは、人口の減少し続ける地方で、地域と共に必死になって生活とお寺を守っている人です。そして、その僧侶が普段檀家(門徒)さんから頂いているお布施は、あなたが「お坊さん便」に支払う額よりきっと少ないはずです。さらに、あなたがそうしてやってきた僧侶に渡したお布施で、実際に僧侶に渡るのは半分程度なのです。

言うまでもなく、この流れを作ってしまったのは、私達僧侶の責任です。ここを真剣に考えなければ、仏教界に未来なんてありえません。

私はamazonで「注文」される僧侶【瓜生崇】

amazonで僧侶を「注文」し、法事・法要に来てもらえるというサービスが話題を集めています。

アマゾンお坊さん便 僧侶から登録希望殺到も仏教界は批判的

私も地方の末寺の住職ですから、いわゆるこの事についての同業者の声を随分聞きましたが、世の中の大きな流れとして受け入れる覚悟を見せる人はいても、僧侶を商品扱いするようなこの取り組みを好意的に捉えている人はあまりいません。

前置きはともかくとして、この僧侶手配、「みんれび」という会社が行っている「お坊さん便」というもので、窓口にamazonが加わっただけでサービス自体は以前からあったものでした。他にも業界最大手の「小さなお葬式」を初め、最近はちょっと乱立気味と言えるくらいに似たような事業が出てきています。その内容は「ネットや電話から申し込み」できて「定額」というのが特徴で、細かい違いはあってもかかる費用も中身もそんなに変わりません。

で、実は私も僧侶派遣会社に登録していて、「お坊さん便」も含めてこの手のは色々とやっていました。日本の伝統仏教の衰退が言われる中、賛否両論のこれらのサービスが、現役の住職から見てどんなものなのか、少し書いてみようと思っています。

生活の成り立たない「住職」という職業

リンク先の記事には「登録したいという僧侶が多いのに驚いた」というみんれびの担当者のコメントが載っています。こうしたサービスは僧侶にとって決して素直に受け入れられるものではないと思いますが、それでも登録を望む人は多いでしょう。

最近になってマスコミもとり上げるようになりましたが、「高額なお布施をとって外車に乗って贅沢している坊さん」や「京都の祇園で飲み歩く宗教貴族」というのは存在はしていますがごく一部で、実際のところは住職の過半はそれだけでは生活が成り立たず「兼業」しているわけです。田舎で育った方は、学校の先生がお寺の住職さんだった、なんて経験を持っている方は少なく無いでしょう。しかも寺の基盤は原則世襲され、他の土地に移ることも容易ではありません。

最近は格差の固定化ということが社会の問題として話題になることが多いのですが、住職の世界はそれよりずっと階層化され固定化された格差社会と言うことも出来ますし、私のように外からこの世界に入った人間には不思議なのですが、なぜかこの格差を是正しようと言う取り組みや問題提起は仏教界からほとんどなされることがありません。

だからといって別に卑屈になったりしているわけではありません。私が所属している宗旨は浄土真宗(真宗大谷派)ですが、元々宗祖の親鸞聖人は山を降りて民衆と共に歩まれた方ですから、一人の労働者として生計を立てつつ、住職として御門徒(いわゆる檀家のこと)と一緒にお念仏の道を歩むということを、かえって大切に思っている住職も多いのです。

とは言え現代ではそれが困難になりつつあるのも実態です。何しろ生計の成り立たない寺は地方の人口減少地にあることが多く、そこでは働き口を見つけるのも大変ですし、兼業では雇い主の理解をうるのも簡単ではないでしょう。

家族の中に他に僧侶がいてうまく仕事を分担できればいいのですが、それが出来ないと平日は都市部の会社に通って、土日は田舎に帰って寺の仕事という一年中休みなしの生活。葬式が入れば上司に頭を下げて仕事を休んで駆けつけるという住職も少なくありません。

この手の苦労話は働き盛りの年代の住職が集まればよく話題になります。お寺のことをもっと一生懸命にやりたいと思っていても経済的な事情がそれを許さないのです。

そして、私もそんな中のひとりだったわけです。ウェブサービスの受託開発という副業をしながら住職をしていた私にとっては、こうした派遣だろうと定額だろうとなんだろうと「お坊さんとしての仕事をしながら家族を養える」可能性のあるサービスは魅力的に思えました。

意外だった「僧侶派遣サービス」の実態

そんなわけで登録した「僧侶派遣」ですが、早速矢継ぎ早に依頼が入ってきて東奔西走の毎日が始まりました。

当初こういうサービスを選ぶ人というのは、坊さんなんか付き合いたくもないけど儀式上仕方なしに呼んでいるのだ、と思っていました。実際にこれらのサービスの中には「檀家になる必要がなく一回限りのご縁」ということを「売り」にしているものもあるのです。

しかしそれは勘違いでした。通夜や法事では通常法話をしますが、みなさん本当に関心を持って頷いて聞かれ、様々なことを相談して来られるし、少なくない方がその後の法事の依頼もされます。手紙を頂いたりもっと話を聞きたいと言われる方も少なくありませんでした。

よくよく考えれば地元の付き合い寺との関係やしがらみもないのに、数万円という安くないお金を払われてこうした「サービス」を申し込むというのは、仏教のことを大事に思っているという証拠です。

「仏教が大事なんじゃなくて、亡くなられた方のことを思ってのことだろう」と言われる方もあるかもしれませんが、お葬式はともかく法事はお坊さん無しでする人も今は多く、わざわざネットで探して依頼するというのは、そこに何かしら仏教への気持ちがあるのだと思うのです。

何しろ随分いろんなところに行きましたから、その中から近くのお寺の法話に参詣されたり、仏教書を読まれる方も出てこられました。浄土真宗の法話案内というこのインターネットの法話案内サイトや、響流書房という仏教書の電子出版の取り組みも、こうした人達との交流から必要性を感じて始まったものです。

寄せられる批判の声

こうした「派遣で坊さんしています」という話は隠さずいろんな人に話したのですが、住職仲間からは相当批判されました。結構激しい喧嘩になったこともあります。

批判する人の思いはよく理解できます。おおまかに言うと、

(1)お布施が定額というのは本来の姿に反している。
(2)業者へのお布施のキックバックの問題。
(3)葬送儀式が疎かになるのではないか。

というだいたいこの三点に集約されるように思います。中でも一番は(1)の問題で、お布施はそもそも自由意志によるものだという原理原則論です。額が決められてしまったらそれは法要儀式の商品化に繋がるし、払えない人は排除されてしまうのではないかという懸念です。

これについては慎重な議論が必要ですが、実際のところはお布施は自由意志とはいいながら結構「定額」になっている部分も少なくないのです。例えば多くの寺院が取り組んでいる「納骨堂」はどこも大きさによって「◯◯万円以上」とお布施額が決められていますし、トップである本山そのものが「割り当てられたお布施」を末寺に課している事実もあり、「院号」の申請も定額です。

それらをこの問題と一緒にはならないと思いますが、少なくともお布施は自由意志という「原理原則」は、かえってこちらの都合で割りと勝手に破られてきたようにも思います。

依頼される方についても大体はお気持ちというよりも、親戚やお寺に詳しい人に聞いたり、ネットで「相場」を調べたりして額を決めているのではないでしょうか。

額を決めると払えない人が排除されるというのはその通りです。ただ、ネットでこういうサービスを申し込んだ人は、お寺とのつながりが無いがゆえに、どこに頼んだらいいのかもわからず、更に僧侶を呼んだら法外なお布施を要求されるのではないかという恐れがあり、その不安からためらっていた人が多いのです。

一部ネットで言われるように「戒名に百万円請求された」なんて事は「そんなのマジかよ絶対にありえねぇ!」「そんなのはごく一部だろ、一緒にするな!!」と思う僧侶がほとんどでしょう。しかし、事実としてそういうことをした僧侶はいたわけで、不安を与えてきた私達の有様は事実です。

額を決めることで排除される人もいれば、額を決めないことで排除される人もいるのです。定額が僧侶を呼ぶ不安を軽減して仏教に出遇う道を開いたのなら、それもひとつのお布施のあり方として認めてもいいのではないでしょうか。

(2)のキックバックの問題については、私は業者を紹介料を払うのは当然だと思っていますが、少なくとも依頼者に対しては、どこまでがお布施でどこまでが紹介料であるのかを明示するべきだと思っています。

以前はこのどこまでが紹介料でどこまでがお布施なのかということが明示してある業者もあったのですが、現在は消えているようです。なのでここであえて明らかにしますが、皆さんがこれらのサービスを利用して僧侶に「お布施」を払うと、その中から通常3割から5割、平均で4割くらいがキックバックとして僧侶から仲介業者に払われます。(この問題については新たな記事を書きました。「お坊さん便」と新たな搾取の構造

(3)の葬儀儀式が疎かになるというのは儀式を執行する僧侶次第という面もありますが、経験上これらの業者による葬儀式は設備の回転を高めるために無茶な組まれ方をすることが多く、確かに指摘は当たっていると思います。法事にしてはその限りではないでしょう。

共感する僧侶

そんな中で色々と喧嘩しながらもやって来ましたが、「俺達のシマを荒らすのか」みたいな明らかに理不尽な批判は数えるほどで、批判する人は殆どが葬儀を大切に思って、なんとかご遺族の悲しみに向き合う場を維持したいという思いにあふれた人ばかりでした。それらのこだわりや優しさに触れることが出来たのは自分の僧侶人生の中でも特に得難いことでした。

一方で、共感してくださる方もあったのです。これは「開教寺院」と言われる、最近になって建立されたお寺の方々です。開教寺院は門徒さんゼロか極少ない段階からスタートしますが、戸別訪問して布教するというような形態はとれませんから、多くのお寺はお葬式を通じて門徒さんを増やしていくのです。

こうしたお寺は地元の葬儀屋さんと良好な関係を維持して、葬儀を紹介してもらう中で仏教を伝えていきます。つまり葬儀が布教の場ということです。

そう言われると嫌な感情を持たれる方も少なく無いと思いますが、私たちはご遺族の言葉にならない程深い悲しみの場に何度も身をおくと、人間の「寄り添い」の限界を感じますし、それを知らされる度に、本当の仏様の慈悲を伝えたいとやはり思うのです。

開教寺院の人もずっと定額のお布施やキックバックという問題に悩んできました。しかしある意味で、仏法を伝えるという大きな使命の前にそのことをあえて「呑んできた」人たちです。名刺を持って葬儀屋さんに営業に出かけて頭を下げて来た人たちです。だから様々な問題は問題として共有しながらも、お互い共感と苦労話は尽きることはありませんでした。

私はある研修会で大寺院の住職さんから「葬儀屋に頭を下げて門徒を増やすようなみっともないマネはしたくない」と言われたことがあります。しかし、みっともなくてももっと大事な事があるからするのです。何もしなくても葬儀法要の依頼が入り、ハイヤーで寺に迎えに来てもらえるような人には、到底わからないでしょうが。

私はこういうお坊さんがいることを知ってほしし、これらの人もまた、一人ひとりの仏道を歩んできた尊い人です。批判する人も、賛同する人も、共に如来に動かされて来た人たちです。

僧侶としての歩み

最近知り合ったある住職さんは、「それでも自分にはお布施の額を言わないというのは自分にとっての最後の砦なんだ。やっぱり定額は受け入れられない」といいました。葬儀のお布施を開けたら5,000円だった時も文句ひとつ言わなかったそうです。

私たちは僧侶であるにもかかわらず、出家もしてないし酒は飲むし結婚はするし、自分の生活のことも考えるし子どもを学校にも行かせなければなりません。会社でデスクを並べて仕事をしている人の中にも僧侶がいるかもしれません。もちろん宗派によっては一定期間修行をしたり剃髪したりということもあるでしょうが、普段の生活において僧侶でない人と僧侶にはほとんど差異はありません。

そんな私たちになぜ何万円も払って法事に呼んでくださるのか。それはそこに深い仏教の教えがあるとどこかで感じてくださっているからだろうと思います。

だから私に限って言えば別に商品と思っていただいても構いません。amazonの「みんれび」をはじめとする僧侶派遣サービスには大きな問題のあることを認めつつ、「でも、求められたら私は行き、出来る限り悲しみに向き合い、その中で仏法を伝えるために最大限の努力をします」という事になります。

それが受け入れられないという人がダメだと言っているのではありません。何処に「僧侶」「住職」としての私を置くかという問題だと思うのです。

そして、こうしたネットでの僧侶派遣サービスというのは、寺院間の固定化された経済格差をある程度解消し、お寺の仕事で生計を立てて仏法を弘めたいと思っていてもなかなか叶わなかった人に、突破口を与える機会になるのではないか、という期待もあるのです。

もちろん上に上げたような問題性や、地域性の問題もありそう簡単には行かないだろうという現実も知っています。しかし世の中のあらゆるサービスがインターネットを窓口とした大資本に収斂されることは、猛烈な勢いで進行中の事実で、お寺だけがそれで無縁でいられるとは思いません。

ならば今度はそのフィールドで自分のできることをするというのも、ひとつの住職としての生き方ではないでしょうか。

最後に

最後に、これを読まれている一般の方へ。僧侶から法外なお布施を要求されるなんてことは、話題になりがちですが本当にごく一部の話です。

各宗派の本山に電話してくだされば地元のお寺を紹介してもらえます。敷居が高いのは申し訳ないかぎりですが、amazonでクリックする前にこちらも是非検討してみてください。

私の所属する真宗大谷派はこちら。
http://www.higashihonganji.or.jp/link/kyoumusho/

浄土真宗の法話案内を構成するメンバーは浄土真宗の僧侶ですが、それで良ければもちろんいつでも相談は伺っています。下記メールアドレスまでいつでも連絡ください。
support@shinshuhouwa.info

なぜ念仏一つにこだわるのか【瓜生崇】

今、Facebook界隈で多少話題になっているものに、ある意見書があります。話題と言っても浄土真宗の僧侶を中心にごく狭い業界内の話ではありますが、起案した私のもとには賛同する意見もたくさんいただきましたし、やはり同様に「守旧派」「非寛容ではないか」「器が狭い」といった批判的意見も多数頂いています。

「アップデートする仏教ファイナル」同朋会館開催に対する意見書

11219118_1001109996606385_4233294689191724297_n[1]一度、この意見書を読んでくだされば幸いです。かいつまんで言えば、「同朋会館」という真宗大谷派の本山の施設の中において、「アップデートする仏教」という、藤田一照・山下良道の二師の宗教指導者が主導する講演と座禅や瞑想指導が行われることについて、考えなおしてほしいという意見を書いたものです。これは私と同じく一時期新宗教に身をおいたあとに真宗の僧侶となった、畠山浄さんの主導により出しているものです。

なお、このことは当サイト「浄土真宗の法話案内」のスタッフの意見ではなく、全く私瓜生崇個人の見解であることを付け加えさせて頂きます。

意見書をネットで拡散する理由

こうした意見書をネットで拡散して意見を募るというやり方には異議もあると思いますし、嫌な思いをされた方も少なく無いと思います。それについて説明します。

私は実は以前に大谷派の施設を使った行事を準備していた際に「出場者の中に大谷派を離脱した寺院の子弟がいる」という事を理由に、外すように圧力を受けたことがあります。宗派を離脱するということは周囲に様々な軋轢を生むものであり、それらの人たちの気持ちを考えると強行することは出来ないと判断した当時の実行委員は、出場者の変更という苦渋の決断を行いました。

ただそのことで最後まで納得できなかったのは、一体誰が関わりどういう議論と経緯でこの圧力をかけているのか、「それは話せない」と全く教えてもらえなかったことです。本山は私達への要求を文章にすることすら拒みました。今でもそのことを考えると、とても嫌な気持ちになります。

ですので、意見するならばオープンな場で、対話が可能かつ議論の経緯が誰にでも分かる形でしたいと思ってこのようにした次第です。

魅力的な「アップデートする仏教」の活動

誤解してほしくないのですが、「アップデートする仏教」の皆さんの活動自体を批判するものでは決してありません。今から行事を中止してほしいとか、他の会場でやってほしいと申し入れているのではありません。

宗派の施設をオープンにしていこう、開かれた教団にしていこう、という試みがいま盛んに行われている中で、私達が一体何のために教団の門戸を開き、関わっていかなければならないのか、ちゃんと考えていただきたいのです。

「アップデートする仏教」は私も読みましたが、とても力のある対談で引き込まれるものがあると思いますし、今の伝統真宗教団に足りないものを率直に表していると思います。

形骸化した伝統仏教の中において、日本の伝統仏教を「医療行為が行われていない不思議な病院」であると疑問を持ち、本当の仏教を求めて海外に行って修行してきた経験に多くの人が惹かれるのは当然のことです。

今の伝統教団においては当事者たる僧侶においても、自分のいる教団の教えが本当に人を救うことが出来るのかという疑問を持つ人は少なく無いでしょう。事実、浄土真宗の僧侶の中でも少なくない人たちが、こうした瞑想修行などに惹かれてその道を歩んでいます。

「アップデートする仏教」には「体感」「メソッド」という言葉が幾度も出てきますが、信仰を様々に思い悩んでいる人にとって、こうした言葉が持つ力強さというのは私も十二分にわかるつもりです。何かの「メソッド」によって「体感」するというのは、これ以上ないくらい説得力のある論理だからです。

どうして「念仏」ひとつなのか

しかし、浄土真宗の教えというのは、あえてそこを離れた教えなのです。瞑想や修行、更には祈祷など、あらゆる行から解放される教えと言ってもいいかも知れません。

瞑想や修行で救われたと言われる人がいても私はもちろん否定しませんし、その道を歩もうと言う人がいても全く咎める理由などあるはずはありません。でも、世の中はそんな人ばかりではないわけです。座禅も、瞑想も、何もかも出来ない、どうすることも出来ない存在がある。

例えば末期がんで今まさに死を目前にしている人に、瞑想したら救われると言ってもそれは無理な話でしょう。でも私だって本当は同じなのです。

だって、今日死ぬかもしれない身なのですから。

私は響流書房という小さな電子書籍の出版社を立ち上げて、いろんな方の手助けを頂いてなんとかやってきていますが、最近出した「妙なるいのちこのいのち」という本に、赤禰貞子さんという、病弱で小学校も四年生までしか行けなかった念仏者の話が出てきます。

身体が悪くて普通に働くことが出来ず、粗末な小さな部屋が全てだったけど、薄い小さな本から広大なお念仏の世界に出会われ、人の念仏との出遇いを自らの無上の喜びとして生きた女性の話です。

その方がこんな歌を残しています。

「通ずるの心ほとけの世界なり南無阿弥陀仏の世界なるかな」

浄土真宗の救いとは、ただ「南無阿弥陀仏」という真実の言葉に触れることです。その言葉に触れた時に、独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬだけの人生ではなかったと知らされるのです。

私も、共同署名した畠山さんも、様々な紆余曲折の末にこの言葉に触れた人間です。だから、声を大にして言いたいんです。この言葉を伝える教団であるかぎりは、「医療行為が行われていない不思議な病院」なんかじゃないって。

南無阿弥陀仏と念仏を称え、他の全ての行を捨てることを教えた法然上人を「偏執ではないか」と批判した明遍上人が、天王寺の西大門の数えきれないほどの衰弱した病人に、一人ひとり重湯を与えている法然上人の夢を見て、念仏とはこの重湯のことであったのかと考えを改め、法然上人に弟子入りしたという伝承があります。

この病人のひとりは私です。

寛容であるところと、こだわるところ

今、多くの真宗教団がお参りの減少に悩んでいます。来られている方も多くはお年寄りで、若い人は極少数にとどまります。少なくない人がこの現実に危機感を感じて様々な対策を練っています。

私も多くの人たちと助け合いながら出来ることを地道に取り組んでいる最中です。この「法話案内」のサイトもその一つです。

今回の「アップデートする仏教」のイベントが行われる同朋会館にしても、今までお寺に関心のなかった人を呼び寄せるような意欲的な取り組みを多々しています。

そして中でも一つの宗派の中にとどまらない、宗派や宗教を超えた試みは重要になってくるでしょう。伝統真宗教団はいつの間にか自分たちの宗派の中でしか通用しないような言葉ばかりを生み出して、その中に甘えてどっぷり浸かってきました。そうした垣根を取り払って、お互いの差異や共通する部分を知ることは、そのまま教団外の多くの人に教えを伝える大切な土台を作ると思います。

しかし絶対に外してほしくないのは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という浄土真宗の教えなのです。そのこと一つを守り、伝えられなくなったら真宗大谷派は浄土真宗では無くなります。

「アップデートする仏教」の人たちにはもちろん何の問題もありません。もちろんどちらが優れているという話でもありません。

講演や講義だけなら構いません。しかし、「ただ念仏」ということを唯一の本当の拠り所としてやってきた真宗教団の本山で、瞑想や座禅などの行を行うイベントが、殆どの人が知らないところで決定されるという事があってはならないと思います。やるならやる意味をもっと考えて公にして議論して欲しいのです。

私は過去にはこんなことも書きました。

日本人は異なる宗教に寛容なのか

なんでもやることが器が大きいのではないと思います。本当に大事にしていることがなければ800年も教団は続きません。そこを行動から明らかにした上で、他者を認めていくことが私たちに求められているのではないでしょうか。

地下鉄サリンから20年【瓜生崇】

今日はあの地下鉄サリン事件から20年ということでテレビや新聞でも大きく扱われているようです。あの事件の時、私は新宿駅にいました。何が起きたのかはわかりませんでしたが、突如として訪れた騒然とした空気を感じたのをよく覚えています。

当時の私は都内の大学に通う大学生でしたが、浄土真宗親鸞会という、かなりの問題を抱えた新宗教教団の一員でした。その時も確か4月の大学入学シーズンの勧誘の準備のため、都内の教団の拠点への移動中だったと思います。拠点につくとみなざわざわと浮足立った感じでテレビのニュースを見ていました。

その後、事件がオウム真理教によるものだと明らかになり、上九一色への強制捜査などのニュースがテレビや新聞を埋め尽くしました。私のいた教団では宗教に対するネガティブなイメージを払拭するために、勧誘のトークを工夫したりする一方、今いる信者に対しても「私達の教団はオウムとは違う」どころか「オウムのような邪教に迷う人に泥水をすする人を無くすために、私達が真実の清水を提供しなければならない。」という法話が随分なされました。

私は言われた事を言われたままに受け止め、「オウムに迷うような人を救いたい」と思って必死で活動をしたのです。そして家族の反対を押し切って大学を中退して身ひとつで教団に飛び込みました。目が覚めたのは12年後です。多くの人に迷惑をかけ、そして何もかも失って私はその教団を脱会しました。

ここ数日間報道されるオウム関係の報道を見ながら、あの日々のことをいろいろと思い出していました。人は自分の世界観とあまりに違う生き方をする人を見ると、どうしても「洗脳」とか「マインド・コントロール」という言葉を使ってそれを「納得」しようとします。確かにその要素は非常に大きいと思います。ただ、それだけでは決してなく、やはり私は人生の真実を知りたかったのです。オウムに入った人たちもきっとそうだったろうと思います。矛盾だらけの世界の中で、正しい道を知りたく、正しい道を歩みたかったのです。

教団を脱会して、今度はカルト問題の解決への取り組みをするようになっても、「一体本当は何が正しいのか」という問いは私を苦しめ続けました。縁があって浄土真宗の僧侶になってからも「正しい教え」を探し続けました。ようやくこの問いから解放されたのはごく最近のことです。それは、何が正しいのかわからない、迷ってしか生きていけない私が、そのまま決して見捨てられない如来のはたらきの中に生きていたという気づきでした。安心して迷っていけばいいという念仏の教えでした。

 

私がいた浄土真宗親鸞会という教団は、オウムのような暴力も殺人もなかったし、薬物もヘッドギアもありませんでした。しかし一旦中に入れば嘘と誤魔化しばかりの活動で、じわじわと常識的な感覚を奪ってゆくような教団でした。

カルトへの取り組みを続けて、いままで随分多くのメディアの取材を受けてきましたが、みな「わかりやすい悪質さ」を求めます。しかし皆さんに知っていただきたいのは、オウムのような極めて明確な事件性を持ったところは少数派だということです。相談が多数あるような教団でも、表面的には何が問題かすぐにはわからないようなところが多いのです。

そして、世界を震撼させるような事件を起こしたオウムでさえ、中沢新一や山折哲雄をはじめとして好意的なコメントをした学者や知識人は少なくなかった。

もしあなたが「問題がある」と言われているような教団に行けば、真面目で親切そうな信者が丁寧に迎えてくれるでしょう。そして、洗脳されてる、マインド・コントロールされてると思い込んでいた人たちが、案外自分の考えをしっかり持っていて、質問にも一生懸命答えてくれることに驚くかもしれません。私達と同じように趣味を持ち、最近の映画や音楽の話題で盛り上がるかもしれません。教団や教義の確信に触れる話をしなければ、あなたの前にいる信者はどこにでも居るごく普通の人でしょう。

いやかえって、普通よりずっと親切で真面目で信念を持っているではないか、と思うかも知れません。社会的に大きな事件も起こしてないし、それどころか、既存の教団以上にボランティアなどの社会貢献に、一生懸命に見えるかも知れません。

しかしその裏では、長い時間をかけて教団から離れられなくなった信者に対して、その人生を搾取し続けるような事をしているかもしれない。少なくとも私はそういう教団にいたし、カルト問題に関わる過程でもいくつも見てきたのです。入り口だけみて教団の問題なんて絶対にわかりません。私がいた浄土真宗親鸞会も、幾人かの宗教学者や知識人が好意的な評価を与え、それを教団は徹底的に利用していました。

だからどうか学者や知識人のみなさんは、自分の見た事実だけで簡単に教団に利用されるような言葉を発しないで欲しいのです。具体的には書きませんが、ぞっとするような言葉を幾つか見てきました。皆さんの言葉はたとえ何気なく発したものでも利用されます。覚えておいて欲しいです。

そしてマスコミや大学は、大きな事件や問題がなくても、少なくとも入学シーズンには「誰にでも問題のある宗教にハマる可能性はある」という事を伝えて欲しい。でも近年は随分取り組みがなされるようになってきましたが。

 

最後に伝統仏教教団、特に浄土真宗の僧侶の皆さんへ。つまりこれは私が私自身に言っていることです。私は、オウムの信者が「寺は風景でしかなかった」と言った気持ちがよくわかります。お寺にはなにもないと思っていた。たとえ仏教に大事なことが教えられていると思っても、お寺にそれが残っているとは全く思えませんでした。

でも、私は浄土真宗親鸞会を出て確かにお寺でお念仏の教えに出遇いました。それがなければ、あの教団でのたうちまわった日々はただの失われた月日、迷って苦しんだだけの人生になってしまうところでした。お念仏に出遇っていまようやくあの日々が、自分にとってかけがえの無い道だったのだと思えるようになりました。

私は自分みたいな人がたくさんいるに違いないと思っているのです。だから、一生懸命み教えを伝えたいです。寺も教団も必ずなくなります。でもお念仏は人から人に伝わっていくはず。伝わればそこにサンガが生まれ、さらに出遇っていかれる人がいるはずです。

間違ってる人に正しいことを伝えようという、何かしら思い上がった気持ちで言っているのではなく、教えを真剣にお伝えしようとすることで、人生を真面目に考えて真実を求めたあの思いに、私が帰っていけると思っているのです。

 

日本人は異なる宗教に寛容なのか【瓜生崇】

私がカルト宗教という問題に取り組んで早いもので十年になります。その間、宗教や信仰の問題についての相談を随分受けてきました。

以前、地域の集会で講演を依頼されたことがあります。そこではとある新宗教の教団施設の建設の予定が明らかになり、地域住民の人達が反対運動に立ち上がったのです。私が日本で起きているカルト問題の概略や、そもそもカルトとは何かという講演をしたあとに、集まった人達による議論が始まりました。代表者の方の「あんなカルトを街に入れる訳にはいかない」という言葉の後に、挨拶に来た教団職員の目つきがおかしかったとか、服装が変だとか、マインドコントロールされているという意見が言われました。

その教団に懸念すべき点が無いとはとても言えませんが、特に何か事件を起こしたわけでもなく、ここ最近で言えば社会的に問題となるような活動も見受けられません。しかし住民の皆さんの議論を聞くと、悪く言えば「異質な人達を受け入れたくない」という感情があまりに前面に出ているように思いました。私は帰りに主催者から「もう少し(その教団の)怖さや問題点について、危機感を与えるような話をして欲しかった」と言われ、すこしうなだれてそこを後にしました。

最近、松山大耕氏という臨済宗の僧侶の書いた、「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とはという記事が話題になっています。私が今見ただけでもFacebookの「いいね」数が5.4万と、相当な支持を集めているように見えます。その記事から松山氏の主張をかいつまんで言うと、「キリストの誕生日であるクリスマスをお祝いし、年末にはお寺で除夜の鐘を聞いて、そしてお正月には神社に初詣に行く」というのが日本の宗教の「寛容性」であり、そうした宗教観に世界の宗教家が期待し、注目していると言いたいようです。

世界の宗教家が本当に期待しているのかどうかは置いておいて、この記事の主眼である、宗教をお互いに尊重し理解し合うというのはとても大事なことであって全く異論はありません。ただ、果たして日本だけそんな特別に素晴らしく寛容な宗教観があると言えるのでしょうか。

神社にお参りしない人たち

私の友人のある家族は神社にはお参りしません。七五三にも行きません。クリスマスも祝いません。それはそこが浄土真宗に生きる人の家庭だからです。しかしそうした生き方をすると毎度のごとく「視野が狭い」「非寛容だ」「子供がかわいそう」という声を聞くそうです。

私自身は浄土真宗の僧侶ですが、神職や牧師の友人も多くいますし、お互いにその宗教を敬って生きているつもりです。でも私の家族にはクリスマスも初詣もありません。敬ってないのではありません。浄土真宗の自分たちには必要ないというだけです。

しかし不思議なことに私もまた「原理主義的」とか「非寛容」とか「かわいそう」と言われてしまうのです。これは今だけの話ではありません。江戸時代には浄土真宗の門徒が東北に多く移住していますが、信仰上の理由から神社に参拝せず祭事にも参加しない彼らの生き方は、元からの住民の間に深い軋轢を生じさせたといいます。

私は神社にもお寺にもクリスマスにも行くというのは、それはそれでひとつの立派な宗教観だと思います。それがおかしいとは全く思っていません。しかしそれは決して「寛容」なのではなく、ただその人にとっての宗教がそうであるというだけのことではないでしょうか。少なくともそのくらいのことなら外国の人が観光で日本を訪れて神社仏閣を敬うのと大差あるとは思えず、日本に特有のものとも思えません。

カルトの問題への様々な取り組みを続けていると、個別の宗教のもつ社会的な問題性を論ずる前に、宗教を真剣に信仰する人たちを冷ややかに見下す思いを根底に感ずることが少なくありません。しかし宗教というのは得てしてその人の全存在を支える根拠になりうるものです。私の人生が宗教そのものであるという信仰もあるのです。そのような信仰であれば価値観や生き様が根底から変わっていくのは当然ありうることで、そこには衝突も当然生ずるでしょう。

本当の寛容さというのは、神社も参りクリスマスも祝うという所にあるのではなくて、神社にいかずクリスマスにも参加しない人がいても、つまり我々の価値観や習慣と全く異なる宗教を持った人がいても、それを認めて理解していく所にあるのではないでしょうか。

寛容という言葉で非寛容を裁いてしまえば、それはもう寛容とは言えないのです。

日本仏教の寛容性

松山氏はさらに日本の「寛容な宗教観」に神道の影響を受けた「日本で独自に洗練されてきた仏教のスタイル」があると主張します。しかしそもそも日本の神道や仏教とはそんなに寛容なものだったのでしょうか。

日本の仏教教団は歴史の中で常に様々な権力については離れ、必要とあれば自分たちを脅かす勢力を徹底的に潰してきた歴史があります。興福寺や延暦寺の僧兵が勢力争いの抗争を頻繁に繰り返してきた歴史は有名ですし、私の属する浄土真宗もその渦中で大きな弾圧を受け、大規模な戦争にも発展しています。

その浄土真宗も大教団となった後には権力と結びつき他の宗教の弾圧に加担しています。寺檀制度はそもそもキリスト教などの異端勢力の締め出しが大きな目的の一つでした。近代になってからは廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの仏閣はバーミヤンの大仏のように破壊され、仏教諸派は国家に服従して戦争協力の道を突き進みます。そして神道は国家主義と結びつき学校や公共施設では神棚への礼拝が強要され、一方大本教などの新宗教を弾圧するようになります。

つい最近までこうした抗争と弾圧の歴史を繰り返してきた日本の仏教や神道を、いまさらになって「1500年以上かけて洗練されてきた」寛容性のスタイルと言われても、歴史を多少でも知る人なら一体何を言っているのか訳がわからないでしょう。

この事実を見ると、日本人は宗教に特別寛容なのではなく、自分たちの共有する価値観と権威に対して寛容なだけだと言われても仕方がないような気がします。

本当に寛容な宗教観とは

記事には松山氏が提案した「画期的」なる宗教駅伝なるものが紹介されています。世界の異なる宗教家でつながる駅伝ということでこれ自体はとても素晴らしいことだと思います。ただ、少々意地悪な言い方をしてしまえば、「自分たちを脅かす可能性がない人たちとは仲良く出来る」だけの事のようにも私には思えます。

いまヨーロッパでは教会がモスクに鞍替えするというケースが多くみられるそうですが、日本の伝統的な寺院が改装され次々とモスクになるような事態が私達に訪れ、全く異なる価値観や生き様の人びとが大量に生まれるような事態が訪れたとしても、私達は寛容でおれるでしょうか。

400年前、浄土真宗が急激に拡大していった時に起こったことは、既存の仏教宗派との激しい衝突と弾圧でした。その浄土真宗も今は伝統教団の一角として日本の宗教を代表する存在の一つになっています。そう思うと、今後日本で宗教地図をひっくり返すような変化が訪れないとは誰も言えないでしょう。

異なる宗教観の対話や理解が大事なのは言うまでもないことです。そこを否定するつもりは全くありません。

ただ、今私達に必要なのは、イスラムとの衝突に揺れるヨーロッパを他人ごとのように見ながら「日本の寛容な宗教観に世界が期待している!」などと鼻高々に自負するのでなく、激動の世界の中でいつか私達も同じような事態に直面し、異なる生き様や価値観を許容しなければならないだろうという覚悟だと思います。

寛容になれないかも知れない私達が、それでも寛容になってゆこうとする謙虚さが、いま最も求められているのではないでしょうか。